兎の昼寝後


反射的に回れ右して去ろうとするが遅く、相手が気付き声までかけてきてしまった。
もう無視はできない。
覚悟を決め、背をピンと伸ばし振り返る。


「おはようございます、松野さん」

「あぁ、おはよう。若いのに早いねぇ。うちのニートどもに爪の垢でも飲ませたいよ」

「あははは」


きた。息子話。
愛想笑いを浮かべながら内心うんざりする。
大家さん夫妻の何かにつけてこぼれる息子話のおかげで、会ったこともない彼ら(驚きべきことに六つ子らしい)のプライベートは把握済みである。誰が何年生までうんこ漏らしたとか、いまだに食べれないものやら、ニート事情。カノジョが出来たことがないなんてなぜ知ってるんですか松野さん。


「いやぁ、一週間帰ってこなかったと思えば、寝言が酷くてね。日曜なのにこの時間に起きてしまったよー」

「え…」

「ん?」


驚愕に思わず溢した声に、大家さんこと松野さんがキョトンとこちらを見上げてくるから、「いえ、一週間って長いなぁ…」と思ってもいないことを口にする。今日は日曜だったのか…!どうりでいらっしゃるわけだ!いつもなら出勤準備でバタバタしてるはずなのに!
曜日感覚の麻痺という致命的なミスに動揺する海野に気付かず、大家は「娘なら警察ものだけど、息子だからなぁ」と朗らかに笑う。


「男ならよくあることだよ」

「はぁ…」


あるんだろうか。生まれてこのかた二十年。女として生きているので真偽のほどは分からない。


「どうやら就職していたようなんだけどねぇー…、辞めてきたみたいで」


またニートだよと笑われるが、赤の他人である海野には共に笑っていいのか対応に困った。六人もいて全員無職とか正直洒落にならない。正解はなんだ。
とりあえず曖昧に微笑むだけに留めた。


「やー、最近の若いモンは根性がないねー。ちょっとくらい厳しいだけですぐ辞めるわ、魘されて叫ぶわ」


そこでふと、出掛けに聞いた謎の大声を思い出す。
あれ。寝言だったのか…。
どれほどブラックな企業に勤めていたか知るよしもない海野は「はぁ」やら「へぇ」やら相槌をうつしかなかった。


「我が息子ながら情けないやら恥ずかしいやらまったく…」

「はぁ…」


わりかしどうでもいい。
そろそろ写真を取りに戻りたいなーとぼんやり思いながら適当に頷く。


「あいつらにも、鯖江ちゃんの半分でも根性があったらなー…、鯖江ちゃん彼氏いたかい?」

「へ…?あ、いえ…」

「美人なのに勿体ない!本当に最近の若いモンは見る目がないな!」

「は、はぁ…ありがとうございます…」


一応、頭を下げてみる。


「どうだい?うちの息子ども一人あげるよ?」

「え、いや…」

「そうだよなー、旦那がニートじゃ困るもんなぁ…!」


ハハハハ!と笑う大家に合わせて、乾いた笑みを浮かべた。いつのまにか彼氏から旦那へ昇格しておる…。ニートっていうか、今までもたらされた情報のなかでときめく要素は一片も無かった。
むしろ中古物件…、いや事故車だ。事故車。
人生をどう間違えても無理である。
ふふふ、と控えめに笑いながら全力で拒否していたから「そういやー」と続ける大家への警戒が間に合わなかった。


「今月分の家賃のことだけど」

「………ッ!」


吹き出しかけて全霊でとどめた。
今の話の流れでどうやったら、そういやでそこに繋がるんだ!
いや、これこそが話の核心。本題だったのだろう。まさか避けていたそれを直球で投げてくるとは!
してやられた…!と、心の拳をきつく握りながら「その事なんですが、」と恐る恐る口にする。


「実はちょっと遅れs」

「なんだって?」


すっげー顔で聞き返された。
ぐっ、と息を呑む。
やばい。
三段階評価ならMAXで最終形態だ。


「確か先月も、先々月も先々々月も遅れたね」

「は、は…ぃ……」


おっしゃる通りでございます。
正確に言うなら四ヶ月連続で遅延しております。
内心ガクガクと震えながら、「今の依頼が、」と細い声で続ける。


「終わりましたら、その依頼料を家賃を…」

「いつ終わりそうなの?」

「えっと、水曜までには、」


カッ!と目を見開く大家。


「いえ火曜までには…」


その迫力に言い直す。
冷や汗を滴ながら視線を逸らす。
大家さんがこれ見よがしため息を吐いた。


「わかってるんだよ。鯖江ちゃんがね、頑張っているのは」

「はい…」

「亡くなったお父さんの事務所を無くさないために、必死にやってるって」


別に必死にはやっていない。合間合間にだいぶ休憩が入っている。
さらに言うなら幼い頃離婚した父のためなどではなく、受験に行き詰まり、特にやりたいこともなかったから継いだだけだ。だって、面接も試験も上司もいない。気楽である。
そんなどこまでも怠惰な本性を口に出すことはなく、出来るだけ相手の心象を良くするために神妙な顔で頷く。
だが、


「でもねー、こっちも慈善事業でやってるわけじゃないんだよー。家賃はちゃんと支払ってもらわないとねぇー」


正論である。


「それでなくても六人ニートを養わないといけなくてねー」


ニート。爆発しろ。


「払って貰えないなら、立ち退きも視野に…」


やばい。
避け続けていたツケが最悪の形で返ってきた。動揺を隠すように俯く。
ここ出ていって行くところなどもうない。
ニート笑うどころではない。ホームレスだ。ホームレスになってしまう。
くそと、毒づきながら決意を固める。
これはもう、あれをやるしかない。


「本当に申し訳ありません…」


神妙な声を作る。
ぶつぶつと続けられていた大家さんの声が途切れた。


「松野さんに甘えてばかりで、おはずかしいかぎりです…」

「い、いや…うん、」

「わたしの力不足で大変ご迷惑をおかけして…本当…わたし…!」


込み上げる何かを堪えるように口許を手で隠し、悲しげに眉をひそめる。
込み上げてくるのが涙とか悲哀とかならいいのだが、いま海野の中にあるのは先程飲んだ缶コーヒーと早起きのための眠気だけである。
必死に申し訳なさ&哀しみアピールをすれば、可愛くもなんともない息子しかいない(しかも成人済み。ニート)松野は、目に見えて狼狽した。


「い、いやいや…!鯖江ちゃん頑張ってるよ!うちのからも、鯖江ちゃんがあちこち一生懸命走り回ってるって聞いてるし…!」


それはおそらく家出猫の捜索時だろう。だが捜索時間の割合としては捜索2、休憩が8割である。
これでなんとか誤魔化せるかと思ったのだが、


「でもねほら、こちらにも生活があるからね。やっぱり期限を守ってもらわないと…」


ダメだった。
まだ決定打が足りないらしい。仕方ないと、海野は腹を括る。
最終手段に出るしかないようだ。


「実は、実はわたし…」

「ん?」


ぐっとここで溜めて、


「祖母が…病気で…」

「…!?」


必殺技を繰り出した。
息を呑む音が届く。


「母は再婚して…連絡も……祖母も頼れ人はわたししかいなくて………」


大部分は真実である。
ただ件の父方の祖母の病名をネット依存症という。これはスマホ依存症も併用している。
嘘を信じさせる極め手は真実を混ぜることである。声に、説得力が生まれ表情に疚しさが消える。
良心の呵責はあるが、こちらも生活がかかっている。


「それは大変だったな…ぁ」


労るような視線に内心、ガッツポーズを決めた。よし!オチた!


「うちのとも話してたんだよ…最近、鯖江ちゃん痩せてきたんじゃないかって…」


それは、家出猫の捜索が進まないため手持ちが無いからである。缶コーヒーで空腹を麻痺させるからである。


「そうだったのか…うん、それは気づいてやれずに悪かったね…」

「いえ、そんな…」

「家賃は火曜日だっけ?それまで待つよ」


できれば水曜まで待ってもらいたいが、ぐっと堪える。これ以上欲張ってはいけない。
結局人の良い大家さんをこれ以上騙すのも待たすのも忍びない。大金があるなら、真っ先にお渡しするのは大家さんにだろう。だがないものはないのである。


今日から、もうちょい真面目に捜索しよう。


捜索4、休憩6割ぐらい真面目に。
まだなにやら感慨深げに頷き話す大家さんのつむじを眺めながら海野鯖江は決意した。


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