「あなた、……誰?」

 ひどく眠かった。眼球に瞼が張り付いて、目を開けようとするだけでも睡魔が額を支配する。それでも起こしてこようとする何かが肩を揺らした。
『まだ寝てはだめ、もっと教えて。あなたの大切な人のこと、あなたの思い出』
「大切なひと……」
『その人を想う時だけ、あなたの思考はとても不思議な廻り方をする。私の中で、あなたと同じものが独自の成長をしている』
 やっと顔を上げて見ると、大きな目がなまえを見つめていた。自分の体の半分くらいある瞳孔がギュッと縮まり、“彼女”が自分を認識して見ているのだと分かる。
『鴻上了見、……私も、その人がほしい』



「クイーンは、彼女が6番目の被験者として最後まで候補に残っていたと言っていた。それが今では君の、……その、深い関係にあるのはどうしてだ」
 マザーコンピュータ内の深淵部を、財前が先頭にリボルバーとプレイメーカーが潜航する。「被験者の候補」、その言葉に顔を向けてきたプレイメーカーを視界の端で捉えながら、リボルバーは冷笑する。
「プライベートな質問に答えるつもりはない」
 リボルバーの腹の底は「余計なことをペラペラと」と財前に苛立つ。とくにプレイメーカー、───藤木遊作の前で、その話しは避けたかった。
「……」

「あそこだ」
 財前が少し身を強張らせて言った先、水平垂直ばかりが並んでいたネットワークの海の中にひとつだけ、球体が浮かんでいる。腕のディスクを触りハッキングプログラムを起動させると、球体内部へのゲートが開く。
「プレイメーカー。ここから先は、私が送ったバックドアでもログアウト出来なくなる。本当に君も来るのか?」
 「無論だ」と答えるプレイメーカーに、アイの目が半ば諦めたように『オイオイプレイメーカー様よぉ』と呟いた。
『こりゃあからさまに罠だぜ。ゲートが閉じちまったら、俺たち一生逃げられないかも知れねーんだぞ』
「今は財前を信じるしかない」
「フン、お人好しが」
 アイの代わりにリボルバーが鼻で笑った。それを少しも意に介さないように、プレイメーカーは淡々と続ける。
「それに、彼女と違い俺たちの身体はそれぞれ別の場所にある。まだマシだ」
「……」
 静かに、リボルバーの手がギチ、と握り締められた。



 真っ暗闇の電子の海を、細かく砕かれたデータのマリンスノーが降り注ぐ。やがて降り積もったデータの屑が足下に続き、懐かしいスターダスト・ロードの光がリボルバーに道を示した。
 歩いて行くリボルバーについて行こうとしたプレイメーカーを財前の腕が遮る。怪訝な顔を向ければ、財前は静かに首を横に振った。

「なまえ」

 マリンスノーの降りしきるスターダスト・ロードで、リボルバーは両手を差し出す。やがてデータの屑は星になり、そして塊り続けた光は月のように大きくなり、ついに1人の女をリボルバーの腕に生み落とした。
 抱きとめて膝を折り、彼女の精神データが崩れないように優しく撫でる。半透明になり、体の所々を食い荒らされ、いまにも崩壊しそうな姿に唇を噛む。
「なまえ、……」
 肘で支えた頭を少しだけ揺らした。たったその衝撃だけで頬からマリンスノーが滑り落ち、宙を漂う。この空間に降り頻り、満たしているデータかすの全てが、元々なまえの精神体を構成していたものだと悟るのに時間は掛からなかった。
 眠ったまま微動だにしない彼女に、リボルバーは目を細める。頭の中にあるなまえの記憶をひっくり返し、どうするべきか考えを巡らせた。そして小さく息をつくと、崩れることを承知で彼女の頬へ触れる。
「お前はこういう話しが好きだったな」
 虚構だと知っていても、リボルバーは了見としてなまえにキスをした。体感機能で脳が感知するなまえの唇は、白く砕ける石灰そのもの。すぐ離すつもりが、了見自身が保有する記憶によって感触情報が修正され、熱と湿って吸い付く唇となったいまリボルバーを惜しませた。それでも、これは虚構だと言い聞かせて唇を離す。
「……起きてくれ」
 お前が好きな絵本は、みんなキスで目覚めていたはずだ。

「(リボルバー、……)」
 すこし離れているとはいえ、見たこともないリボルバーの背中にプレイメーカーはただ黙って佇むことしかできない。財前も時間が許すギリギリまで声を掛けるつもりはないらしく、背を向けて目まで閉ざしている。

 真実の愛のキスも、この世界では砂でできた体に水をかけるようなもの。ただ崩壊していく彼女を揺らして、また崩してしまうだけ。
 リボルバーは諦めないとばかりに髪を撫で、抱き寄せて肌に触れた。自分の中の『なまえ』という記憶をデータとして補完させ、少しでも肌や髪に色を塗っていく。綻びを撫でつけ、手を取って指先に口付けをすれば、欠けていた部分が少しずつ感触を取り戻した。



***

「了見、───くんとなまえちゃんなら、どちらが好きか選べるか?」
「え、」
 カードが散らばった床やガラステーブルに、子供用のデュエルCPUゲームモニター。ソファーに座る了見を、鴻上は片膝をついてじっと見つめる。濃紫迫る黄金色の海を背にした父の顔は見えない。
 右側には6歳の男の子がタオルケットに包まれて、左側には8歳のなまえが了見の膝を枕にして眠っていた。

 『2人とも大切な僕の友達です』、そう言えば未来は変わっていたのだろうか。藤木遊作、───彼もまた、家族や“元々の名前”を失わずに暮らせただろうか。それとも、名前を失って彷徨う運命になまえが投じられただけだったのか。
 何度この記憶を振り返ったところで、あの時の私が父に答えた言葉は取り返せない。物事を選択する時は、だいたいそれをよく理解しないで愚かな選択するものなのだと、心が壊れるまで思い知らされた。そして後になって反省しても、何度も違う道を考えても、結局は同じ事を繰り返す。
 最初に2人の友達を選んだ。この事実は変わらない。それも、自分が父に面と向かって「この女の子が好きだ」と言うのが恥ずかしいというだけで、私は嘘をついた。
「なまえは女の子だから、いつまでも一緒には遊べない。だから───くんの方が大事です」
 嘘じゃない。本当の事だ。だけど、なまえとアイツ、2人を比べて優劣をつけた自分の心は嘘だ。
 次に友達と父を選んだ。この事実も変わらない。それも、自分が友達にひどい事をしてしまったという罪悪感に押し潰されたというだけで、私は父を生け贄に差し出した。
「お願いです、早く来て。父さんよりも───くんを助けてあげて」
 もう嘘はつきたくない。本当の事を言いたい。だけど、アイツと父、2人を比べて「選んだらどうなるか」を分かっていて、私は自分の心に嘘をついた。


───「りょうけんくん」
 そんな目で見るな。僕はお前みたいないひとじゃなくなったんだ。なまえも僕と一緒にいたら、きっとひどい目に合う。
「了見くん」
 なまえから何もかも奪っておきながら、私は何も知らないで呑気に微笑むようになったなまえが大嫌いになっていった。すぐに泣くし、デュエルは弱いし、疑うことを知らないで、ひとのために何でもする。
「了見」
 大嫌いだ、お前など。


───「ひらがなでなまえ」
 恋がどんなものかなんて知らない。心が痛いような、お腹がギュってするような、鼻が甘く痛むような、おでこが崩落してしまうような、下瞼と頬が溶けてしまいそうな─── そういった身体的症状としての恋が中毒性をもって自我を蝕むなら、あなたの存在は、私にとってウイルスプログラムのようなもの。
「なまえ」
 一緒にいれば衝突もするし喧嘩もする。一方的に傷付けたり、傷付けられたり。そうして互いの心は歪に欠けてボロボロになってしまうのに、次第に欠けた部分や歪んだ場所が嵌り込んで、気が付いたら離れられなくなっていた。
 そういった精神的症状としての恋が致死性をもって自我を蝕むなら、私の存在は、あなたにとってウイルスプログラムのようなもの。
 歪な外殻をもった心の窪みが深く一致してしまえばしまうほど、どちらかを失ってしまったあとで、その欠落を埋める別の誰かを探すことは難しくなってしまう。
「なまえ」
 恋がどんなものかなんて知らない。あなたを傷付けてしまうくらいなら、私なんか、あなたから除去されてしまえば良かった。

***


「あなたは……だれ?」
 薄く目を開けたなまえの精神体にリボルバーは息を飲む。微睡みの中に揺らぐ睫毛に、記憶の中で繰り返される光景を噛み潰してその頬を撫でた。




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