綺麗な彼女
この城で近寄るなと言われている人が何人かいた。そのうちの一人が彼だった。背が高く、火傷と傷だらけの身体を包帯で隠している彼の名は雑渡様というそうだ。位が高く、お忙しい方で、殿も信頼を寄せておられるとか。そんな雑渡様の側にはいつも一人の女性がいた。お綺麗な方で、武将のご令嬢だと聞く。雑渡様には決して近寄るな、と言われている理由が彼女だった。お綺麗な方ではあるが、とても嫉妬深く、目をつけられたら何をされるか分からないそうだ。実際、彼女が原因で城を去った者が何人かいるという噂を耳にした。
言われなくとも私のような雇われたばかりの女中が雑渡様に近寄ることなど出来ない。近寄ったところで特に話をするようなこともないし、彼に気に入られたいとも思っていない。あんなにも恐ろしい見た目のお方に近寄りたいと思う女性は何を考えているのだろうか。甚だ疑問である。
そう、私はそのような考え方をしていた。だから当然のことながら雑渡様には自分からは近寄ったりはしていない。なのに、向こうから近寄ってこられてしまった。
「これを頼めるだろうか」
「か、かしこまりました」
「悪いね。独り身なものでね」
助かるよ、と言われながら渡された包みには、ほつれた忍び装束が入っていた。何故、私にこのようなことを頼まれるのか尋ねようとしてやめた。きっと彼女は裁縫が得意ではないのだろう。私のような貧しい家庭で育ったわけではないのだ、きっと針仕事など必要がなかった。だから適当な女に頼んでいるのだと思った。
大きな着物を縫い合わせながら、彼の背は私が思っているよりも遥かに大きいことを知った。彼女はこの背に護られているのかと思うと、無意識ではあったけど、羨ましいとさえ思った。彼は決して身近な存在ではないが、着物を通して一人の男性として意識してしまった。だからどう、というわけではない。私は別に彼を好いているわけではないし、恐れ多くも好かれたいなどとは思っていない。ただ、私もいつか想い人に護られる日が来るのだろうかと、そう漠然と思った。
彼と接触する機会なんてそうあるわけではないから、着物をいつ渡せばいいのだろうかと思い悩んだけど、その心配は杞憂に終わった。自室に置いていたはずの着物はいつの間にか消えており、彼が取りに来たのだと分かる。何故、彼が取りに来たと思ったかと問われると、非常に言いづらいが、着物の代わりに手紙と小箱が置いてあったからだ。手紙には短く感謝の意が綴られており、小箱には簪が入っていた。何と律儀な人なのだろうか、と思ったが、これを私は頂いてもいいのだろうか。それほどの働きはしていないというのに。
それでも、嬉しくて翌日から私はこの簪を頭に挿し、仕事に勤しんだ。廊下を磨いていると、彼が目に入った。やはり隣には彼女がいた。彼女はいつものように彼に綺麗な顔で笑い掛けていた。彼の目は彼女に向かっていたけど、ふと顔を上げ、私を見た。目が合うなり彼は目を細めて私に笑い掛けてきてくれた。このあまりにも優しい眼差しに動揺した私は思わず顔を背けた。彼はあんな風に、穏やかな顔で笑うのか。
「何故、顔を背けるの」
「ぎゃあ!雑渡様…っ」
「これは傷付くな。そんな、人を化け物のように」
「ち、違います!ですが、彼女が…」
「彼女?あぁ、あれ」
あれ、と呼ばれた彼女は雑渡様が手でどこかに行けと追い払われていた。彼女は悔しそうな顔をしたけど、素直に立ち去っていった。残された私は恐怖のあまりに震えた。
彼女に目をつけられてしまった。私はもう終わりだ。きっとこれからとんでもなく叱咤されるのだろう。そして、じわじわと私を虐め、私は耐えられずにこの城を去ることになる。そんな惨めな未来が見えた。例え彼女に私が雑渡様とは何ら関係のない人間だと言っても、きっと納得はして貰えない。あんなにも恵まれた人であるにも関わらず、私のようなちっぽけな女が雑渡様とお話をするだけで嫉妬に駆られてしまうのだ。彼はきっとそれ程までに魅力のある男性なのだろう。
「あれはね、私に付き纏う奇特な女の一人だ」
「一人、ということは他にもいらっしゃるんですか?」
「まぁねぇ。厄介なことだよ」
「厄介などと…あぁ、いえ、失言が過ぎました」
「失言かはともかく、その簪。よく似合う」
「あ、ありがとうございます。この様な品を頂く程の働きなどしてはおりませんが、身に余る光栄です」
「なまえ」
「は…何故、私の名をご存知なのですか?」
「さて。何故だろうか」
ふ、と笑った雑渡様は私の質問をのらりくらりとかわした。どうやら素直に答えて下さる気はないようだ。
知ってはいたが、この人は随分と大きい。顔の殆どを隠しているからだろうか、表情があまり読めない。先程のように目を細めて笑わなければ、私は彼が笑ったことにも気付かなかったことだろう。こうして言葉を交わすのはまだ二度目だというのに、彼の着物に触れたからだろうか、少しだけ彼のことを知りたいと思ってしまった。
とはいえ、私は彼を知りたいなどと思える立場ではない。それに、彼女に間違いなく目をつけられた。次の職場を早く探さなければならないし、恐ろしい思いをする前に消えたい。
「なまえ。今日はもう終わりか?」
「い、いいえ…まだ廊下を拭き上げておりませんので」
「そうか。終わりか」
「いえ、ですから…」
「私が終わりと言えば終わりだ。おいで」
何と傍若無人な振る舞いなのだろうかと驚かされたが、彼はそれを許されるだけの立場にあるお方なのだろう。
雑巾を放り投げられて城下町へと連れて行かれた。町は賑わっており、とても楽しげな雰囲気が漂っていた。この空気を作ってくださっているのは紛れもなく殿であり、その殿を支えているのは雑渡様率いる忍軍なのかと思うと、とんでもない人の隣にいるのだと思わず身体がビシリと強張った。
「先日、その簪を購入した時に美しい紅を見付けてね。購入したいと思ったが、私ではどの色が似合うのか分からなかったんだ。なので、ここは一つなまえに選んで貰いたくてね」
「成る程」
「私はこれがいいと思うのだけど、なまえはどう思う?」
「どなたに贈られるのですか?」
「これは分かりきったことを聞くね」
「…ですよね。分かりました」
彼女に贈るのだな、と分かる。彼は付き纏われていると言ったけど、それでも側にいることを許しているのだ、彼も彼女のことを好いているのだろう。
彼女のように綺麗な方ならば、と選んだ紅を彼は不思議そうに眺めた。本当にこれがいいのかと思っているようだった。
「これは幾らか派手ではなかろうか」
「彼女のお顔には映えると思います」
「一つ聞くが、これは誰に贈る物だと思っている?」
「彼女でしょう」
「彼女…とは、あの女のこと?」
「違うのですか?」
「…あぁ、いや。そうか、そうだね」
面倒くさそうに彼は紅を手に取った。そして、初めに彼が指差した紅と共に購入された。彼がいいと言った品は淡い色合いで、だけど、上品なものだった。付き纏っているのが一人ではないと言っていたのだ、もしかしたら別の女性に贈る気なのかもしれない。
そして、翌日から想像通り私への嫌がらせが始まった。磨いた所を煤で汚される、庭を履いていると突き飛ばされる、見窄らしいと嘲笑われる。そんな日々を送ることになった。
身も心もボロ雑巾のようになった頃、私は退職願を綴った。それと共に一通の文を認めた。宛名は当然、書けはしない。彼に宛てるにはあまりにも稚拙な内容だったからだ。それでも、この想いを書き起こし、未練など全て捨ててからこの地を去りたいと思った。そうでなければ私は次には進めない。
小さな荷物を持って、まるで夜逃げをするかの如くこそこそと暗闇を歩いていると、背後から声を掛けられた。
「こんな夜更けに散歩とは随分と趣味がいい」
「ひぇ…っ、雑渡様…」
「どこへ行こうとしている?」
「宛てはありません」
「ほぉ?野宿は女子にはあまりに危険ではなかろうか」
「それでも、あのまま城にはいられません」
「何故?」
「…お分かりになられませんか?」
忍びとは鋭いものなのではないのだろうか。それとも、彼が鈍感なだけなのだろうか。いずれにしても、彼女のせいだとはとてもではないが言えなかった。それでも、私には彼から頂いた簪がある。この簪を抱いて眠ることが日常となってしまった私にとって、彼は恩人とも呼べる存在だろう。だから最後に会えてよかったのかもしれない。
雑渡様には近寄るな、と言われた意味が分かった気がした。それは彼があまりにも魅力的な方だからだろう。彼の一つしかない瞳に私を映し出して欲しいと願う女性の一人になってしまっては最後、焦がれて取り返しがつかなくなる。あの忠告にはきっとそんな意味合いを含んでいたのだと思った。
「ふむ。私が囲ってやるのは簡単だが、なまえはそれを望みはしないだろう。そう思って泳がせていたのだけどね」
「私は貴方様に囲って頂いても、彼女のような扱いは受けられません。ですので、そのようなお心遣いは不要です」
「またあの女の話か。あれは何でもない女だ」
「そのようなことを言われては、彼女があまりに不憫です」
「ほぉ。あれにあの様に扱われてもまだ、あれを庇うのか」
「…やはり、ご存知だったのではありませんか」
「知っていたとも。いつになったら私に助けを求めてくるのかと待っていたのだけどね。私は心底、残念でならないよ」
そう言って彼は私を抱き締めた。遠くの方で木々が風で揺れている音が聞こえる。後は私の鼓動以外何も聞こえなかった。ドクドクと煩い鼓動が彼に伝わってしまったらどうしようかと思ったけど、抱き締められているうちに聞こえる鼓動がもう一つあることに気付いた。あまりにも速い鼓動は私の鼓動をよりいっそう速めた。
私は恐れ多くも彼の背に手を回した。私が繕った着物はとても冷たかったけど、今は指先から彼の温もりを感じる。
そして、私は彼に囲われる身となった。誰もが私を敬い、私に頭を下げてくれる。当然、嫌がらせなどされることはない。件の彼女の姿はあれから一度も目にしてはいない。彼に彼女のことを聞くと、やはり彼はのらりくらりと話題を逸らした。だけど、後々他所の土地へと嫁いだという噂を耳にした。それは彼が仕組んだことなのか、それとも彼女が自ら望んだことなのか、それは最後まで分からなかった。
「あぁ。やはり、なまえにはこの色が似合う」
「…初めから、私のために購入されたのですか?」
「そうだとも。他に誰がいるの」
「貴方には多くの取り巻きがいましたので」
「そうだね。なまえは最後まで私には自ら寄って来てはくれなかった。寂しいことだ、目を腫らすほど泣いてしまうよ」
「そのような嘘は私には通用しませんよ」
「これはこれは。流石、忍び組頭の妻を務めるだけはある」
すっと紅を指先でさしてきた夫に笑い掛けると、彼は至極満足そうに笑いながら塗ったばかりの紅を私の唇から奪い取って行った。ほんのりと色付いた唇をなぞり、とても艶のある表情を携えながら私の膝に頭を乗せ、何事もないかの如く本を開き、再び続きを読み始めた。
そろそろ床を磨くことを再開したいと私が言うと、彼は「もう終わりでいい」と言った。彼が終わりだと言えば終わる、というのは残念ながら間違いだ。少なくともこの家では。
彼は何故、私に興味を持ったのだろう。彼女のような美貌もなければ、育ちがいいわけでもない。歌を詠むことが出来るだけの教養があるわけでもなければ、恋文を認めるだけの文才があるわけでもない。それでも、彼は私を欲してくれた。近寄るな、と言われていた彼に私は自ら近付いたりしていない。だけど、理由は分からないが、彼の方から寄ってこられてしまった。
きっかけとなった針仕事をしようと大きな着物を開くと、彼の顔が着物で隠れた。読書の邪魔だと言わんばかりに着物を払おうと彼は腕を伸ばしてきたから、着物ごと抱き締めた。
「幼子のようなことをするものではない」
「あなたの瞳に私を映して欲しいと思いまして」
「残念ながら何も見えやしない」
「離したら、文字ではなく私を見て下さいますか?」
「さぁ。どうしようか」
起き上がり、被せた着物を投げ捨てた彼は私をじっと見つめた。ほんのりと細めた瞳には笑った私が映っていた。
綺麗な彼女
よく聞く話だが、忍びを長らくしていると心の綺麗な女に惹かれるそうだ。裏切りが常となっているからだろうか、純朴な女に惹かれる傾向があるそうだ。
なのに、寄ってくるのは打算的な女ばかり。それでも、退屈を凌ぐには都合がいい。私の隣にいる女が正にそうだ。
鼻につく甘えたような声で話し掛けられ、いつものように適当に相槌を打っていると庭を履いている女が目に留まった。必死に落ち葉を履いているが、木からは絶え間なく葉が舞っている。なのに、律儀に落ちた葉を履いているものだから、思わず笑ってしまった。あれではキリがなかろうに。何と生真面目で、愚かな女なのだろうかと思った。
そうだな、私は共に過ごすのならば、ああいう女がいい。あんな風に穏やかな、護ってやりたくなるような女。
「何を見ておられるのです?」
「何でもない。それより、近い。もう少し離れろ」
「嫌です。雑渡様は私のものだもの」
「お前のものになった覚えなど私にはない」
「そんなつれないことを言わないで下さい」
よくこの女は綺麗だと言われているのを耳にするが、果たしてそうだろうか。顔立ちこそなかなかのものだが、全くもって私は綺麗だとは思わない。どちらかといえば醜く、そしてまた哀れな女だとさえ思っている。
あの子は私が近寄れば、どんな反応を示してくれるのだろうか。そう思い、適当な雑用を頼んでみた。すると、予想通り丁寧に対応してくれた。どうせ好かれるのならば、私はこの子がいい。彼女なら私を打算的な視点ではなく、一人の男として求めてくれるのではないだろうか。そう思った。ところが、彼女は私に付き纏っている女のことを私が愛していると思っていた。実に不愉快であり、そして、彼女が私に対して何の感情も抱いていないのだと知り、少しだけ胸が痛んだ。
「もう、おやめ下さい」
「なに」
「わざとこの着物を裂かれましたね?」
「なんだ。気付いていたか」
「こんなことをしなくても、私はあなたを慕っていますよ」
「いや、なに。構ってもらいたくてね」
「どちらが幼子なのです…」
「いけない?」
「いけません」
「これは手厳しいことだね」
妻の髪から簪を抜く。ただのきっかけをと思い購入した品をなまえはいつまでもこうして愛用してくれている。
恋の始まりなど、本当に些細なことだ。それでも、私は彼女によって救われているところがある。だからあの時、あの場でなまえを見つけることが出来たことは幸いであり、そしてまた、あの性格の悪い女が私の側にいたことは幸運だったとしか言いようがない。結果として、あの女のお陰で私は心の綺麗ななまえと夫婦になることが出来たのだから。
[*前] | [次#]
小説一覧 | 3103へもどる