「よくここに独りで来たな」

 リンク・ヴレインズと並行した、謂わゆる裏ネットワーク世界に設けられたハノイの拠点。指定した座標位置にログインしてきた男を前に、リボルバーは淡々と、しかしどこか感心したように言った。
「敵の敵は味方だ」
 いくつものセキュリティプログラムによるバウンスショックを抜けてきた筈だというのに、この男─── 財前晃も、流石はSOLテクノロジーの重役と言ったところか、腹の据わった物言いをする。「敵の敵は味方」、最初にそう言って敵対していた側プレイメーカーと協力したのが張本人リボルバーだと知っててそう言うか…… と、リボルバーは鼻で笑った。
「フ…… 闇のイグニスの行方に関して、何かわかったのか?」
「全力で探しているが、おそらく見つかるまい」
「そうだな」
 どこか淡々と進める一方で、二人とも微動だにせず睨み合う。気の抜けない緊張感の中で先に余裕を見せたのはリボルバーの方だった。だが、それがここがハノイの領域だからという理由だけではない。
「ヤツは逃げる事に関しては我々より上手だ。5年ものあいだ、ネットワーク中を逃げ回っていたのだからな」
「見つからなければ、私の命はあと3日だ」
 財前の、様々で複雑な感情からの吐露は、どこか自嘲と諦めが色濃かった。

 ───イグニス同士の騒動の末にPlaymakerの元を去り、姿を消していた闇のイグニス、Aiアイ。彼は昨夜、ハッキングしたソルティスで現実世界に降り立ち、SOLテクノロジーのトップであったクイーンを襲った。……クイーンと二分割して持っていたSOLテクノロジーのセキュリティーコードキーを奪うため、3日後に財前を襲うという犯行声明まで残して。

「闇のイグニスは強敵だが、お前をみすみすやらせるつもりはない。……策は練った」
 この件について、リボルバーは協力的な姿勢を見せていた。かつてハノイとSOLで苛烈なまでに対立していたとは思えないその姿勢は、おそらくリボルバー自身が、彼を単にSOL側ではなく、財前晃という人物として向き合っている面もある。しかしそうだとしても、財前にとってはまだ意外だった。
「まさか君達が私を守ってくれるとはな」
「私だけの判断ではない。お前にまだ借りを返せていない奴が、このハノイにいる。……それだけだ」
 バイザー越しに細められた目を見て、財前はハッと息を飲む。腹の中を握り潰されるような感覚に、ついリボルバーから顔を背けた。




 ───いつからか、そんな事はどうでもいい。強いて言うなれば半年前だろうか。

「おかえり、了見」
 リビングと言うには広すぎるその部屋で、父のベッドサイドの椅子に座っていた女は彼の顔を見るなり微笑んだ。湾曲したガラス窓から差す夕日で一面オレンジ色に染まった中、ただ心電図だけが自然界にない蛍光色の音を発している。
 リンク・ヴレインズから現実世界に戻り、若干の倦怠感に滲む視界。返事よりも疲れたため息が先にこぼれた了見に、彼女は別にどうこう言うわけでもなく、微笑んだままベッドに横たわる人に向き直った。
「父さんの様子は?」
「大丈夫よ、安定してる。今日の分の流動食と、あと、身体も拭いておいたわ」
「……いつもすまない。本当に助かっている」
「いいのよ」
 了見は彼女の横に立ち、医療ベッドに横たわったままの父・鴻上聖を覗き込んだ。いつ見ても、何日開けても微動だにしていない父の姿に、了見は目を伏せる。
 ベッドのふちに置かれたその手に、水仕事で少し荒れた手が重なった。ただ黙って、心配そうに見つめる彼女を、了見は手を引いて抱き寄せる。大人しく腕の中に収まる彼女の髪に鼻先や口元を埋めれば、了見も少しは平静を保っていられた。
「私に、お前がいて良かった」
 少し浅黒い肌に、銀色の髪、空色の目。水晶玉より美しい彼女の目を覗いていたいだけなのに、曇りのない表面にはそんな見飽きた自分の姿が映り込むばかりで、これでは鏡を見ているのと変わりない。それが了見にはどうしてももどかしかった。
「ちゃんと薬を塗ってるのか?」
「うん、でも…… 塗ったあと、どこか触って汚してしまったらいけないと思って……」
「来い」
 父の介護や家事を任せてばかり。そのせいで荒れた、女の子の手。了見は罪悪感に潰れそうにな胸を抱えて彼女の手を引き、医療ベッドを離れてキッチンカウンターの方へと足を進めた。カウンターの高椅子に彼女を座らせ、処方箋の紙袋に入ったまま放置されていた軟膏薬を取り出して、彼女の荒れた指に塗り込んでやる。
 彼女の左手─── 自分の手と鏡写しに印された赤いマーカーを、了見は同じ赤いマーカーのある自分の右手で撫でた。目を覗くほど自分の姿ばかりが映り込むのと同じ。自分の存在は、彼女にとってウイルスプログラムのようなもの。
「了見?」
 夕日がゆっくりと海面に落ちていく。群青色に沈んでいく中でわずかに白い輪郭だけが見える彼女に、了見は何も言葉を返すでもなく、ただ静かに唇を重ねた。
 ほんの触れるだけのキスでも、彼女がとろけそうなほど震えているのが、握った手や、甘い吐息だけでわかる。

「───なまえ」

 もう一度、今度はその頬に手を触れて、了見は口付けをした。




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