「エラープロトコル?」

 アイウェアを外して起き上がると、手をかざしてエアープロジェクターにデータを表示させる。
『はい、解析の結果、被験者は8歳頃より以前の記憶がありません。それも完全な除去や記憶喪失などではなく、完全無作為であるはずの脳内電気信号にも、人為的なプログラムソースコードが見られます。手術跡やソースコードからして、おそらく電脳ウイルスの前身か、さらに初期の頃のものだと思われます』
「とにかくそれが邪魔をして、思い出せないようになっているのね」
 8歳頃、……時期も合う。間違いなく10年前のロスト事件に彼女は関わっていた。クイーンは立ち上がると、リゾートプールのプライベートワールドからログアウトした。



***

「大丈夫よ、なまえちゃんはこれで何もかも忘れる。幸せな女の子のままでいられるわ」
 バイラ─── あの頃はまだ「滝響子」のままだった彼女が、そう言ってベッドに沈めたなまえの頭を撫でる。
 脳内の微弱な電気信号を解析していた滝と、ファウスト─── 麻生が主治医としてプロトコル階層を弄り、なまえが受けたショックを取り除くサージカルオペレーションを遂行した。
 理由など、私自身でさえ曖昧になってしまっている。思い当たることなどいくらでもあるが、そんなものを列挙したところで、結局自分のせいで彼女からも「全てを奪ってしまった」という結果に変わりはない。
「僕のことも忘れるの?」
「忘れないように、側に居てあげて」
 滝は膝を折って了見に目線を合わせ微笑みはするが、黙って俯く彼を置いて部屋を出ていく。最初こそ部屋の外でバイラを待っていた父やファウトが話し合う声が聞こえたが、次第に遠くなり、あとは真っ白い箱の中でなまえの呼吸と電子音の静寂だけになった。
 ただひとつだけ、「これで了見も、暫くこちらには来ないだろう」と安心したような父の声だけが耳に残っている。……私は最初から部外者だったのだと、言われたような気がした。



 目を閉じているのに、世界がそこにある。夢でもなんでもない。誰かからビデオハードディスクのように好き勝手に記憶を再生されて、それを私も見ているだけ。それはデータとして吸収され、私というアイデンティティまでもが消滅し、体が少しずつ崩れていく。
 ベッドで目を覚ましたあの日、手を握ってくれていた了見に出会ったあの時。それより前のことはほとんど覚えていない。なまえという名前も、了見が私をそう呼んだからそうなっただけ。
 私の情報が分解されて食べ尽くされていく。身体的には18年生きてきたはずでも、記憶情報は10年分もない。きっと物足りないでしょうね、貴女には。
『そんなことはありません』
 ビーズに針を刺すように、細胞のひとつひとつを繋げて出来上がっていくなまえの意識の分身が、まだ無い顔でニッコリ笑う。
『私にはまだわかりません。あなたの記憶の中の鴻上了見は、4、5年ほど前から人格が入れ替わったように態度を変えている。これはあなたのデータ改竄ですか?』
「……」
 ───「お前に父さんの何がわかる! お前は僕の知っているなまえなんかじゃない! お前なんか大嫌いだ!」
 ───「失せろ。私はお前に構っている暇などない」
 ───「何でもすると言ったのはお前だ」
 虚ろな目で過去を振り返った。4、5年前…… 身に覚えがある。でもあれが原因で了見が態度を改めたのではない。了見自身が押し殺してきた感情を、やっと素直に出してくれるようになっただけ。それまでどんなに酷いことを言われようと、全部が嘘だと知っていた。
『理解の範疇を逸脱しています。合意の無い一方的な生殖行為があったなら、統計上あなたはトラウマや精神的ダメージを受けたはずです』
「あなたは私から生まれたはずなのに了見のことは、……男の子の気持ちは分からないのね」
『合理性や倫理的定義に欠ける選択をするのが人間の意志の根幹であるなら、私もそれを習得しなければなりません。あなたは鴻上了見から、一度も笑い掛けられたことすら無いのに、なぜ彼にそこまで執着するのですか?』
 ……え、と喉を鳴らし、思考が停止した。了見から「笑い掛けられたことすら無い」? 何を言って───
『あなたの保有する記憶は全てスキャンしました。笑うという定義を「口角を上げ、頬の筋肉を萎縮させて目を細める」という最低限の身体的特徴で検出しても、ヒットする映像はありません』
 そんなはずはない。了見は、幼い頃一緒に遊んだ頃はよく笑っていた。お友達と3人で遊んだあの日も───
「……3人?」
 ぱち、と静電気のような小さな電流が目の奥で煌めく。黄金色の海に、自分より背の高いソファ。了見の膝に頭を乗せて見上げた顔は、笑っていた。
『脳波から解析不能なデータを受信しました。人為的な制限によって分解されたマテリアルは、保有するあなたですら思い出す事は不可能のはずです』
「(……じゃあ、この記憶は、───)」
『あなたは鴻上了見という人物に干渉することで自我を再形成した。ですが、あなたは元々の人格まで変えることはできなかった。あなたは鴻上了見から酷い扱いを受け、時には身体的にも性的にも傷付けられた。それでも彼を嫌いになる事はできなかったのは、元々のあなたの人格が、そうさせていたから』
「……」
『私はあなたから作られたAI。あなたが鴻上了見によって自我を再形成したように、どうやら、私の意志も鴻上了見という人物に接触して再構築する必要があるようです』


***

───『良かった、目を覚ましたのね』
 目を開けた先にいた男の子にしては、その声は余りにも大人の女性らしいもので、最初に聞いたこの一声が別のひとだったということは後から知った。
『どこも痛くない? 喋れるかな?』
 急かすように掛けられる声の主であろう女性に目を向ける事ができない。左の手をギュっと握って、本当に必要な答えが返ってくるのを待っている男の子を“初めて”見たその瞬間から、なまえの心は正常な機能の全てを失った。


───『あなたは、だれ?』

 記憶の中の幼い日、目を覚ましたあの時のままの顔をしたなまえがそこに居た。
 薄く目を開けたなまえの精神体にリボルバーは息を飲む。微睡みの中に揺らぐ睫毛に、記憶の中で繰り返される光景を噛み潰してその頬を撫でた。
「しっかりしろ。……思い出すんだ。お前の中に私はいる」
「……りょ、」
 やっと電子の海の中で呼吸をすると、崩壊していた石灰の肌に色が滲み、見開いた視界の先には何度も心に描いてきた端正な目がバイザー越しになまえを見つめていた。
「了見、……なの?」───『あなたが鴻上了見』

 バッとなまえの精神体が粉々に砕かれる。同時に一面が赤く照らされ、なまえだった砂が散らばる中で警報音が鳴り響いた。突然のことに財前やプレイメーカーがあたりを見回す。アイも『こりゃヤバいって!』と大慌ててディスクの中に引っ込んだ。
 背後のゲートが封鎖されると、財前はエマが仕込んでいたプログラムによって強制ログアウトさせられる。
「財前……! くっ」
「……」
 リボルバーはなまえの精神体が砕かれた瞬間の方に心を抉られ、呆然としていた。
『リボルバーのやつ……! オイ聞いてんのか! ヤベー状況なんだぞ!』
 反応を示さないリボルバーの背中を見て、アイはディスクから目だけを覗かせて声を荒げる。
 リボルバーは顔を顰めて立ち上がった。その視線の先で、いま砕けたなまえの精神体マテリアルが集まりだし、形態を再構築し始めている。
『なんだあれは……!』
「AI……? いや、アバターか?」
 AIであるはずのアイが焦り、人間であるはずのプレイメーカーが冷静にそれを眺めていた。警報音に赤く塗り潰された空間に、先程までの崩れ掛けた精神体ではなく、自分達と同じスキンテクスチャで覆われたアバターボディとしての彼女が顕現する。

『捕まえたわリボルバー。そして、プレイメーカー』



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