雑渡さんと一緒! 296
「未來、パパだよー」
「…ねぇ、仕事は?」
「してるしてる」
「まだ14時だよ?」
「大丈夫。またちゃんと戻るから」
「文次郎から最近毎日早退してるって聞いたけど?」
「ちっ…バレたか」
バレたもなにも、隠す気があるとは思えない。毎日毎日午後になると来て、夕方までいるのだから。一般病棟の面会時間はとても長く設けられていて、その時間までしっかり昆は病院にいた。そこまでみーちゃんを可愛がってくれるというのは嬉しいけど、ちゃんと仕事もしてもらわないと困る。一家が路頭に迷うことになるわけにはいかない。
私が小言を言っても何一つ昆の耳には届いていないのだろうことは分かった。みーちゃんに嬉しそうに笑い掛けているのだから。それこそ、溶けそうなほどの笑顔を向けている。
「昆はね、みーちゃんを可愛がり過ぎ」
「なに。駄目なの?」
「駄目じゃないけど、仕事はして」
「してるって。昨日なんて超大型の契約を結んだよ」
「本当?」
「本当だって。安心して、ちゃんと働いてるから」
ねー、とみーちゃんの頭を撫でた昆は鞄から美味しそうな苺大福を取り出した。ちゃんとカスタードは入っていない、あんこだけのものだ。産後は乳腺炎予防のために生クリームなどの脂肪分が多いものは食べられないと言われて絶望した。私、ケーキがなくても生きていけるだろうか。シュークリームもチョコレートも失ってしまったら私はおかしくなってしまうかもしれない。ちなみに、今一番食べたいのは苺のミルフィーユだ。サクサクいわせながら食べたかったのに。
カサカサと包みを開けて苺大福を口にすると、高そうな白あんがたまらなく美味しかった。きっと私が喜びそうで食べられるものを相当悩んでから買ってきてくれたんだろうなぁ。
「…美味しい。ありがとう」
「うん」
「あ。あのね、今日家族計画についての講習があった」
「家族計画?何それ」
「次の妊娠まで期間を空けないといけないんだって」
「あぁ。それより、いつからセックスしていいの?」
「…一ヶ月?」
「分かった。忘れないように手帳に書いておく」
「えっ!やめてよ、恥ずかしいよ!」
「なんで。セックスは恥ずかしい行為じゃないよ」
「それでも、大っぴらにする行為じゃないよ!」
「まぁねぇ。そうか、一ヶ月かー…」
本当に手帳に書き記した昆は手帳をなぞりながらあと何日あるか数えていた。確かに、もう長いこと昆としていない。したくなるのも納得は出来る。だけど、そんなに楽しみにされたらプレッシャーだ。みーちゃんを産んだらお腹がぺったんこになるものなのかと思っていたけど、そんなことは全然なくて。だるーんとしている。これ、治るのかな?戻らなかったらどうしたらいいんだろう。スタイルのいい昆に呆れられたり、がっかりされたりしないだろうか。腹筋とかしたらいいのかな。授乳したいると嫌でも痩せるって助産師さんに言われたけど、異様にお腹は空くから不安で仕方がない。
元々太っていない昆はおばあちゃんの作るご飯を食べているのに、ほんのりと痩せてきていた。ちゃんと食べてはいるけど、どうしても私の作るご飯の時ほどは進まないらしい。退院してからもキッチンにはしばらく立つなとおばあちゃんに言われているんだけど、これはどうしたらいいんだろうか。
「ねぇ、食べたい物とかないの?」
「んー?」
「おばあちゃんに作ってもらうよ」
「今はこれといってないかな」
「そう…」
「それより、避妊について考えないとだなぁ」
「あぁ、うん。次の妊娠まで…」
「いや、もう妊娠なんてさせないから」
「えっ、何で!?」
「医者に次の出産でもほぼ確実に出血すると言われたよね」
「うん」
「なのに、まさかまだ産む気なの?」
「で、でも大丈夫だよ」
「なにが」
「今回も平気だったじゃない」
「だから、次も平気だと言いたいの?」
「うん」
「ほーお?よく私の前でそんなことが言えたものだね」
ぎゅうっと頬をつねられる。みーちゃんの前でDVはやめて欲しい。というか、セックスとか卑猥なことを言うのもやめて欲しい。これは絶対に今後喧嘩になるだろう。
子供、もう一人くらい欲しかったんだけどなぁ。私が一人っ子だったからというのもあるけど、みーちゃんに兄弟を作ってあげたかった。だけど、まぁ昆の言うことが分からないわけではない。私が気絶している間に行方不明になっていたらしいから。多分だけど、絶望して死のうとしたんだろうなぁと思った。すぐ絶望したら死のうとするんだから、困ったものだ。昆は「この子のために生きたいと思った」と言ったけど、それは果たして本当だろうか。というか、本当でないと困る。そう簡単に命を手放すのはよろしくないことだから。
「私はなまえと未來がいて幸せだよ。そのどちらかが欠けたら幸せにはなれない。だから、今後は避妊は絶対にする」
「はぁ…」
「本当は精管結紮術をしようと思ったんだ」
「なにそれ」
「男用の不妊手術」
「は!?」
「でも、適応じゃないって言われて」
「いいよ!そんなことしなくても!」
「だから、まぁ無難にゴムを使うしかないんだろうね」
パキッと珈琲の缶を開けた昆は何事もないような顔をして飲み始めた。この様子からして、もう妊娠する可能性は限りなくゼロに近付けたいという意識は固そうだ。
寝ているみーちゃんの頬を撫でながら嬉しそうに微笑む昆の元へ戻れるのはまだ先のこと。きっと家に帰ったら、それはそれは私に甘えてくるのだろうし、みーちゃんのお世話を率先してやりたがることだろう。幸せなことなんだけど、育児をする上でも体力は大切だし、もっとしっかり食事を摂ってもらいたい。おばあちゃんが作るご飯は美味しいんだけど…
「…あ。分かった」
「うん?」
「今日の夜ご飯は鯖の味噌煮にしよう」
「何でなまえが決めてるの」
「昆、好きでしょ?」
「まぁ。なまえが作るものなら好きだけど」
「うん。よし、今日は鯖。決まりね」
「…はぁ。分かった」
私が作るわけでもないのに、何故私が夜の献立を考えているのか分からなそうな昆は釈然とはしていなかったけど、それでも元々好きなメニューだからか否定しなかった。
面会時間ギリギリまで粘った昆と別れてから、おばあちゃんに連絡する。私が出産で死ぬと覚悟を決めた時に書いていたノートが役に立ちそうだ。昆が好きなもののレシピを山ほど詰め込んだ特製のノート。あれをおばあちゃんに見られるのは恥ずかしいけど、それでもこのまま昆が痩せていくのを見ている方が辛いから私の恥なんて大したことはない…と前向きに思うことにした。あまり深く考えると恥ずかしいから。
おばあちゃんは電話口で呆れたように溜め息を吐いていたけど、私が言ったことを了承してくれた。「お婿さんは本当に仕方のない男だね」とは言われたけど。
そうなの。あの人は本当に仕方のない人なの。だけど、昆には私が必要なんだって分かるから私はそれが嬉しい。昆に言ったら「今更」と言われるだろうけど、それを実感することが出来る。本当は私がいなくてもちゃんと生活して欲しい。だけど、それが出来ない人だから私が支える。周りから見たら呆れられることかもしれない。だけど、こんなにもやり甲斐のあることはない。私が昆を必要としているように、昆にも必要とされている。それはとても幸せなことなのだから。
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