★10年越しの恋


「さようなら。好きだったよ」と言って別れた彼とまさかまた会うことになるなんて誰が予測出来ただろうか。
漫画でよく見る、転職したら…とか、引っ越したら…とかではなく、本当にただの偶然遭遇した彼と互いに目を合わせ、ほんの少し気まずくなって俯く。なのに、彼は何気ないような声色で私に「久しぶりだね」と言った。それだけで心が抉られる。あの別れが懐かしくなって胸が痛くなったりだとか、あの楽しかった日々が恋しくて触れたくなったりだとか。そういうのは彼にはないのだと思うと、こんなにも切なくなってしまう私は一人、まだあの幼かった恋愛を引きずっているのかと悲しくなる。だけど、それは当然のことだ。あれからもう10年も経っている。元より年上だった彼は更に大人になり、まだ幼かった私も大人になった。それだけの年月が経った。


「この辺りに住んでいるの?」

「…うん」

「そう。じゃあ、また会うこともあるだろうね」


そう言って彼は笑った。この言い方からして、彼もこの辺りに住んでいるのだろう。だけど、もう二度と会いたくはないと思った。彼はきっともう私のことなんて何とも思っていないのだろうから。
コンビニから小さな袋を下げて家に帰る。彼の写真…と探したけれど、一枚も残っていなかった。別れた時に全て処分してしまったからだ。彼を早く忘れたくて。
彼と私は10年前に別れた。お互い、嫌いになったわけではなかったのだけど、私は遠くの街に就職した。遠距離が出来ると思えるほど私は成熟しておらず、駅のホームで別れたのが最後だ。まるでドラマみたく、彼はホームまで見送りに来てくれた。既に社会人だった彼は私に「向こうに行っても元気で」と言い、心にこびりついて離れなくなるような切ない声で私に別れを告げた。私は泣いていたし、本当は彼に「結婚して」と言いたいくらい別れたくなかった。だけど、二人で話し合って別れることを決めた。彼は「都会に行けばいい男なんて五万といる」と冷たいことを言ったし、私は「あなたは女性が放っておかないから、きっとすぐに彼女が出来る」と強がりを言った。二人で顔を見合わせて「そうだね」と言って別れたのだ、未練はあろうとも終わりにしようと二人で決めた。だから、終わりにしたかった。なのに、この10年、何度彼を思い出したことだろうか。彼氏が出来たこともあった。同棲したこともあったし、プロポーズだってされた。なのに、こうして地元に戻ってきてしまったのは、どうにもしっくり来なかったからだ。
あの人は今、彼女がいるのだろうか。もしかしたら結婚しているかもしれない。そう思うだけで胸が張り裂けそうだった。だけど、その想いは誰にも告げてはいけない。もう終わった関係にいつまでも未練がましくしがみついていたところで、何一つ幸せにはなれないのだから。あの時、彼がくれた幸せは私の胸に留めておくべきことだし、もう彼の温もりも優しさも手離してしまったものだ。今更、彼と付き合えるなんて思えるほど私は楽天的ではなかった。
最後の日、彼は言った。「幸せになれそう?」と。だから私は答えた。「勿論、幸せになるよ。だから、あなたも幸せになって」と。電車の発車ベルが私たちを引き裂き、私がドアが閉まってから息が出来ないくらい泣いたことなんて彼は知らないし、知らなくてもいい。
きっと、10年後にはお互いが家庭を持っていて、あの時の別れは無駄ではなかったと思えるだけ幸せになろうと誓い合った。なのに、私は未だに独身である。別に彼が忘れられなかったことが原因だとまでは言わない。だけど、彼のふとした仕草や表情が脳裏に浮かばなかったのかと言われたら嘘になる。私は彼とそんな恋をしていた。
また会うことを示唆された翌日、やっぱり私は彼と会った。彼は昔と変わらない銘柄の煙草をコンビニで吸っていた。あの頃と同じ缶珈琲を片手に持ち、退屈そうに空を見上げながら。このまま引き返そうとした。だけど、彼に見つかる方が早かった。彼は私を見るなり微笑みかけてきてくれた。


「やぁ。お疲れ」

「…昆こそ」

「うん。今週も働いたね」

「そうだね」


ただそれだけ言葉を交わしてから私は逃げるようにコンビニに入った。このまま会話を続けていたら私は彼を食事に誘ってしまいそうだったから。絶対にどこにも行かないという決意表明のために菓子パンを二つ買う。万が一彼から誘われても断れるように。
コンビニから出ると彼はいなかった。ホッとした反面、少しだけ残念と思ってしまった自分が恨めしい。私はいつまで彼を引きずるつもりなのだろうか。もう前に進みたいのに。


「や。ドライブでもどうですか、お嬢さん」

「…嘘でしょ。待っていたの?」

「気が付いたらなまえが出てきただけだよ」

「そう」


コンビニから出た私に彼は車の窓から声を掛けてきた。あの頃のように嘘をついて。
私は彼が好きだった。だから、彼が嘘をついていたらすぐに分かってしまう。ほんの僅かな表情の変化だって見逃しはしない。それほど私は彼が好きだったから。だから、彼が嘘をついていることはすぐに分かった。嘘をつくとほんの少しだけ笑うのよ、あなたは。本当は私を待っていたのでしょう?
窓からは彼の煙草のにおいがした。あぁ、彼のにおいだ。私が好きだった彼のにおいがする。そう思うと懐かしくなって、つい拒否出来ずに車に乗り込んでしまう。あの頃はお金がなくて、車のローンを返すのが大変だと言っていたのに、こんな高そうな車を買えるようになったのかと思うと感慨深くなる。買ったばかりの車でドライブにたくさん行った。海も山も行ったし、夜は夜景を見に連れて行ってくれた。楽しくて、まだ家に帰りたくないと駄々をこねて彼を困らせたなぁ。彼の家に泊まりたいと言うと彼は必ず「ご両親が心配するから今日は帰りなさい」と言った。それが当時はとてもつまらなかったけど、今なら何となく分かる。彼は私を大切にしてくれていたのだ。
彼は私が持っていたコンビニの袋を見て、くすりと笑った。


「まだ好きなの?メロンパンと苺のサンドイッチ」

「好き。昆こそ、まだその安い缶珈琲なの?」

「仕方がない。これが一番しっくりとくるんだから」

「私もそうだよ」

「そう。お互い変わらないこともあるものだ」


彼の車が走り出した。私がどこに行くのか尋ねたら、あの頃のように内緒だと言った。その方が着くまで楽しいでしょうと悪戯っぽく笑う彼の顔はあの頃と変わらない。
車の中で思い出話に花が咲くものかと思ったけど、私も彼も過去のことは何も話さなかった。その代わり、今何をしているとか、別れてからこんなことがあったとか、お互いに知らない空白の10年の話をたくさんした。
連れて行かれたのは、県の端っこだった。昔も来たことがある。だけど、あの頃にはこんな建物はなかった。海を見渡せる建物の中は電飾で彩られていて、とても雰囲気がよかった。まるでデートスポットのような所に連れて行かれて思わずテンションが上がってしまったけど、彼は何人の女性とここに来たことがあるのだろうか。そう思うと身勝手な話だけど、少しだけ胸が痛んだ。私だって彼と別れてから色んな人と付き合ったのだ。彼だって色んな人と付き合ったことだろう。それは自然なことだ。逆に10年ずっと私を忘れられず誰とも付き合わなかったと言われた方が怖い。10年という時間はそれほど長いものだ。互いに縛り続けるには長過ぎる。


「ここはね、なまえが行ってすぐ出来たんだ」

「そうなんだ。残念」

「なまえ、好きそうだなーと思って」

「うん、好き。昼はまた違う景色が見えそうだね」

「だろうね。また連れてきてあげる」


そう言って彼は小指を差し出した。彼はこういうことをする人だった。次の約束を必ずしようとする。それが私は好きだった。彼が私とまたどこかに行きたいと思ってくれているということだから。だけど、私は彼と小指を絡めることをしなかった。期待したくなかったからだ。別れる前と同じようにまた一緒にいられる。その期待を裏切られるのは怖かった。
私が約束を交わすことを拒否し、笑って誤魔化すと、彼は驚いたような顔をした。そしてどこか互いにぎくしゃくしてしまい、来た時とは真逆の雰囲気で地元へと送ってもらう。何となく住んでいるアパートを知られたくなくて、駅で降ろしてもらった。ここで、と私は言ったのに、彼は駅のホームまで着いてきた。私たちが別れた、あの時のように。


「わざわざ見送りなんていらないのに」

「前もそう言っていたね」

「だって、私たちはもう別れていたから」

「不本意だったけどね」

「もう私たちは10年前に終わったの。そうでしょ?」

「あぁ、そうだね」


電車が来る灯りが見えた。あの頃と違って私は泣いていないし、彼も辛そうな顔をしていない。永遠の別れではないのだ、私たちは。同じ地域に住んでいるし、また偶然会うこともあるだろう。だけど、こうしてもう私を待ち伏せするようなことはしないで欲しい。10年前に戻れる気がしてしまうから。過去の思い出に縋るような関係に私は彼となりたくないから。街も、景色も、私たちも変わってしまった。だから、もう私たちは会えない。
電車に乗り、彼に手を振る。あの時のようになるべく綺麗に笑えるように意識したけど、ちゃんと笑えているだろうか。必死に必死に笑顔を作っていると、発車ベルが鳴った。黄色い線の内側に行かないと危ないよ、と私が言うと、彼は私の身体を引っ張り、抱き締めてきた。無情にも電車のドアは閉まり、発車してしまう。私と彼だけをホームに残して。


「な、なに…電車に乗れなかったじゃない」

「…行かないで」

「駄目だよ、帰らないと」

「あの時、本当は引き止めたかった。別れたくなかった…」

「…っ」


そんなの、今更だ。本当にそう思っていたのなら10年前にそう言って欲しかった。就職がこっちで決まらなかった時に「一緒にいよう」と言って欲しかったし、電車に乗る前に「別れたくない」と言われたかった。10年前にそうなっていたら、私たちはどんな今を過ごすことが出来ていたのだろうか。もしかしたら結婚していたかもしれないし、もしかしたら結局別れていたかもしれない。どちらでもいい。もう過ぎたことなのだ。
だから、私は彼の背に手を回してはいけない。なのに、気が付いたら抱き合っていた。彼のにおいも温もりも何も変わらず、懐かしさと愛しさで胸がいっぱいになる。あぁ、だから嫌だったんだ。彼と一緒にいたら過去に戻りたくなるから彼とはもう会いたくなかったんだ。彼とは過去ではなく、遠い未来を見る仲になりたい。だから私は彼から離れなければならない。だけど、もう手遅れだ。私は彼が好き。彼以上の人なんてどこにもいなかった。
10年後、私は彼と幸せになっているだろうか。10年前に二人で望んだ未来を手にすることは出来ているのだろうか。彼にそう聞くと、彼は嬉しそうに「その答えは私たちに委ねられている」と笑った。あの頃よりも少しだけ大人びた顔で。


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