07


雑渡さんと出掛けてから二日後、急に音沙汰がなくなった。あれほど毎日来ていたのに、全く姿を見せない。やっぱり遊ばれていたのかな、とか、やっぱり退屈だったのかな、と思って悲しくなった。だけど、雑渡さんが私に言ってくれた言葉は嘘ではないと信じたかった。会えてよかった、なんてあんなに幸せそうに言われたのに、あれが私を弄ぶための嘘だなんて信じたくはなかった。そして、もう一つの可能性に掛けてみたくなった。雑渡さんはもしかしたらお仕事が忙しいのではないだろうか。だから、私に会いに来る時間もないのではないだろうか。そう思いたかった。
雑渡さんの夕飯はここ一ヶ月毎日コンビニのお弁当だった。そんな食事を摂っていたら倒れてしまうのではないだろうか。そう思った私はおにぎりを握ってみた。不恰好だし、別に特別美味しいわけでもない。こんなことをしたら迷惑だと思われるかもしれない。だけど、雑渡さんが倒れるくらいなら、私が傷付くくらい大したことはないと思った。玄関でじっと雑渡さんが帰ってくるのを待つ。だけど、いつもの時間をどれだけ過ぎても雑渡さんは帰ってくる様子がなかった。
やっぱり雑渡さんは他の女の人の所に行ってしまったのだろうか。だとしたら、私は振られてしまったということなのだろうか。馬鹿みたい、こんなストーカー紛いのことをして。胸が痛くなってきて、諦めて寝ようと玄関から立ち上がると、遠くから足音が聞こえてきた。怠そうにゆっくりと近付いてくる。重い溜め息と共に。
私は慌ててドアを開けた。雑渡さんは凄く驚いている様子だった。だけど、私も驚いた。顔色が凄く悪い。心なしか痩せて見える。私は用意していた紙袋を手渡した。我ながら可愛くない渡し方だったと思う。雑渡さんの反応が怖くて慌てて部屋に戻った私は後悔して、ベットの上でゴロゴロと悶絶した。どうして私は素直ではないのだろうか。可愛く、お疲れ様ですと言って渡すつもりだったのに。あまりにも雑な渡し方をしたことを思い返して後悔したし、悲しくなった。
そして翌日の朝、大学に行くためにドアを開けるとドアノブに紙袋が掛かっていた。昨日私が渡した物と同じ物だ。突き返されたと思って落ち込みながら中身を見ると、中にはコンビニで買ったと思われるお菓子と千切られたノートが入っていた。いや、サイズ的には手帳かもしれない。
「美味しかった、ありがとう。」そう紙には書かれていた。電話番号と共に。
ドキッとした。私は雑渡さんの連絡先を知らない。特に聞かれていないし、私も特に教えて欲しいとは言わなかった。だけど、本当は知りたかった。だから、凄く嬉しい。
あまりにも嬉しくてお弁当箱を買って帰宅した。うきうきと詰めて、ドアノブに掛ける。私の電話番号と共に。
そして日付が変わってしばらく経った頃、電話が鳴った。


「は、はい…」

「あのさ、普通は教えられた側がかけてくるものじゃないの?今日、ずーっとなまえからの電話を待っていたのに」

「だって、雑渡さんはお仕事じゃないですか」

「別に電話くらい出れるよ」

「邪魔はしたくなかったので」

「…あぁ、そう」


溜め息と一緒にカタカタとキーボードを叩く音がした。まさかとは思うけど、雑渡さんは家でも仕事をしているのだろうか。それも、こんな時間に。今日はまだ木曜だ。明日も仕事なのはず。なのに、まだ仕事をしているの?
不安と疑問をぶつけると雑渡さんは短く返事をした。


「月末は忙しくて」

「はぁ…」

「でも明日で…いや、まぁ日付け的には今日だけど。とにかく、もう終わるから。逆に言えば今が佳境だね」

「じゃあ、電話なんてしている場合ではないじゃないですか。頑張って下さい。もう切りますね」

「駄目。せっかくなまえと話す機会を得たんだから」


カタ、という音が鳴ったかと思えば紙を捲っている音が聞こえた。本当に忙しいということが伝わってくる。
電話なんてしていて仕事に集中できるのだろうか。本当はもっと話しをしていたいけど、雑渡さんの仕事の邪魔をするくらいなら、電話なんて早く切った方がいい。なのに、雑渡さんは話し続けた。会えなかった分を補うように。


「そういえば、今日の弁当も美味しかった。ありがとう」

「いえ、別に…」

「なまえさ、店出せるよ」

「出せませんよ」

「出せるって。あんなに美味しい食事、初めてだったもの」

「そんな大袈裟な…」

「でも、店なんて出さないでね。なまえのご飯は私のものだから。いい?絶対に…特に他の男には作ったりしないで」


私が困ったように返事をすると雑渡さんは満足そうな声を出した。そして、またカタカタと音が聞こえてくる。


「雑渡さん、舌が肥えてそうなのに」

「そうかもね。仕事で色々と行くから」

「なのに、そんなお世辞を言われても嬉しくないです」

「お世辞じゃないよ。本当に美味しかったんだって」

「それはそれは」

「さては、信じてないでしょ」

「そこまで自分を過信してませんので」

「そう。まぁ、そう思うのならそれでいい。とにかく、なまえの作るご飯は後にも先にも私だけのものだから。それが通るのなら、それでいい………ん?あれ、これ間違ってないか…」

「はい?」

「あぁ、いや、仕事のこと。ごめん、ちょっと考えさせて」

「はぁ…」


電話口で雑渡さんはうんうん唸っていた。しばらくすると、納得したような声を出して、また話し始めた。


「ごめんごめん。で、何の話だっけ?」

「あの、雑渡さん。もう切りましょう」

「なまえ、明日は午前から授業なの?」

「いえ、休講です」

「何それ、最高じゃない」

「羨ましいですか?」

「凄く」

「雑渡さんも大学の頃、そんな感じだったでしょ?」

「どうだったかな。よく覚えてない」

「そんな昔のことでもないのに?」

「いやいや、五年以上遡るのは昔のことだよ」

「もう。またそうやってはぐらかして」

「本当だって。私はどうでもいいことは忘れる主義なの」

「あら、そうですか」


私が拗ねたように言うと、雑渡さんは電話口で笑った。
今、どんな顔をしているんだろう。雑渡さんに会いたい。お隣なのに会えないなんて、どこか切ない。だけど、雑渡さんは電話をいつまでも切ろうとはしなかった。
やがてキーボードの音が聞こえなくなって、煙草を吸っているのであろう吐息が聞こえてきた。終わったんですかと尋ねると、雑渡さんは今日の分はねと答えた。だから、名残惜しそうにしていた雑渡さんにおやすみなさいと言って私は電話を切った。本当はずっと話していたい。だけど、雑渡さんは明日も仕事だ。ほんの少しかもしれないけど、寝て欲しい。
翌日も私たちは電話をした。雑渡さんに終わったよと言われて心からお疲れ様ですと伝える。しばらく話しをしていると、寝息が聞こえてきた。私は電話を切って、買ったばかりの料理本を開く。日曜に何か作ってよと言われたから買った物だ。何を作ろうかな。何なら喜んでくれるかな。きっと、何を作っても雑渡さんは喜んでくれる。そんな気がした。
また雑渡さんに会える。顔を見ながら直接話しをすることが出来る。それだけで私は嬉しくて、笑いが止まらなかった。


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