神の妻(5)

 目を開けると、天蓋から垂れるリネンのベールの向こうは、まだ日が昇る前の青白い空気に覆われていた。
 左手の小指と、薬指の小指側半分。そこから垂直に手のひらから肘までの腕に感覚が無い。ビリビリと痺れる原因は、上腕と肘のあたりを枕にした前世のなまえの頭。
 彼女の安眠のためなら、左腕くらい二度と使えなくなったって構わない。
 心からアテムはそう思った。それでもやっぱり腕が上げる悲鳴に少しだけ身を捩り、前世のなまえに体を向け抱き締めると、起こさないように腕の位置を変える。
 直接触れ合う肌は、なにも腕や顔だけじゃない。自分のあばらに当たるふたつの乳房に、これがもう仲の良い兄妹の、ただの添い寝などではないのだと、アテムは昨夜以上に実感していた。

 本当ならもう起きる時間。だけど心地良く体を襲う睡魔にあくびをして前世のなまえの前髪に鼻先を埋め直すと、アテムは二度寝を決め込む。気を遣われてか、召使い達も起こしに来ない。今だけは、この特権に甘えたいとさえ思う。
「……ん、」
 吐息まじりに漏れる声、ほんの少しだけよじる首と、自然と背中に回される腕。痺れがやわらいできた左腕で前世のなまえの頭を包むように撫で、右の腕で掛け布を引き上げてやる。
 それから微睡みに任せてアテムは目を閉じた。




「して、どうじゃった?」
 部屋でじっと待っていたシモンが、セトが顔を出すなり食い気味に詰め寄る。その後ろでは同じく待っていたアクナディンがテーブルの上で手を組み、黙ってそれを眺めていた。
「シーツを見るまでもございません」
「おお! 流石は王子」
 何がだ。事ここに至ってセトは好者爺らしいシモンの側面に顔を顰める。徹夜させられたせいか、それとも他の理由か、セトはすこぶる機嫌が悪かった。それを知ってか知らずかのシモンが「これまで王子をご教育あそばしたこと」についてあれこれ口に出して振り返っているのをセトは聞き流し、ただ酷く疲れた体を少しだけ伸ばした。
「王子と王女は、今どうしておる」
「まだお休み中でございます。念のため召使いの者共にも、今朝は起こしに行かぬよう伝えてはおきましたが、……如何なさいますか?」
 アクナディンが応えるまでもなく、シモンが我にかえってセトを見上げる。
「うむ。お二人もお疲れじゃろう、このまま朝はゆっくり寝かして差し上げよう。そなたも徹夜でご苦労じゃった。あぁ、今日は一日休むがよい」
「いえ、幸いまだ早朝。少し眠れば問題ありません。王女のお食事前までには、また出仕して参ります」
「相変わらず見上げた忠誠心じゃ。じゃが体を壊しては元も子もないでな、あまり無理をするでないぞ」
「は、」
 頭を下げてセトは部屋を出て行く。アクナディンは、その背中を黙って見ていた。




 ちゅ、と冷たい唇が眉の端から目元のあたりに触れる。後ろから抱き竦めた腕が肩を撫で、朝の涼しい空気に目を開ける。
 ハッとして振り返ると、もうすっかり目を覚ました夫が微笑んで妻の目覚めを眺めていた。

「あっ…… ごめんなさい、寝坊してしまうなんて」
「良いんだ、もう少し休んでなさい。まだ体調が戻っていないのだろう」
 アイシスが目を覚まして、マハードはやっと彼女の下敷きになっていた腕を遠慮なく抜く。そのまま起き上がろうとするアイシスの肩を押して寝かせ、掛け布を口元が隠れるほど引き上げた。

「あとひと月は休暇を頂いているのだ。家の事は叔母上やマナが、息子にも乳母がいる。今は自分の身体を第一に労ってくれ」
「はい、……ありがとうございます」
 寝台の横に膝をつき、マハードはアイシスの額に口付けをする。
「何かあればすぐ医者を呼ぶのだぞ」
「まあ、そんな大袈裟な」
「ダメだ。何かあってからでは遅い。私が心置きなく勤めを果たせるよう、どうか約束してくれ」

「……マハード、」
 アイシスが横に向けた首を少し上げて、マハードの頬に手を添える。嬉しい気持ちがある反面、こんなに頼りない人だったかと少し心に綻びが生まれていた。

「産褥と清めで貴女が不在だった20日間は、地獄の様だった。昨夜久々に共に眠れて、アイシスがどれだけ私にとって大きな存在であったか再び思い知らされたのだ」
「そんなこと、……マハード」
 アイシスは起き上がってマハードに向き直った。その目は少しばかり苛立ちが透け、マハードはその真意が掴めずどこか唖然としてアイシスを見上げる。

「貴方は王家に仕える身。なぜその様な事を言うのです。貴方はわたくしのことよりも王家をご案じなさるべきではないのですか? とくに今は、この家はわたくしだけでなく、マナや叔母上までも人より多くいとまを頂いているのです。マハード、六神官に列せられた最高神官となりましたが、わたくしの夫となった以上はこの家の継嗣でもあるのです。アテム王子に幼い頃からお支えになったことで特別な計らいを賜ってはいますが、王宮は常に何があるかわからない場所。とくにアクナムカノン王亡きいま、王位継承までの不安定な国と王子を側でお支えするのが貴方の役目。わたくしの分までお勤めに励まなくてはならない時に、なぜそんな甘えた事を言うのです」
「……、す、すま、ない」
「私達は王家のために命をも捧げる神官。息子に恵まれた今だからこそ、どうか心置きなくお勤めに励んで下さらないと」
「……そ、そうだな」
 結婚して初めてアイシスから説教をされ、マハードは言葉辿々しい。気圧されたままに立ち上がると、「い、行ってくる」とだけ残して寝室をあとにした。

 マハードが部屋から出て行ってから、アイシスはハッとして「言い過ぎた」と自分を諫めた。
 一年近く職に出られていないストレスと、子供を産んだ事で自分の価値観が変わった事、そしてその変化にマハードが付いて来ていない事に、どうしても苛立ちが先行してしまったのだ。
 だが、原因はそれだけじゃない。

「(……地獄のようだったなら、なぜ、そうなる前にわたくしに打ち明けて下さらなかったの)」

 アクナムカノン王が死の床についていたのは、アイシスが産褥に入るよりずっと前だったと知って、マハードが隠していたのだと悟った。勿論それが優しさからだったと知っている。それでも─── そうだったとしても、苦楽を共にすると誓った夫婦の契りは、一体何のためのものだったと言うのか。

 アイシスは泣きそうになるのを堪えてシーツの海に潜り込んだ。横になれば、まだ軋む身体が目蓋を重くして、緩やかな癒しと眠りに誘う。
「……マハード、」
 本当はとても愛している。さっきの言葉も、本当は女としてとても嬉しかった。
 だからこそアイシスの中の神官というプライドが咎め、きつい言葉を浴びせてしまった。……でもマハードならきっと分かってくれる。根幹は同じ神官。王という神に仕える者。

「(でも帰っていらしたら、謝らなくては)」
 アイシスはゆっくりと、睡魔に導かれるまま目を閉じた。




「あ、セト様! おはよーございま〜す」
「……ああ」

 どこか間延びした明るい声に、セトは内心舌打ちをした。マナのことを嫌っているわけではないが、マナの顔を見ればマハードやアイシスの顔がチラつく。特にこんな時では、底抜けに明るい声だけで頭痛を増長させた。
「あ! 待ってくださいセト様!」
 挨拶だけですれ違うつもりが、マナはセトを呼び止める。ゆっくりと振り返るのを待ちもせず、マナはあくまで自分のペースで捲し立てた。
「シモン様を知りませんか? 今日はアタシが王子にお仕えする日なのに、さっき誰も部屋に入れられないって追い返されたんですよ?」
 プンプンと怒るマナを見るに、よっぽど態度の悪い追われ方をしたのだろうと伺える。だがセトも、今は目の前の年若い娘の相手をする余裕は無かった。むしろ何も知らないが故に呑気でいられるマナが鬱陶しくも、そして羨ましくも感じる。
 だからと言って意地悪をしようと思ったわけではなかった。それでもセトは言葉の端々に、つい棘を含ませてしまう。
「王子は今日王女と共寝をされた。王子の部屋付きの神官なら、シモン様を伺う前に、女官達に取り替え用のシーツや入浴の支度をさせたらどうだ」

「はぁ、……」
 共寝、だけでは意味を掴めなかったらしい。しかしそれ以上の事はセトも口にするのを憚った。
 とりあえず言われた通りには動くらしく、マナは方向を変えてアテムの部屋の方へと向き直る。
「なんかよく分かんないけど、シーツとお風呂ですね? 女官長様にお伝えして来ます! セト様ありがとうございました!」
 勢いよく頭を下げるマナに、セトもため息を漏らす。なんとなく、マハードの苦労を垣間見た気がした。そして飽く迄で純粋なマナに、彼女がどれだけ大切に育てられているのかも。
 駆け出そうとしてすぐに足を止め、よろけながらマナはセトに振り返る。
「あっ……とと! お風呂に入れる薬草やお花を用意しなくちゃですよね? 王女の好みって分かりますか?」
「……」

 王女の好み、そんなもの知り尽くしている。パルミラから運ばれた乳香セネスラに、ヒエラコンポリスで群生するゼラニウム、ナイルアカシアや黄金色の睡蓮セシェネ、中庭の薬草園で摘んだばかりのタイムイヌニケ─── だが今は、何も言葉として思い浮かばなかった。何もかもが虚無で、砂に埋れていて、どんな芳香を思い出そうとしても、泥のような生臭さとなって鼻に込み上げる。

「セト様?」
 目を細めてぼんやりするセトに、マナが不審を覚えて首を傾げた。セトは誤魔化すように小さな咳払いをすると、吐息まじりに鼻筋をひとつ掻く。
「そういうのは男の私よりも、王女の部屋の女官長が詳しい。悪いがそっちへ聞いてくれ」
 「あ、そっか! ごめんなさい」と、大きな目をさらに丸くして慌てるマナに、セトは「もう話す事はない」と言わんばかりに背を向けて、足早に去った。
 その背中にマナはもう一度頭を下げると、すぐに方向転換してアテムの部屋へ続く回廊を走って行く。遠ざかる軽やかな足音に振り返るでもなく、セトはもう一度ため息を漏らした。

「(無様だ)」
 前世のなまえの好みや願い、記憶したことの全てが、今やセトにとっては不要のものと成り果てた。もうこんな事を気にしなくてもいい。自分が覚えずとも、どうせ王女の周りの女官達が把握している。王女を思って何をしたところで、王女の愛が得られるわけではないのだから。
 立ち止まってセトは空を見上げた。太陽が登り始めた青白い空、その西の端の城壁近くに、ぽつぽつと星の残光がある。

 ───あなたのこと、嫌いじゃなかったわ

「フン」
 セトは鼻で笑うと、足早に自室の方へと向かった。




 父・アクナムカノン王の死から3週間。その日の王宮は異様だった。女官の多くが胸や腹を出した簡素な服で、顔や頭にまで泥を塗っている。男の召使いや下位神官までもがシェンティ1枚で歩き、それはやがて大きな一団となって王宮の城門を抜け、民のいる街へと練り歩いて行く。泣き女達が大袈裟に嘆き、その姿を民に見せる事で、民の下々に至るまでが王の死を悟るのだ。
 そこにたった2人残された王子と王女の悲しみなど、どこにも介在していない。前世のなまえはアテムの肩に頭を預けて、城壁から張り出したバルコニーの長椅子からそれを眺めていた。

 思い出すのは、西岸へ付き従う9人の側近を誰にするかを言い争う高官たちの姿。王の死を悼むのも束の間、それすらも王家との社会的な関係性や親密さを衆目に誇示するための機会として、高位の者たちの餌食になるのだと、アテムと前世のなまえは目の当たりにした。
 これが王家の人間の姿。最期まで祭り上げられて、最期まで誰かのために使われる。……私たちも、そしていつかこの腕に抱く子供たちも。

 どちらも何も言わない。必要などなかった。お互いの何もかもを知っている。だからそれで充分。繋いでいた手の絡め合った指がどちらともなく握り締められた。漠然とした不安の風が前世のなまえのつま先を冷やす。寒気に少しだけ身をよじれば、アテムは繋いでいた前世のなまえの手を離し、自分の長い外套を広げて抱き寄せた。

「葬儀が終わったら、俺はアビュドスへ行かなくてはならない」
「……」
「できることならお前も連れて行きたいが、女であるお前にナイルを渡らせる事はできない。……それに、危険な道のりだ。野盗や夜の獣がいる所へ連れ出すわけにもいかない」
「……」
「王宮にはマハードを置いていく。代わりに、お前のセトを俺に貸してくれないか」
 ふと顔を上げてアテムの目を覗き込んだ。もちろん「だめ」なんて言えない。だけど、なにか試されているような心地がして、少しだけ胸に燻るものが込み上げた。

「2人とも連れて行けばいいじゃない」
 ため息まじりにそう言えば、アテムも困ったように微笑む。
「アビュドスは遠い。20日以上は留守にするんだ。お前をよく理解する神官が必要だ」
 言葉半分に前世のなまえはアテムの腕から抜け出し、立ち上がってバルコニーの柵まで逃げた。手をついて俯けば、アクナムカノン王の死を悼み、城壁に縋る下々の民の姿が見える。

「セトは王の執務を完全に把握できていない。マハードなら、必ずお前を助けてくれる」
「……」
 本当はそれ以上に言うことが、思っていたことがアテムにはあった。それを前世のなまえが悟ってくれると理解していて、ただ口を閉ざす。

「アテムも父上と同じね」

「……」
 風の音よりも小さい呟きを、アテムは聞き逃してなどいなかった。だがそれを否定するも肯定するもできないで、ただ沈黙を残して立ち上がる。足は一度、前世のなまえの方へと向いて踏み出した。しかしここで風に晒される彼女を抱きしめれば、この申し出さえかき消してしまうような気がして、アテムは唇を噛んで足を止める。

「明後日、民の前で父上の葬儀を行う。俺の巡礼の同行の件も……セトには、お前から伝えておいてくれ」
 踵を返してバルコニーから部屋へ戻っていく足音を背中で聞くだけで、前世のなまえは決して振り返らなかった。

 ひとつだった足音が部屋を出れば、その足音は増えて、控えていた神官や女官たちがゾロゾロとアテムについて行っているのが見なくても目に浮かぶ。その流れに逆らって、たったひとつ、自分の主人を探して部屋に入ってくる足音が背後に迫るのも。見なくても、それが誰か前世のなまえにはわかっていた。




 ───西へと進め、有徳の船着場、ケフェト・ヘル・ネベスへ。アメン神はそれをアクナムカノンに与える。汝ら沈黙する者の波止場、そこに終焉の安息地のある事のなんと喜ばしいことか。ハトホル女神はそれをアクナムカノンに与える。全ての正しき者の場所を用意し、アクナムカノンを彼女の腕に抱きとめるなり。

 王の棺を9人の高官達が掲げ、ネシェメトの船に乗り込んでいく。年老いた高官達が持ち上げるのに苦労しないようにと、あの棺が空っぽである事は王宮の人間なら誰でも知っていた。それでも民はあの死の象徴に嘆き、信じ込む。そして輿上の王子の気丈さ、その胸に下げられた千年錐の神々しさに、彼が次の王だと下々まで知れ渡る。
 同じように、少し離れた輿上には、カラシリスのベールを何枚も頭から被った王女がいた。しかしアテムは彼女を一瞥するなり、“本物の王女”がいる王宮の方へと目を向ける。
 ……王女は、王位継承権を持つ前世のなまえは、あの王宮から出る事はできない。王子の横にいる女が前世のなまえ王女本人でない事も、王宮に仕える人間の殆どが知っている。

 形だけの儀礼、見栄のための葬列。本当の亡骸は死の翌日に、密かに西岸へ運ばれている。きっと今ごろはアヌビスの民によって体を開かれ、肉の外殻を風に当てているのだろう。

 王の空の棺を乗せたネシェメトは西岸へと向かう。死の旅路に帰り道などない。父王は果たしてオシリスの前にたどり着き、無罪の赦しを得て、アアルの原野に足を踏み入れることができるだろうか。
 ……2人の王妃に再会できたろうか。

 ───『お前も来てくれたか』

 端の方でワッと声が上がる。
 突然意識を引き戻され、驚いた顔のまま兵達が駆けていく方へ振り向くと、少し離れたところで男が取り押さえられた。短剣が転がり、少し遅れてアテムの側に控えていた軍の指揮官・カリムもその場へと駆け寄る。
「王位継承権は純血の王女にあり! 純血の女王、万歳! 女王万歳! ワセトの王位を掠め取る穢らわしいヌビアの血め!」
 ヌビアの血、半狂乱の男が声高に叫んだその言葉に民衆が騒めく。途端に顔色を変えたシモンがカリムに命じた。
「そやつを黙らせよ!」
「……! まて、殺すな!!!」
 アテムが静止するのも間に合わず、アテム王子を襲おうとした暴漢は衛兵達の槍に滅多刺しにされる。前世のなまえ王女の身代わりをしていた女や、その周りの女官からは悲鳴が上がり、アテムの前で血が砂に吸われていく。

「王子、民の前ですぞ。取り乱してはなりませぬ」
「……ッ」
 アクナディンの諫めるような声にグッと堪えて唇を噛む。冷徹なまでに心を閉ざし、騒めく民衆へ視線を戻せば何事もなかったかのように振る舞う。

 生まれて初めて向けられた悪意に、アテムの手は震えた。
 これが外の世界。王宮の中が全てだった子供時代は過ぎ去った。今や向けられた悪意、そして自分を憎悪する人間までもが、王として守らなくてはならない国と民に含まれるのだ。この身を捧げてでも。
「(父上……)」
 これが王になるということ。

 ─── 『ワセトの王位を掠め取る穢らわしいヌビアの血め!』

 兵士たちによって、息絶えた暴漢が引き摺り出されていく。これから先、同じように自分を狙う人間はいくらでも現れるだろう。父から受け継いだ王位、そして母から受け継いだ……今は亡き王国の血筋。

 ───『祖国を、お前の王家を滅ぼした私を、お前は赦し、愛してくれた……』

 紫色の瞳を覆う瞼のふちが揺らぐ。自分の母親の事など、前世のなまえと同じで殆ど覚えていない。2人の王妃の関係さえも。だが幼かったとはいえ、アテムにも忘れられない光景というものはある。
 ……2人の王妃の死の傍らには必ず黄金の杯があった。大人になるにつれその憶測は仄暗い邪な方へと逸れ、答え合わせのできない中で考えをどんどん捻じ曲げていく。それ故に、父王が最期に見せたあの恍惚とした顔がアテムを抉った。
 2人の王妃が並び立ち、肩を抱き、笑い合って1人の夫を迎える。父王がこの世の最期に見たものは、きっとそんな願望による光景だったのだろう、と。

 そして父の死にもあの杯はあった。それが何を意味しているか、アテムなりに理解しているつもりだ。───前世のなまえはあの黄金の杯を見ても無反応だった。それが幸福なことか、不幸なことかは彼女の今後にもよるだろう。知らせても不幸、知らせなくても不幸。ならば自分や信頼できる神官が、妻の身の安全に目を光らせるしかない。

 ぎゅ、とお腹のあたりが締め付けられた。視線だけを横に滑らせ、マハードとセトの姿を神官達の列から探す。

「(信頼できる、神官───……)」


 馬上のアテムを、少し後ろに控えるアクナディンが覗く。フードの中でも、砂の大地から照り返す太陽の光は千年眼を輝かせていた。
 ナイルの対岸へと進む船が水面を滑り行く。空の棺、虚構の忠義、虚栄の高官。あれがアクナムカノン王の全て。死をも粉飾に彩られた兄の葬儀は、一層アクナディンの心を蝕む。……「まだたりない」と。
 アテムの胸に下げられた千年錐はまだ沈黙をしている。アビュドスへ行き、神にその心臓を捧げる誓を立てればアテムもまたアクナムカノン王のように王の列へ加えられ、あの千年錐のウジャド眼が再び開かれるだろう。それまでに、アクナディンにも成すべきことがあった。

 ちらりとセトの背を見る。我が息子ながらなんと心変わりの早い男だと思いつつ、また自らも早々に妻とセトを捨てた過去を振り返るに、同じ血なのだとため息が出た。
「(セト、もう間もなくだ。……もう間もなく、お前に邪魔な存在は全て、私のこの手で取り払われる)」
 セトを見るその目は恍惚とさえしていた。親の贔屓目と言われたらそうだろう。だがアクナディンにとって、あの端正な横顔、母親によく似た青い目、それらはアテム王子よりも高貴に映っている。

 王女との正式な婚姻前のアビュドス聖地への巡礼 ───それこそが最大の好機。王子の旅先は危険が多く、そして王女1人の王宮も砂の城同然。アクナディンの願いは叶おうとしていた。




 ぱつり、と落ちる長い髪の束。赤い髪は血のように足元へ転がり、軽くなった頭に不安な首が揺らぐ。
 美しかった髪は切り揃えられ、女官が拾い集めた“無用のもの”は王女自身の手で束ねられる。櫛を通して麻布で縛りまとめると、さらに大きな麻布で包み、前世のなまえはそれに香油を振りかけた。


「……! 前世のなまえ、お前……」
 旅支度の進むアテムの部屋に行けば、すっかり髪を下ろした前世のなまえに案の定狼狽えた顔で彼は駆け寄ってきた。そんなアテムを前にしても、前世のなまえは淡々と麻布の包みを差し出す。
「私の血の温もりと息が染み付いた髪よ。共に行けないならせめてこれを持って行って、アビュドスに着いたら、どうかこの髪も捧げ物にしてほしいの。太陽神ファラオの列に加えられるアテムに、どうか神の名ホルスの啓示が囁かれますように」
 アテムの指が随分と風通しの良くなった前世のなまえの肩に、そして髪の先に触れる。痛ましそうに目を伏せると、もう片方の手で前世のなまえの手から髪の束を受け取った。
「……そして、アテムが帰るまで、女を捨てる誓いの証し。無事に帰って来て、あなたが私の夫になるまで、私は髪を伸ばさない」
「前世のなまえ、……」
 神官達のように切り揃えられた髪に、アテムはまぶたを落として前世のなまえを抱き締める。あの城壁に面したバルコニー、抱き締めるべきだったあの時の分を取り返すように、冷たい前世のなまえの肩に鼻下を埋めた。香油の花の香りに汗の匂いが混じり、溶けるほど熟れた石榴(ザクロ)イェナヒメンとなってアテムの鼻先を惑わす。


 女のはらはナイルの底に通じている。女を抱けば男はそこへ落ちていく。───帰ると言うべきか。女の胎に通じるこの肉の道を、男が掻き分けてその門戸を叩く。
 どんな女も、最初は男に抱かせるのを躊躇うだろう。この世に産まれた時から、自分の脚の付け根の間には死の世界への入り口が穿たれていると知っているからだ。自分が愛した男にこの門戸を叩かせ、破らせて、「どうか共に地獄へ落ちてくれ」と迫るのを、それを男が受け入れるのも、まして拒まれ棄てられるのも、女は行く先の全てが地獄だと知っている。愛の旅路に帰り道などない。
 やがて髪の色は褪せ、歯の本数が減り、目に光が入り難くなり、乳房はしぼみ、若さに湧き立っていた血潮もその熱を忘れるというのに、他人からは「それが幸せというものだ」と押し付けられ、理想や願望の残りかすの底に沈んだ寝台で夢を見る。……父のように。

 ───『アテムも父上と同じね』


 夜も明け切らない窓辺。寝台に寝転がったまま顔だけ向ければ、僅かに望む岩壁も青白く浮かび上がっている。冷たい背中に体を起こせば、自分をおし包んでいたはずの半身が無い。代わりに、その半身が門戸を叩いて溶かした熱が臀部へ伝い垂れた。

「すまない、起こしたか?」
 振り向けば、もう随分と服を着込んだアテムが千年錐を首に掛けながら歩み寄ってきた。そのまま寝台に腰を下ろすと、マントの裾を掴んで裸のままの前世のなまえを迎え入れる。
「黙って行っちゃったのかと思った」
「俺がそんな薄情な男に見えているのか?」
「……こうして、お別れの時間を作る方が薄情なんじゃないの?」
 胸に抱き寄せられても千年錐が邪魔をして、肩に頬を預けて寄り掛かるくらいしかできない。手のやり場が無くて、前世のなまえはアテムの首に下げられた千年錐に指を絡めた。
「マハードが入浴の支度を済ませてくれてある」
「……」
「……俺とお前は深く分かり合えている。だからと言って、思っていることを口にしないのは、……いずれ俺たちに亀裂を生むだろう」
 静寂の朝がワセトの地に迫る。泡立つミルクの地平線は遠く、夜の冷気に押し寄せる熱は雲となり、やがてアテムと前世のなまえの瞳と同じ赤紫色に滲む。

「……前世のなまえ。お前とこうして結ばれたことに、俺は本当の幸せを得ることができた。だがこの幸せも、お前自身も、全ては父の死によって手に入れたものだ。それは、お前が受けた絶望も同じ。父によってお前はマハードという恋人と、別れも告げられないまま引き裂かれた」
「……」
「俺の心を打ち明ければ、お前をまた不幸にするとわかっている。だがそれでも聞いてくれ。……この旅から帰ったとき、お前が真に人生を共にしたい男が誰かを打ち明けてほしい。王位継承権など関係なく、だ」
 アテムは前世のなまえの頭に手を回して、もたれかかる自分の肩から顔を上げないように抑え込んだ。……その顔を見るのが怖かったから。

「アビュドスは遠い。“ナイルの水が赤く染まっても、俺がそれを見ることはできない” だろう」
 どく、と熱がこぼれ落ちる。子宮が体の奥へと引き下がり、アテムが注いだばかりの子種が寝台のシーツに染みた。

 どうか共に地獄へ落ちて。そう言えば、アテムは喜んでこの手を握るだろう。だけどこれは違う。アテムは私の全ての半分。そう言ったのもアテム。
 地獄への道を歩いているのは、私独り。どうして気付いてしまったのだろう。理想や願望の残りかすに沈む寝台で夢を見ていたのは、私だった。



 遠く波打つ小麦色の地平線。黄金色の朝日の中へ、アテムと引き連れた一団が列を成して溶けていく。朝焼けは淡い卵黄色、青白い中に浮かぶ、白い月。やがてアテムと前世のなまえの同じ赤紫色の瞳は引き離され、その距離はどんどん広がる。

 アテムに付き従うのはシモンをはじめ、護衛のシャダ、軍人のカリム、そしてセト。王宮に残される王女は、アクナディンとマハードの手に託された。
 真紅の朝焼けならば、みな血が流れる予感を得てそれだけ警戒心を持てたかもしれない。それだけ、前世のなまえの影を長く伸ばす朝日の空は、清廉な青を称えていた。


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