全て、知ることができた。
忘れていたこと、全て。

幼い二人の子どもが「兄」と慕う、少し年上の少年。
少年は二人の「弟」を大切に大切にしていて
この子らが幸せに過ごせる様にと、それだけに心砕いていた。

けれど、弟の一人は母が死んでしまってすぐ屋敷を出た。
もちろん少年は引き止めたけれど、弟は笑顔で「お元気で」とだけ告げて去ってしまった。

守ると誓ったのに。
血なまぐさい時代であろうとも大切に、兄弟仲良く過ごしていくのだと

そう、誓っていたのに。





歩くたびに揺れる髪が、少し高くなってしまった視界が
明らかに軽くなった体が
全てが己が変わってしまったのだと突きつけて来る。

おそらく、俺は一度死にかけたのだろう。
そして、そのまま鬼舞辻無惨の血を入れられた。
他でもない、黒死牟から。

「…無一郎、玄弥」

「ゆ、結弦さん…?大丈夫、なの?」

「ああ。意識ははっきりしてるよ」

起きた瞬間目に入った無一郎の驚愕した顔を思い出す。
彼があそこまで驚いた顔をしたということは、見た目は完全に鬼になっているということだろう。
だが、何故だろう?
鬼になったというのに、己の耳に無惨の声は聞こえない。
おそらく名前を呼んでも殺されはしないのだろう。

理由はわからない。わからないけれど…わかる。

「無一郎、腕を」

「え、あ、はい」

布で縛られた手首から先のない腕に血が滲んでいる。
そこに己の手を当てれば、温かな稲妻が一瞬光ったのがわかる。
少し後に手を離せば、無一郎の血は完全に止まっていた。
流石に無くなった手を戻すことはできないが、これで失血死の危険はなくなった。

誰に教わったわけでもない。
ただ「知っていた」のだ。これが己の血鬼術だと。

「それと玄弥。黒死牟の細胞を取り込むのはよしなさい。
 黒死牟には無惨の呪いがある。侵食されてしまう」

告げつつ自分の髪を切る。
多分、黒死牟のものより再生速度は劣るだろうが、侵食はされないだろう。

「お前たちはここで休んで回復に専念しなさい」

「っそんなことできない!僕らはまだ戦える…!」

「そうだ!まだ戦える!」

悲しそうに、苦しそうに叫ぶ二人に微笑んで、その頭を撫でる。
酷なことを言っているとわかっている。
でもそれでも、この子らはここで死ぬべきではないと、そう思うのだ。

「ここからは、ただの兄弟喧嘩だ。
 兄弟喧嘩に人を巻き込むわけにはいかないだろう?」

そう。これから俺はかつての弟を殴りに行く。
もう一人の弟の願いであり、俺自身が果たせなかった誓いのために。

「生きなさい、時透無一郎、不死川玄弥。
 まだここはお前たちの死地ではないのだから」






「不死川!!」

右手の指が落ち、それでも尚戦おうと顔を上げた、その瞬間だった。
黒く長い艶やかな髪が、視界を塞いだ。

腰を超える長い髪に、袴。
腰には帯刀しているのが見える。

姿は違う、気配も違う。

だがそれでも他でもない己が見間違えるはずがなかった。

「…っ結弦…か?」

抜かれた刃は薄く黄色に色づいた日輪刀。
悪鬼滅殺と記されたその刃。

「ーー巌勝。継国巌勝」

「ああ…兄上…あにうえ…!思い出されたのですね!兄上!!」

「思い出したよ」

歓喜に咽ぶ鬼とは対照的に、その声は静かに響いていた。
もうこちらには関心がないのだろう鬼は、ただ口元を緩めて「兄上」と繰り返す。

「…お前は、日の本一の侍になるのではなかったのか」

「兄上?」

「鬼に縋り、鬼と化し、生き汚く生きて、それがお前の求めた侍なのか」

静かだった。
その声にはなんの感情も乗っていなかったように思う。
ただ静かに、疑問を投げかけている。それだけだ。

「…『私』はお前が、お前たちが大切だったよ。
 先に逝ってしまった『私』が言えたことではないけれど…それでも」

だから、お前は『私』が見送ろう。

告げる声は、少しだけ震えていた。





体が軽い。
成長した体はかつての技術と体力を取り戻し
更に鬼としての身体能力も合わさって、以前とは比べものにならないほど動くことができる。

できることなら、人として送ってやりたかった
でも不可能だということもわかっていた。

己には緑壱のような才覚はない。
鬼になった巌勝に勝てる見込みもない。

だから、今しかないのだ。
鬼になった今しか。

一撃を振る度に、同じ様に一撃が降ってくる。
人だった時には対応できなかった。
けど、鬼になったからこそ見える。
人が境地に至らなければ見えなかったもの、緑壱が見ていた景色が、そこにはあった。

「(緑壱、どうか力を貸してくれ)」

おそらく、この体はそう長くは持たないだろう。
鬼にはなった。
だが、人は食べていない。

鬼は人を喰わなければ生きていけないし、強くもなれない。

だというのに己は上弦の壱と互角以上に戦えている。
それはおそらく、そういうことだ。

未練はない。悔いもない。

救いたい人を救えた。
これから先だって、きっと死ぬべき定めだった人は生きていける。

きっとこの命はこのためにあったのだ。

トラックに轢かれて、気がつけば戦わなければならない世界にいた。
言霊というチートを手に入れたって、楽な世界じゃなかった。

苦しかった、辛かった、逃げたかった。

でもそれでも逃げなかったのは、この世界が
この世界の人たちが大切だったからだ、


「っ!」

一撃が、これまでにないほど深く、重く、巌勝を貫く。

「…巌勝、お前はこれで幸せだったか?」

「あ、に…うえ…!!」

食い込む刃に渾身の力を込めて、振り抜く。

そうして落ちた頸を、生きようと足掻く体ごと抱きしめた。




兄に抱きしめてもらうのが好きだった。
温かな腕に、太陽の匂いがしていた。

武家の子として恥ずべきことではあったが、好きだったのだ。

優しい兄に、不器用な弟。

確かに、幸せだったのだ。

「あ、に、うえ…」

「もういいよ巌勝…もういい…」

抱きしめる腕は冷たく、太陽の匂いもしない。
そうだ、己がそうした。
無惨様の血を与え、温かな腕も、太陽の匂いも
全てすべて、己が奪った。奪ってしまった。

ボロボロと体が崩れる音と感覚がする。

あァ、本当に終わりなのだな、とどこか他人事のように思う自分がいた。

長く生きた。
生き汚く、鬼になってまで生きた。力を求めた。

「あに、うえ…」

「ああ、おやすみ、巌勝」

温かな腕も、太陽の匂いもしなくなってしまったけれど
でも、その変わらぬ優しい声が聞けた。それだけで




腕の中で崩れていくかつての弟に、悲しみはなかった。
悲しみはなく、ただただ申し訳なさだけがあった。
もし、もし俺があの時、二人より先に逝かなければ、避けられたのではないか
そんな考えても仕方のないことばかり考えてしまう。

さらさらと崩れていく弟の体
その中にあって、形を保つものが手に当たる。

笛だった。
かつて巌勝が緑壱に与え、緑壱が大切にしていた笛。

ああ…そうか。
巌勝は巌勝なりに大切に想っていたのだ。
それが例え劣等感の中に埋もれてしまうようなものでも。

「結弦…お前ェ…」

戸惑う様に、でもどこか悲しそうに実弥さんが呼ぶ声が聞こえる。
その声に振り返れば、そこには予想よりずっと苦しそうな顔をした実弥さんが立っていて、少しだけ申し訳ない気持ちになった。

「っお前、体が…」

「少し、無理をしましたから」

もう、ほとんど体の感覚はなかった。
立っていられるのはただの根性だ。
まさかこんな根性が自分にあるなんて思ってなかったけど
でも、多分最期になってしまうから。だから、立っていたかった。

「…んで…なんで諦めてんだテメェはよォ!!
 クソ腹立つが鬼にされたんだろうが!傷だって回復すんだろォ!!」

「…実弥さん」

「俺の血ィでも肉でも喰えよ!人に戻る薬もあるんだろうが!!」

「実弥さん」

「諦めてんじゃねェよ!!」

「実弥さん…泣かないで」

両肩に食い込む腕、掴まれているという感覚すらもうない。
腕も上がっているのかわからない。
でも、でもそれでも、泣かないで欲しかった。

ぼろぼろと流される涙を拭う己の手の感覚もないけれど。

「…俺ね、言霊ちゃんと使えるようになったんですよ」

「…あァ…知ってらァ…」

たくさん練習した。
実弥さんや、たまに杏寿郎なんかにも手伝ってもらって、たくさん練習した。
人を助けるために、鬼を斃すために。

本当は、無惨との戦いにも加わりたかった。
炭治郎たちの力になりたかった。
善逸をがんばったねと褒めてやりたかった。
獪岳もたくさんたくさん褒めてあげたかった。
じいちゃんに、褒めて欲しかった。

でもそれはできない叶わない。

だからせめて、せめて少しだけでもこの人たちが生きる力になるように
「言葉」を紡いだ。


「どうか、『生きて』…!」


それが、最期の記憶。





腕の中で崩れていく体に、言葉は出なかった。
ただただ、自分はこんなにも涙が流せたのかと言わんばかりに瞳からこぼれていく。

大切だった。
守りたかった。
これからもずっと共にあるのだと思っていた。

鬼舞辻を斃して
鬼を滅して

そうして平和になった世で、短い人生でも、少しの間でも
平和な世を共に歩めると、なんの根拠もなく思っていたのだ。

「…不死川…行かねばならぬ。顔を上げろ。結弦の想いを無駄にするな」

わかっている。
そんなことはわかっている。
まだ終わりなどではない。まだ、残っている。

「無惨を倒すまで、終わりではない」

涙は流した。もう充分だ。
失ったものは戻らない、時は還らない、それぐらい子どもだって知っている。

倒さなければ。
全ての元凶である、鬼舞辻無惨を倒さなければ。

家族を奪い、兄弟子を奪い、仲間を奪い、お館様を奪い、最愛までも奪った。

「…行って来る。待ってろ…俺もすぐそっちに行くからよォ…」

最後に一度だけ持ち主のいない羽織を抱きしめた。