生贄の逃亡

 前世のなまえは王宮が大嫌いだった。

 美しいとか賢いとか、善いとか優れているとか……前世のなまえは生まれた時から、それも肉親以外の人間の殆ど全てから、跪かれ崇められ、そして褒め称えられてきた。それもこれも、彼女が王位継承権を持っているから。

「前世のなまえ様が王をお選びになるべきよ……ファラオは腹違いのアテム王子ばかりご寵愛なさって」
「生まれた時からアテム王子とのご結婚が決まっておられて…ファラオは前世のなまえ王女を飼い殺しなさるんだわ。」
「前世のなまえ様の次の代は、アテム王子が側室に産ませるならまだマシよ……2代前に兄妹婚なされたファラオは、“種馬”を王妃の寝室に忍ばせたんですって」
 自分を賛美するかのような美しい言葉だけを拾って、女官たちの陰口の…静かな声は聞こえないフリをする毎日。おぞましいその内容も、年齢とともに一つ、また一つと理解していく。それでも黙ってナイルの川底で光る小石のように、私は濁流おうきゅうの中にあっても太陽ファラオに照らされて輝き、見る者の目を引くのだ。

***

 『前世のなまえ様!───前世のなまえ様!』

 王宮の大きな壁や柱に遠くからこだまする女官達の声を無視して、前世のなまえは王宮の後宮から抜け出した。生まれてから13年で自ら学んだのは、「兄王子アテムの陰口を叩くような気に入らない女官がお目付け役の時は、後宮から抜け出しても大丈夫」という事。
 王女である私を罰する事ができるのは父王とアテムだけだが、気に食わない女官達は色々な人たちから罰せられるし、王女付きの任を解かれるオマケ付きだ。前世のなまえからしたらメリットしかない。
 それに、なかなか会えないマハードと会えるチャンスなのだ。


「修練場?」

 落胆の声が頭の上に落ちてくるなり、マナは慌てて前世のなまえを慰める。期待に相反して憧れのマハードはアテムと共に出征中だと言う。
「ア、アノ、…王子と数日は篭ってて、お師匠さまは王女が来てくれるなんて思ってもいなかったから、でも!もし知ってたら絶対に王女と会ってたと思うし、お師匠さまだって本当は毎日でも王女と会いたいとおもってるし、……あ!いけない!いまのは口止めされてて、エット───」
 自分より幼い者があたふたしているのを見れば、どんな人間だって冷静になるものだ。それに、「本当は毎日でも会いたい」と思ってくれていると知れただけで、前世のなまえには後宮を飛び出してきた価値があった。

「そんなに気にしないで。大丈夫、たまたま抜け出せただけだから! それより私が此処へ来たことは誰にも内緒よ?」
 マナの手を取って念を押してから、前世のなまえは中庭を抜けて駆けて行った。思いのほかまだ見つかっていないのをいい事に、王宮の書簡庫へ足を伸ばそうと思ったからだ。

***

 柱の影に隠れて衛兵の視線を躱しながら、前世のなまえは小さな冒険の果てにその扉を開いた。ワクワクするような宝物には見えないかもしれないが、前世のなまえにとってパピルスの束や積み上げられた石板は、自分が様々な物事を知らないという事を知る事ができる唯一の手段だ。
 そうそう誰も来ない場所なだけに、前世のなまえは警戒心を解いて中へと進んでいく。気の向いた数だけ床の石の目を進んで、気の向いたところから手を伸ばして古文書や神話を読み進めていく。それがこの書簡庫での彼女なりのルールだった。

 だが今日は手を伸ばさず、代わりに顔を上げて壁画に目をやっていた。そしてなぜかその目は黒い頭を持った神に注がれる。

「(この神様は、えーと……ジャッカルの頭だから───)あぁ、セト!」

「はい」

 突然返ってきた返事に飛び退けば、パピルスの束が積まれた棚から、自分と同じか…少し年上くらいの男の子が半身を覗かせているのと目が合った。乾期の底抜けに青い空と同じ色をした2つの瞳だけが、砂埃だらけの書簡庫でキラキラと輝いている。しばらくそうやって互いに見つめ合ったあと、やっとその少年が口を開いた。

「…………誰だ?」

 そう口にされて、やっと前世のなまえも顔を顰めた。彼女からしたら、この国の王女で、王位継承権を唯一持っていて、誰もが崇拝する権力者である、そんな自分に「誰だ」と眉を顰める人間に、…それこそ生まれて初めて出会ったのだ。
 この少年───セトからしても、同じような気持ちであった。名前を呼ばれたので読みかけのパピルスから目を離して、それもわざわざ立ち上がって見てみれば、全くもって知らない少女がそこに立って居たのだ。

「あ、あなたこそ…誰よ。」
 王宮で自分を知らない人間が居るはずはない。そういう気持ちが目の前の少年に対する猜疑心となって顔に出ていた。
 それを見たセトは、すぐにこの少女がどこかお偉い方の娘かなにかだろうと察して、相手の警戒を解くように物腰を改める。

「私はセト。名前を呼ばれたから顔を出したんだ。…あの、神官になるために、シモン様に頼んでここで勉強をさせて貰っている。」

 2つの疑問がこれで解かれた。セト神の名を口にしたら、たまたま居合わせた彼もセトという名前だった。前世のなまえを知らないのは、まだ謁見できる立場の人間ではなかった。
 前世のなまえはやっと安堵のため息をついてセトに向き直った。そして自己紹介をしようとして、一旦言葉を飲み込む。

 ここで名前を口にしたら、彼は自分を崇拝する人間の一人になるだろう。

 そう思った途端に、前世のなまえは口から出まかせに名前を出した。

「私は……アナト。アナトって言うの。」
「アナト?」
「そう、……私も、そのシモン様から言いつけで。教師からの勉強をサボった罰で、ここに。」
 セトはやっと小さく笑って「シモン様ならやりそうな罰だ」と返した。

「あなたの名前を呼んだつもりはなかったの、……ホラ。あれ見て。セト神の名前が出てこなくて、すこし考えて思い出したら口からも出たのよ。」
 まるで一から説明しなければ理解して貰えないとでも思っているように、前世のなまえは壁画を指差したりして懸命に喋った。ただ名前を偽っただけだというのに、人に嘘を付くのがこんなに大変な事なのかと冷や汗が出てくるのだ。

 その懸命な姿を見てセトは笑い、やっと前世のなまえの困り顔が目を見開いてパチクリと動く。
「わかった、…わかったから。そんなに緊張する事はないじゃないか。」
 セトは前世のなまえに歩み寄ると、幾分背の低い彼女を見下ろした。

***

 窓から差し込む光が随分と壁に当たるようになって、壁に並んで背中を預けて座り込む二人は顔を上げた。どれだけ話し込んでいたか時間を忘れていたのだ。気がつけば互いに喉はカラカラで、部屋中に積み上げられたパピルスが、二人から身体中の水分を吸い上げてしまったような気さえする。
 前世のなまえにとって、身分を忘れて笑い合ってくれる人間は初めてだった。その刺激があまりにも楽しくて、気持ちが良くて、まるで水を浴びてから夕涼みをするような清涼感が、その流れる汗すらも気持ちよく受け止められた。初めて自分の言葉が素直に相手に響き、また率直な相手の言葉を浴びせられ、前世のなまえは自分が「生きた人間」なのだと実感し、感動していた。

 セトも同じ気持ちだった。自分の過去や出自を知らない人間同士、こんなにも対等に話をする事ができるのだと。そしてセトは、外見に劣らない彼女の魅力的な内面に、初めて女性に憧れを抱き始めていた。

「アナトって言ったね。」
「え、ええ。」
「たまたまセトって呼ばれたのがセト神だって言われて驚いたけど、君の名前にも驚かされたよ。」
「……!」
 前世のなまえは一瞬身構える。内心、このまま自分の本当の正体を知られないままお別れしたかったからだ。だが前世のなまえの緊張とは裏腹に、セトは少し上気した目で、横に座る彼女の赤紫の瞳をジッと見つめる。深く澄み渡る青い瞳に、前世のなまえはやっと、この胸の高鳴りが……マハードに初めての恋をした時と同じものだと気付きはじめていた。

「セト神は元々、ウガリット神話のバアル神から来ているんだ。それで、……そのバアル神の妻が、アナト女神って言うんだ。」

 目眩のような小さな煌めきが前世のなまえを襲っていた。心臓の音が首を伝って直接脳を叩いている。セトは見開かれた前世のなまえの目をジッと見ていた。二人は互いに自分がどんな顔をしているのか分からないのに、互いの顔を見ればそれがどんなものか見当がつく。
 前世のなまえはどうしたらいいか応えあぐねていた。言い出したセトでさえ、どうしてそんな事を言ってしまったのだろうかと思い始めている始末だ。

 窓からの光はもう赤く染まり、二人の身体の半分は藍色の陰に隠されていた。太陽は地平線でその目を覆おうとしている。ついにその光が王女に届かなくなろうとしているとき、迫り来る陰の隠れ蓑に……前世のなまえは、ゆっくりと目を閉じた。
 セトは硬唾を飲んで前世のなまえに身体を向けた。そして震える手で、彼女の震える身体に触れる。ここからどうすべきか───知らないわけではない。セトは不思議な力で引き寄せられるままに、ゆっくりと目を閉じて顔を前世のなまえの唇に落とす。

 ───セトはその唇に触れる前に、胸に押しやられた手のひらによって目を開ける事になる。
 前世のなまえは目を閉じ心の中を見渡した時に、マハードを見たのだ。そしてセトの胸を押して身体を離した。

「あ、───ご、ごめん、なさい」
 セトの胸にやった手が、セトも酷く心臓の音が早い事を知らせてきた。だがもう遅い。セトも普段の慎重な自分がなぜこんな事をしているのかと我に返っている。その震える手を離したとき、扉が開け放たれて大慌ての女官を引き連れたシモンが雪崩れ込んできたのだ。

「前世のなまえ様!前世のなまえ様いらっしゃるんじゃろう!!!まったくファラオも御心配なさってますぞ!前世のなまえ様!」

 前世のなまえの顔がサッと青くなる。セトはそんな前世のなまえの内心も知らないで、彼女を放して立ち上がると、声のする方へ顔を出した。

***

 セトはほんの数分、いや数十秒に起きた事を、全て受け止めきれないでいた。

 セトは「こんな所に王女様なんておりませんよ」と言うつもりで顔を出した。だがシモンがセトを見て、そしてその向こうに立つ彼女アナトを見て、王女の名前で呼んで飛んできたのだ。

 振り返る事が出来なかった。身体中の水という水が、布を絞ったように肌から冷や汗となって吹き出して、しばらく血の気を感じる事ができなかった。
 前世のなまえ王女は女官達に囲われて出て行った。

 セトは最後に一度だけ、女官達の隙間から彼女の目を見てしまった。生き生きとしていたあの瞳は暗く色褪せ、悲壮感に満ちてセトを見つめていた。まるで処刑台に急かされる罪人のように、供物に捧げられる仔羊のように。そしてセトは理解した。彼女は、前世のなまえは生贄にされている王宮の生活から、あの僅かな時間だけ逃亡できていたのだと。

 もしあの時王女に口付けをしていたら、彼女は自由になれたのだろうか。



 前世のなまえは重い足取りを自分の部屋に向けて進めていた。別に抜け出して叱られて部屋に戻るなんて事は珍しくない。だが、こんな喪失感は初めてだった。
 本当の自由を知ってしまった。自由に話して、自由に恋をして、自由に身体を相手に預ける。…最後はやはり自制してしまったが。同時に再認識をしてもいた。自由は簡単に奪われ、自由は元からなく、結婚相手は兄王子アテムで、私は一生“こうしてたまに抜け出すのが楽しみな王女”なのだと。───そして、マハードを愛しているのだと。

 前世のなまえはセトという初めて出会った少年に、自由と恋と愛の理想を全て詰め込んでしまった。そして身を任せようとした。初潮を迎えればすぐに後継者こどもの作り方を教えられるのが当たり前だと思っていたが、……セトは口付けを愛情表現に選んだ。
 同時に罪悪感にも襲われていた。あの青い目が何を訴えているか前世のなまえには分からない。分からないが…平等な立場を享受していた相手がこの国の王女と知るや、セトは前世のなまえを責めるのではなく、自らを責めているのだけは察知した。
 一生あの青い瞳を忘れる事はできないだろう。
 なにもかもが新鮮で、鮮烈で、輝いていた。砂埃の積もったあの書簡庫でさえ、僅かな空気の流れに舞う砂がキラキラと光を反射して、初めて《お前は生きているのだ》と前世のなまえに囁いた。

 前世のなまえは13の歳のこの時、闘うことを心に決めた。ナイルの民を守るために。一時の夢を見せてくれたセトに、愛してしまったマハードに、民が王族とも自由に話し、笑い合い、そしていつか結ばれるために。


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