十一

兄は不思議な人だった


幼い頃から優しげな笑みを浮かべて
戦国の世だというのに、刀を握ることを嫌う人だった。

それを理由に父や家臣に何を言われても気にせず微笑んでいる、そんな人だった。


兄は、父に見捨てられた私に優しかった。
双子の兄も優しかったが、兄はそれ以上に気をかけてくれた。

父の怒りを買うだろうに、隔離された私に色々な知識を与えてくれた。
文字も兄に教わったもののひとつだ。

誰もが私と双子の兄に差をつけるのに対し
兄は全てを平等にしてくれた。

平等に微笑みかけ、話をして、同じ数だけ一緒に眠ってくれた。


「緑壱は人より”眼”がいいんだね」

私の見える世界を教えると、兄は少しだけ驚いた顔をして
でもいつも通り微笑んで頭を撫でてくれた。

その時初めて、己の見ている世界が他の人とは違うことを知った。

「緑壱は、思っていることをほんの少しでも口に出すようにしようね」

私と話した双子の兄がおかしな表情をした時、いつもそう言って困ったように笑っていた。
だから、兄上がおっしゃるなら、兄上がそのようにした方が良いとおっしゃるなら、と
それからはできるだけ口を開くようにした。


兄上が大好きだった。

微笑みかけて、頭を撫でてくれる温かな手も

とても美しい声も

私や兄上と同じ綺麗な黒髪も

朱色の混じった瞳も


兄上はいつも温かなものをくれた。

それは私が屋敷を出ても変わらず
居場所を突き止めて文をくれた。
私は文を返す術を持たなかったけれど、それでも文は定期的に届けられた。

兄上の文字はいつだって優しくて、うたと一緒にいつも読んでいた。

うたも、いつか兄上に会いたいと言って
私もうたを…家族を兄上に紹介したいと思っていた。

けれど、その願いが叶うことはなかった。



再会した時、兄上はずっと私の話を聞いてくれた。
家を出て、今までどうやって過ごして来たのか。
もちろんうたのことも。すべてを。

兄上は泣いてくれた。

うたや赤子のことを思って泣いてくれた。
泣いて、私を抱きしめてくれた。

子どもの頃そうしてくれた様に、抱きしめて頭を撫でてくれた。


兄上はそのまま鬼狩りに加わってくれた。
家のことは双子の兄・巌勝に任せているから大丈夫だと、そう笑って。


兄上は強かった。

剣術も嫌いなだけで、決して弱いわけではなかった。
呼吸を覚えればそれは尚のこと。

そして兄上にはその「声」もあった。
類稀なる「声」は鬼の動きを鈍らせ
場合によってはその意思を操ることですら可能だった。


だからきっと、兄上は生き残る、
そう思っていたのだ


あの時まで。





兄上は、身罷られた。

最後まで鬼と戦って。

逃げ遅れた幼子を庇って。


「ど、うか…きょうだい、なかよく…いきて、おくれ…」


兄上は最後まで微笑んでいた。

私の光だった。
うたを失くした私の、唯一の光だった。

か細いけれど力強い、暖かく包んでくれる、光だったのだ。






声が聞こえた。


「兄上」

上弦の壱に似た、けれどそれよりもっと優しげな声色。
その声が俺を静かに呼んでいる。

「兄上、お気を確かに」

声が心配げに揺れる。
どうしてだろう、知らない声なのに大丈夫だよ心配しないで、と声をかけたくなる。

でも、俺の声は出ない。
体も動かない。
目の前には暗闇が広がっている。

「大丈夫です。兄上はまだ生きておられる」

でも動けないんだ。
斬られたところから血が抜けていく。
血が抜けたところから、熱くなっていく。

自分の体が自分のものではなくなっていく感覚。

「兄上、私の兄上…どうか目を開けてください」

俺もそうしたい、でも開かないんだ。
体が鉛の様に重い。
指先にも感覚がないんだ。

「お願いです兄上…”兄上”を助けてください…」

誰のことだろう。
”この子”が兄と呼ぶ、もう一人は、誰だっただろう。

「私では救えなかった…私の拙い言葉では伝えられなかった…」

「兄上に教えていただいたのに。言葉にするように、と教えていただいたのに」

泣いているのか。
悲しんでいるのか。

悲しまないでくれ、この動かない体では撫でてやることもできない。


「兄上を…巌勝兄上を救って差し上げてください…

結弦兄上」



待って。
行かないで。



「っ緑壱!!」





その人をこの場で見つけたのは偶然だった。
不死川さんと悲鳴嶼さんが上弦の壱と戦っている間
倒れていた玄弥に、鬼の髪を喰わせていた最中。部屋の隅に彼はいた。

「…結弦さん…?」

髪は伸びて、衣服も変わっているけれど、見間違えるはずがなかった。
いつも優しげに微笑み、美しい声で歌を紡ぐ、その人が瞳を閉じて横たわっていた。

「っ!」

痛む傷を無視して、慌てて駆け寄る。
その顔があまりにも青白くて一瞬息を呑んだけれど
胸が上下していて生きているのだとほっとした。

「っ時透さん…音無さんは…!?」

「大丈夫…息はある。それに…怪我も…」

そこまで言葉にして、嫌な予感がした。

どうして無傷なんだ?

どうして髪が伸びてる?

あの鬼は僕に言っていなかったか?



『あの方にお前を、使って戴こう』



「っ最悪だ…!」



ゆっくり開かれた結弦さんの瞳は、人とは思えない血よりも紅い色をしていた。