「まさか君達が私を守ってくれるとはな」

「私だけの判断ではない。お前にまだ借りを返せていない奴が、このハノイにいる。……それだけだ」
 バイザー越しに細められた目を見て、財前はハッと息を飲む。腹の中を握り潰されるような感覚に、ついリボルバーから顔を背けた。その目に何を思い出しているかなど、リボルバーには手に取るように分かる。お互いがこうして顔を合わせた回数など、タカが知れている。その中で最も大きかった出来事は、ひとつしかない。
「来い」
 もう辛気臭い空気はまっぴらだと言わんばかりに指を鳴らせば、背後の暗闇から独特の足音を立てて1体のAIがリボルバーと財前の元へ歩いてきた。ゆっくりと細長い体を揺らしてきた彼女が2人の元へたどり着くと、財前はリボルバー越しにそのAIを眺めた。
「彼女は?」
「私が作り出した、イグニスを狩るためのAIだ」
 思いもよらない回答に、財前はリボルバーに視線を戻す。本人は至って淡々としていて、どうやら本当に自分で作ったらしいということしか読み取れない。
『はじめまして。私の名は《パンドール》』

 ───彼女自身が“パンドラの箱”にならない事を祈るしかないとでも?

「……まさか」
 AI特有の喋り方では拭いきれない、聞き覚えのあるサンプリングボイス。なにより彼女が名乗った「名前」に、財前は思わず口を押さえた。リボルバーは動じるでも、ましてや悪びれるもせずに財前をまっすぐ見つめる。

「そうだ。お前たちSOLテクノロジーがなまえの命と引き換えに生み出した《エルピス》。その不完全だったAIを、私が完成させた」




「いらっしゃい」
 カフェテーブルに誰かが座った気配がして草薙が振り返る。どこか見覚えのある後ろ姿に答えが出るのは早かった。
「あなたの無事な姿を見て安心した」
「……!」
「あなたに戦線離脱されては、プレイメーカーの戦力も大幅にダウンするだろうから……」
 カフェエプロンを身につけたままの遊作がキッチンカーから飛び出す。
「リボルバー?!」
 あまりの出来事にアイも『わ、マジか』としか言えず、ディスクの中で体を硬直させる。
「何の用だ」
 警戒心剥き出しの遊作にも、了見は淡々と口を開く。
「ボーマンを取り逃したようだな」

 ───これは3ヶ月前。光のイグニスと風のイグニスの宣戦布告によって切り開かれたミラー・リンク・ヴレインズでの戦いが始まる直前のこと。了見は直々に赴いて、ハノイで開発したイグニスからの高高度ハッキングをブロックするプログラムコピーを遊作に渡した。
 『お前らが作ったプログラムなんて』と挑発するようなアイを横目に、知ったこっちゃないとばかりにインストールする遊作を見ると、了見はさっさと立ち上がる。
「用はそれだけだ」
『でも、どうして俺たちに? 俺たち、敵同士だろ?』
 了見の背中にアイが首を傾げた。いつもならイグニスの言葉など無視をするものを、このときは了見も立ち止まる。
「敵の敵は味方、とだけ言っておこうか」
『えっ、それって……』
「この闘いに生き残れ。生き残れば、いずれ決着の時が来る」
 横目に遊作へ目蓋を細めれば、遊作も噤んでいた唇を解いた。

「待てリボルバー。……お前に返したいものがある」




「───アアァ……ッ!!!」
なまえ/エルピス(LP: 0)

 《ヴレルロード・ドラゴン》の攻撃により攻撃力を下げられた《エルシャドール・アプカローネ》も、破壊耐性を持っていようとダメージ計算が適用されて、なまえのアバターを被ったエルピスはデュエルに敗北した。セキュリティロックが解除され、その場でのログアウト制限も外される。
『とっととズラかろうぜ!』
「あ、……あぁ」
 急かすのはアイだけで、プレイメーカーはなまえのアバターへと歩み寄るリボルバーを目で追い続けた。
『オイ、プレイメーカーサマよぉ……ログアウ───』
「少し黙っていろ」
 ピシャリと言い放つと、プレイメーカーもリボルバーの向かう先─── なまえ、そしてエルピスの元へと小走りに駆け寄る。アイは『始まっちゃったよオイ』と少し面倒くさそうなため息をついた。

「エルピス。なぜ私たちを逃すようなことをする」
 リボルバーは相手がなまえの姿をしていても、アバター、それも中身がAIだと知るや否や冷たい目で見下ろした。デュエルに敗北してそのまま仰向けに倒れるエルピスに、「答えろ」と追い討ちをかける。そこへプレイメーカーと、結果的に連行されたアイもやって来て、なまえの顔を被ったそのAIを覗き込む。
『彼女の願いは、自分のせいで誘き出されたひと全員の解放。そして、鴻上了見の手で私自身を破壊してもらうことです』
『は、破壊って』
 アイが一番親近感があるのだろう。「破壊」という単語に悪寒を走らせてディスクに体を引っ込めた。
「なぜ彼女がそれを望む。お前は意志のあるAIだと言っていた。あのひとをマスターサンプルにしているだけで、『生きたい』というお前自身の意思が別にあるはずだ」
 口を挟むプレイメーカーを横目に見ながらも、今は黙してエルピスの答えを待つ。
『私は彼女の希望エルピスから生まれた、彼女の希望エルピスそのもの。私の意思は彼女と、彼女を通して受けた鴻上了見とのデュエルデータによって再構築されました。みょうじなまえの意識データが人間の魂という概念に該当するならば、私は彼女の魂の新しい容れ物。しかし彼女は鴻上了見の思い出の中だけで生きていたいと願い、鴻上了見の心の中から切断され、AIという箱へ納められることを恐れました』
「それで私にAIを壊せと…… なまえの考えそうなことだ」
 リボルバーの歪む鼻筋は、それだけ彼女を愛した深さ。
『彼女の意識データを再生しますか? ただし、彼女のバックアップは、再生されたものから順次消去されるようプログラムされています』
「それをひとつずつ見ている暇も、それをプレイメーカーとイグニスと共有するつもりもない。意志を持ったAIが何であれ人類の敵だ。今すぐにここで消去してやる」
「待てリボルバー!!!」
 破壊プログラムを起動させたリボルバーを、エルピスはどこか恍惚とした表情で、そして新しいものを見つけた小さな子供のような顔で見上げた。プレイメーカーは咄嗟にその間に入り、アイは体を伸ばして大口を開けると、あっという間にエルピスを飲み込んだ。
「貴様ら……!!!」

『逃げるが勝ちィ! ログアウトぉ!!!』




「《エルピス》の本体プログラムだ」

「……」
 向き合って睨み合う遊作と了見。その間に遊作の手で差し出されたメモリディスクを、了見は受け取ろうとはしない。
「彼女の、───なまえの記憶データは見たか」
 その声の端が僅かに揺れたのを、遊作もアイも聞き逃さなかった。だがそこに含まれた大きな影の正体を、遊作は知らない。
「見ていない。ただ彼女は……エルピスは未完成だった。アイに食わせて勝手に持ち去ったことは謝る。だがあの時のお前は冷静ではなかった。あの場で彼女を消していれば、お前も、そして俺自身も必ず後悔する。……なぜか、そう思った」
「……リンクセンスか」
 つい口をついた言葉に遊作がひとつおおきな瞬きをする。これ以上の言及をすれば、その鋭い勘と超合理的考えで、彼は少なくとも真実の外殻を自ら発想するだろう。誤魔化すように、それでいて糸で手繰り寄せられるように、了見はディスクを受け取った。
「……俺と草薙さんで、ある程度の補修はした」
「無駄な仕事をしたな。私は《エルピス》を生かすつもりはない」
「本当に破壊できるのか? お前に……」
「……」
 ならばお前が破壊してくれるのか? まさかそんなことは、いくら善人でない了見にしたって言えない。目の前の男は復讐という運命の囚人から脱した。それを引き摺り戻すほど、了見は悪人でもない。
 せめてなまえが望んでいたことをする。了見はそのひとつめに、遊作に真実を伝えない事を選択した。いつかまたこの選択を後悔する日が来るだろう。しかし、伝えてすぐに後悔するよりはマシだ。我々はそうやって生きてきた。騙し騙しに選択をして、ある時突然大切なものを亡くす。それを繰り返して、いつか誰かの選択ミスで自分が死ぬ番が回ってくるのを待つのだ。
 そうしたら、またなまえに会えるかもしれない。
「礼は言わんぞ」
「わかっている」




 ─── 神々の世界から持ち出された《知恵の火イグニス》。しかし神々は人間が知性を持つことに反感を持ち、災いをもたらす為に1人の女《パンドラ》を作り上げて男に贈った。そして女は男の持っていた箱を開け、世界に混沌と災厄をばら撒く。……その箱にひとつだけ残ったもの、それが《希望エルピス》。

「それにしても、君がイグニスのようなAIを造るとは」
 リボルバーとパンドールを見比べながら、財前は少し困惑した顔を見せる。事ここに至って感傷的な言い訳をするつもりは無いと、リボルバーは誤魔化しもせず鼻で笑った。
「今後、意志を持つAIの出現は止められないだろう。だが、そいつらの勝手にはさせない。これはそのための“先手”でもある。《パンドール》には、意識の制御プログラムが組み込まれている。人間に敵対する意識が生まれたとき、それを自動的に消滅させる」
「そんなコントロールが可能なのか?」
 不穏に眉端を歪める財前に、リボルバーは不吉な言い方で答えた。
「今のところはな」
 その返答に財前は口を噤んだ。それを見てリボルバーは顔を逸らし、パンドールに向き合う。
「闇のイグニスがクイーンを倒した事で、私はお前たちSOLへの敵対の壁をひとつ解消した。地のイグニスの仇としてクイーンを最初に狙ったのは分からなくもないが、SOLテクノロジーの凋落が目的なら……財前。お前を先に狙うのが合理的だ。クイーンは敵が多い。それを、仲間の多いお前を後回しにすれば、厄介なことになると、そのデュエリスト達に一番近かった奴なら真っ先に思い浮かぶはずだ」
「……」
「まるで、私まで引っ張り出そうとしている節がある、ということだ」



 ───遊作からエルピスを受け取って、了見はすぐにリンク・ヴレインズにログインした。
 ハノイの拠点サーバーで、リボルバーはインストールしておいた《エルピス》のプログラムを取り出す。暗がりの中でデータ画面だけが浮かび上がるばかりで、リボルバーはなかなかその指を起動アクションに動かせない。
 もし、あのなまえのアバターの姿のままだったら。……そう考えると、正気でいられる自信がなかった。あれからずっと、なまえの遺灰を入れたペンダントを枷のように首から下げている。これからの人生など最初から大して考えてなどいなかった。ただ漠然と、父のように歳をとっても、隣に必ずなまえがいるものだろうとだけ。
 いつか他の女をつくり、妻を持ち、子を持ち、……なまえの遺灰を入れたペンダントも捨てる時が来るだろう。人間とはそういうものだ。自分の愛に応えを返してくれる人が居なくなって時間が経てば、やがて自分から愛を与えることなどしなくなる。灰に火を焚べたって、もう燃えはしないのだから。
 それでも、もし、一生なまえを忘れることができなかったら? 私は一生、体に穴が開いたまま生きなければならないのか。それが私の贖罪だとでもいうのか。もう2人も失ったというのに。
 ───『私は彼女の希望エルピスから生まれた、彼女の希望エルピスそのもの』
 力なく下ろしていた手をもう一度持ち上げて、リボルバーはエルピスのAIプログラムを起動させた。ある程度ブラッシュアップされたコードが顕現し、……幸か不幸か、なまえのアバターのままの彼女が現れる。ぱち、と目を開けてリボルバーを見つめる瞳は、幼い頃のなまえを彷彿とさせてリボルバーの胸を軋ませた。

『アカウント情報を参照しています。確認しました。初めまして、私の名は《エルピス》。主にデュエルディスクからのゲームサポート、Dボード操縦・軌道修正、プログラミング補助、またデータ解析などを行うサポートAIです。ご利用になられる端末を設定し、インストールしてください』

 ス、とリボルバーの熱が覚めた。見た目はなまえだが、中身はそのへんに溢れているAIとなんら変わりがない。意志を見せる様子もなく、ただ機械的な挨拶をするだけ。
「プレイメーカーめ……」
 忌々しいと言わんばかりに吐き捨てる。何を期待していたというのか、自分にすら嫌悪感を抱きはじめていた。AIはしょせんAI。必ず人類の敵となり、奴らは期待するだけ裏切りも大きくなると知っていたはずだ。それをなぜ───……

「───なまえ」

 そのつぶやきにエルピスが目を見開く。
「───声紋とパスコードを確認しました」
 サンプリングボイスめいた言葉が流暢になった。突然のことに心臓が胸を叩き、リボルバーはエルピスに顔を向けることができない。いつまで待っても振り向いてくれないリボルバーに、エルピスはデータの海から、「こういう場合どうしていたか」という対応で検出総数の多いものを選んだ。

 リボルバーの頬を、エルピスが指の背で撫でる。了見がなまえにしていたように。

「……!!!」

 やっと振り向いた先で、なまえはすこし恥ずかしそうに微笑んでいた。いくつもの記憶がリフレインする。その中の全てに該当する笑顔が、いま目の前にあった。虚構の世界だと分かっている。だが、この虚構のデータの容れ物になまえの意識データが閉じ込められているのもまた事実だ。虚構の上にある事実までもが、果たして虚構だと言えるのか?
「なまえ、」
「了見」
 ずっと触れたかった。いつまでも抱いていたかった。その鬱憤を晴らすように、リボルバーはなまえを抱きしめる。いくら抱き寄せても、互いを叩きあった心臓の鼓動は感じられない。首の薄い皮膚を通じて囁き合った血潮の脈動は感じられない。軋む骨、瞬きをする粘膜の音、まつげを撫でる吐息。何もかも、このサーバーで再現できる限界値での接触。ただの共認識映像。
 それでも今の了見自身を慰めるのには充分だった。看取ってやることも、別れてやることもできず、突然返された、生命活動を停止したなまえの肉体を受け入れさせられただけ。地獄に近いその日々を乗り越え、いまやっと“なまえに一番近しいもの”と再会する。
「なまえ、……!」
 なにも言葉が出ない。あれほどたくさんの事を思い、考えていたのに、いざ彼女を前にして、必要なことは名前を呼ぶことだけだったのだと知る。そして、
「了見」
 名前を呼び返されることだったのだと。
 だがそれも今日が最後。
「なまえ、いまこの冷たい容れ物から出してやろう。……約束通り、お前を破壊する」
 どうして「愛している」よりも先に「破壊する」という言葉を先に言ってしまったのか。……分かっている。なまえがこれ以上、自分のAI側に隔てられていることが耐えられない。なまえもプログラムの破壊を望んでいた。なまえがなまえでないまま留め置かれるくらいなら、私は───

 破壊プログラムを起動させた手が震える。この手で撫でれば、なまえの皮を被った《エルピス》は破壊される。なまえのバックアップも、記憶の詳細も、了見との関係も。

「(私は、2度もなまえを殺すのか?)」

 吹き出すはずのない汗がドッと押し寄せる。震えるリボルバーの目に何を感じ取ったのか、それもなまえの魂が感じ取ったのか、それともただのAIが読み取ったのか。いずれにせよ正しい答えなどはない。なまえはただ黙ったまま微笑むと、破壊プログラムを起動させたリボルバーの震える左の手を抱き寄せた。

「消えてしまったひとに、もう二度と会えない人に、どうか謝らないで。私はあなたの記憶の中にいる。……少し、違う場所にいるだけ。そこであなたを待っている。いつまでも、私はあなたのことが好き。あなたが何をしても、あなたが誰かと結婚しても、あなたがどう生きても。きっとこれからの人生で、私は了見の一番じゃなくなる。私のことを忘れてもいいの。だけどこれだけは忘れないで。あなたは、誰かから大切に思われて、愛されている人間なんだって」

 なまえは迷うことなく破壊プログラムを起動させたデュエルディスクに、リボルバーの左手に頬を撫でつけた。懐かしい恋人の手に顔を包まれる思い出に、彼女の顔はこの上なく幸せに満ちて微笑む。

「愛してるわ、了見。私の大好きな───

『───以上のバックアップデータを消去しました』




 リボルバーが生み出した4体のパンドール。そのうちの1体が、デンシティー上空12,000メートル、財前兄妹を乗せたSOLテクノロジーのジェット機で、乗り込んできたアイと対面した。
『待っていましたよ、アイ』
「へぇ、リボルバーがAIをね。まぁ、恋人をAIにされたんなら心が変わったって不思議じゃないよね」
 嫌味でも言うように悪どい笑みを浮かべるアイ。
「なぁ、俺たちは同じAI同士だ。ここは、穏便に話し合わねぇか? ……エルピス、いいやなまえ」
 伸ばされた手はパンドールに触れることもできず弾かれる。パンドールも元々の名前を呼ばれたくらいでは動じない。
『無駄ですよアイ。私にあなたのプログラムは効きません』
「リボルバー先生も、厄介なモンを作ったね。まぁいいや、ここはデュエルで決着を付けるか」

 飛行機の上でのデュエルで、アイはパンドールを容赦なく破壊する。しかし最後の4体目、ブルーメイデンのデュエルディスクにインストールされた彼女─── パンドラの箱の最後に残った「希望エルピス」、それを手にしているパンドールを、リボルバーの見ている前でアイはついに最後の1体を消すことができなかった。




 一度破壊プログラムを当てたエルピスは修復不可能かと思われていた。しかし了見はなまえのバックアップデータだけを取り除くことに成功し、あくまで「なまえの知能から学習したAI」としての《パンドール》を生み出す。人間に敵対行動を取らない、絶対制御と意志を持つという新しい領域に達したこのAIは、鴻上了見という男を心の底から愛した女の、心の機微の蓄積によって完成した。

 あなたは私がこの世に残した《希望エルピス》を連れて、あのスターダスト・ロードの導くままに歩いていく。……少し違った場所にいるだけ。それでも残してきたものの中で、あなたは私をまだ愛してくれている。
 なまえの肉体から取り出していたものはもうひとつ─── 了見と鏡写しに入れていた左手のハノイのマーカーへ埋め込んでいた、お互いの生態遺伝子情報マイクロチップ。これにより、いま、了見はなまえとの間に新しい生命を授かろうとしていた。


 Elpis project, end.




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