02


組頭、と呼ばれていた頃の記憶が私にはあった。ゆっくりと思い出していった昔の記憶は酷く殺伐としたものだった。
思い出せば思い出すほど、私は酷く苛立つようになっていった。今の私には何かが決定的に足りない。でも、それが何なのかは何度考えてみても分からないのだ。とても、とても大切なことを私は忘れている気がするのに思い出せない。その苛立ちは酒でも煙草でも誤魔化せず、ただただ何年も無の時間を過ごしていた。気晴らしに女を抱いてみても、何かが違うと思い知らされるばかりだった。それでも、足りない何かを補うように私は女の誘いに乗り、遊び人の名を欲しいがままにしていた。
昨夜も酒を飲んで適当な女とくだらない時間を過ごした。退屈で、特に気持ちも良くない行為。女なんて世の中で一番軽蔑している生き物だ。人を見た目とか肩書きとか、そんな上辺のもので判断して擦り寄ってくる。本当にうんざりするし、気持ちが悪い。猫撫で声で媚を売られてゾッとする。事が終わって帰れと言えば案の定、嫌だと騒ぎ出し、週末で疲れていたこともあって面倒で放っておいた。
そして朝、珍しくチャイムが鳴った。重い体身を引きずって隣に寝ている女を見向きもせずにフラフラと玄関へ向かう。

そして、世界が変わった。

なまえを見た瞬間、鮮明に記憶が蘇った。モノクロだった世界が一瞬で色付くのを感じる。何故、こんなにも大切な子のことを忘れていたのだろう。あんなにも愛していたのに。
きょとんと首を傾げるなまえが可愛くて、ぎゅうっと擬音が聞こえる程に強く抱き締めると、ふわりと香るにおいが懐かしい。あぁ、間違いなくなまえだ。小さな身体で懸命にジタバタと抵抗する姿さえも、あの頃と何ら変わりない。嬉しくて、愛おしくて、確かめるように触れた。夢じゃない。私のなまえがいる。私の、私だけの可愛いなまえ。
胸が痛いほど苦しい。そうだったね、恋ってこんな感覚だった。苦しくて、切なくて、嬉しくて、愛しくて。そして、全て欲しくなる。なまえの全てを自分だけのものにしたい。この子を誰の目にも触れず、ほんの少しの傷さえもつかない所に大切にしまっておきたい。そう思った。だけど、そんなことはしない。きっと、そんなことをしたら余計に傷付けてしまうから。過去の失敗を繰り返すような真似はしない。
煙草に火をつけて、何から話そうか、どう口説こうかと考えていると、なまえが緊張したように話し掛けてきた。


「あの、お隣さんは…」

「雑渡昆奈門だって」

「…雑渡さんは、私のことを知っているんですか?」

「よーく知ってるよ」

「あの…何故?」

「昔、恋仲だったから」

「は?」

「まぁ色々あったけど、少なくとも私は好きだったよ」

「いやいやいや…」

「ふふ、またなまえに会えてよかった。私は嬉しいよ」

「………」


どうやらなまえには前世の記憶が全くないらしい。これは前世で私が犯した罪の罰なのだろうか。
でも無理に思い出す必要はない。辛いことも一緒に思い出してしまうのだから。都合がいい話かもしれないが、なまえが私を覚えていなくて少しだけほっとした。いっぱい泣かせた。意地ばかり張っていたせいで遠回りをして何度もなまえを傷付け、最期の瞬間まで私はなまえを突き放して泣かせてしまった。今度は誓って、そんなことは絶対にしない。今度こそ必ずなまえを幸せにする。そして、今度こそ二人で生きるんだ。ずっとずっと二人で歳を重ねていく。二人で幸せに生きていく。そのためなら私は何だって出来る気がした。


「雑渡さん、その…」

「ん?」

「今の話がよく分かりませんが、とりあえず私は、あなたのことを全然知りません。だから、その、困ります…」

「まさか、恋人でもいるの?」

「いないけど…でも」

「じゃあ、私でいいじゃない」

「だ、駄目です…っ」

「どうして?」

「私、付き合う人は好きになった人がいいんです」

「そう」

「だ、だから私は雑渡さんとは…」

「つまり、私がなまえを夢中にさせればいいということだね。じゃあ、手始めに私と身体でも重ねてみようか」

「な、ななな…っ」

「ぷっ。冗談だよ」


顔を真っ赤にさせて震えているなまえの頭を撫でて、頬に優しくキスをした。まぁ、ね。今は頬で我慢しておこう。今は、だけどね。大丈夫、時間はたくさんあるんだから。
今のなまえのことをもっと知りたくてたくさん質問した。初めは緊張していた様子だったが、次第に落ち着きを取り戻したなまえはたくさん教えてくれた。大学生であること、昨日隣に引っ越してきたこと、一人暮らしをしていること。なまえは私についても尋ねてきた。だけど、ごく簡単なことのみを伝えるに留まった。私のことはなまえを愛している男とだけ知っていてくれれば今はそれでいい。私は変わるから。きっとなまえを大切にする、頼り甲斐のある男に変わるから。だから、今の私なんて知らなくていい。
知られるわけにはいかない。私のせいでなまえが昔死んだことなんて、絶対に知られるわけにはいかない。


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