その愛呼び醒ますことなかれ
 マハードは真面目で、高潔で、なによりも従順な男だった。

 少なくともそう評価されていた。でなければ少年期から王宮に仕え、幼い王子と友好を交える事も…むしろ出会う事すらも叶わなかっただろう。
 決して有力な家の出というわけでもなかったが、マハードは魔術師としての才能と、無欲で従順であるが故に信頼を勝ち取り、この国のアテム王子の側近くに仕えた。

 それがどんな運命と出会うことになるのかも知らずに。


「あの、前世のなまえ様……」
 マハードは思わず息を飲んだ。乳香を焚きしめた部屋はまるで蜜で満たしたように官能的で、マハードの腕に絡む前世のなまえの指が少しでも這い動こうものなら、赤銅色の肌からは汗が樹液のように滴り垂れる。

「大丈夫、誰も来たりしないわ。」

 粉末になるまで砕かれた宝石マラカイトが前世のなまえの瞼を覆い、煌々と燦く彼女の瞳を彩っていた。その熱い眼差しで見つめられるだけで、抗いようのない愛と慕情がマハードの身体を駆け巡り、そして途方もない畏怖が心臓を掴む。
 常人に耐えがたい苦痛と、常人に与えられるはずのない歓びに引き込まれて、自らが侵す聖域にどんどん足を取られていった。

 アテム王子に仕えれば、前世のなまえ王女と知り合うのは必然だった。

 マハードは前世のなまえを、最初は幼くも気品溢れる王女だと思っていた。だがその成長を間近く眺めるうちに王女は日に日に美しくなり、気高くも心優しいその姿に、マハードはいつしか彼女を本当に愛してしまっていた。
 愛してしまったからと言って、マハードはその愛を恐れたりはしなかった。王…つまりは神の子である前世のなまえ王女とアテム王子は、自分のような下々から愛されて当然の存在であると考えていたからだ。
 生涯をかけて愛し、崇敬し、仕えることのできる2人に出会えたことは、マハードにとってまさしく天啓であった。

 しかし今になって、マハードはその愛を恐れていた。

 前世のなまえ王女はしもべマハードを愛してしまったのだ。
 マハードにとって、それは抗いようのない出来事だった。王家に仕える身として潔白であらねばならぬと自分に言い聞かせても、前世のなまえの熱い眼差しを受ければ、己の手は自然と彼女の神聖な指に触れてしまう。
 次第に2人は言葉を交わすようになり、隠れて会うようになり、見つめ合うだけでその愛を確かめられるまでに至っていた。

 もし見つかりでもしたら、その時は───

「どうしたの、マハード」
 前世のなまえの呼びかけにハッとして顔を上げた。まだ幼さを残す王女の瞳に、マハードは思わず唇を噛む。石床に大きく広がるごく薄いカラシリスの裾には灯火の明かりが揺らめいていた。
 当たり前のように触れ合い、絡み合う指先がマハードの視界を揺るがせる。甘い吐息をもらし、薄い皮膚の下で熱い血潮を巡らす同じ人間。目の前の彼女はそれを望んでいる。それを理解して、彼女が望むように応えてきた。応えられた筈だった。

「前世のなまえ様」
 マハードは顔を背けてその手を放した。
「やはり私には───……」
「お願い、私から逃げないで。」

 身を引こうとするマハードを追うように前世のなまえは膝をつき、もう一度その手を掴んだ。
「前世のなまえ様! なりません、私のような者に!」
 マハードは慌てて膝をついた前世のなまえの肩を抱いて立ち上がった。思わず腕の中に前世のなまえをおさめてしまい、驚いた前世のなまえの顔を見れば、時が止まったようにその腕を離せなくなる。

「あ……」
「前世のなまえ様、……」
 2人の横顔に灯火の明かりが揺らめく。王女の位を著す首飾りに髪留め、今はどれもマハードの目には映らない。
 マハードは震える手を前世のなまえの顔に添えた。やっと瞳の奥に本心を見せたマハードに、前世のなまえは思わず息を飲む。

 前世のなまえが愛おしい。
 ───この女が欲しい。

「王女様」
 その無音の空間に外から女官の声が割り入った。現実に引き戻されて前世のなまえが咄嗟に目を逸らせば、マハードもまたその身体を放す。

「お部屋にシモン様がお見えです。」

「……いま行きます。」
 名残惜しそうに前世のなまえはマハードに振り返り、その首にうんと手を伸ばすと口付けをした。
「……ッ、前世のなまえ様」
「また会いにいらして、マハード。」
 返事を待たずして前世のなまえは長い髪を翻し部屋を出て行った。マハードの唇に感触を、そして身体に芳香を残して。
 口付けが前世のなまえに出来る最大限の表現だと知っている。マハードはやっと自分の心臓が煩いくらい高鳴っていることに気が付くと、ため息をこぼして手を握った。



 前世のなまえはマハードを愛していた。
 決して王女の気紛れなどではなく、前世のなまえはマハードの心の本質を見抜いたうえでマハードを選んだ。マハードは実直で、真面目一辺倒で、一見なんの面白みもない男だが、彼の誠実さは前世のなまえにとって…… ひいては王家の人間にとってどれだけ重要なものなのか、それを理解していた。

 どれだけ平和な国を取り繕っても、水面下では誰の家から第二・第三王妃を出すか、誰の妻が王子や王女の乳母になるか、誰の息子が王子の側近になるか、誰の娘が王女付きの女官になるか…… そんな下らない争いをしていて、ときに神官同士でさえ小競り合いを起こしている。
 そんな中にあって、マハードだけは損得勘定なしによく仕えた。嘘をつかず、陰謀を企まず、常に誠実で王家の人間に絶対服従をする彼の純真な心に、前世のなまえはいつしか惹かれていた。

 だからこそ、マハードの事を、前世のなまえは守らなくてはならなかった。



「前世のなまえ様」
 部屋に戻ると、千年錠を携えたシモンが待ち構えていた。
 どんなに取り繕ったところで、王女の秘め事などこの神官には筒抜けだ。マハードとの事もシモンは知っている。それでいてマハードを追放したり処刑しないのは、いずれマハードの存在がアテム王子に必要だと分かっていたからだろう。……シモンはマハードを直接指導できる配下に置き、常に目を光らせている。

「前世のなまえ様、あまり抜け出されてはワシも庇いきれませぬぞ。」

「……ええ、わかってるわ。」
 シモンは父、アクナムカノン王に便宜を図ってくれる唯一の神官であり、父の側近でもあった。マハードの首が身体に付いていられるのも、殆ど彼のお陰でもある。
 前世のなまえはため息をつきながら、シモンの前を通ってバルコニーに出ると、夜風のあたる椅子へ腰を下ろした。

「ちゃんと約束は守ってる。……マハードも、よく耐えてくれています。」
「マハードとて男ですぞ。ワシはあの者の精神力を買ってはおりますが、万が一王女様によからぬ事を起こせば───…」

 シモンの小言は自然と頭に入って来なかった。6歳から同じ事を言われ続けているのだから、前世のなまえにだってそのあたりの切り替えは身につく。

 ……そう、マハードを好きになったのは6歳の頃。身勝手で傲慢な恋をした。マハードはそれを知らない。彼に想いを打ち明けたのはほんの半年前だけど、マハードと出会ったことで愛に目覚めたのは… もう8年も前の事だった。



「マハード」
 石柱の陰からかけられた声に、マハードは足を止めた。振り返ると篝火の陰に特徴的な青い瞳の煌く男が立っている。
「セト……」
 セトはあたりを見回してからマハードの側へ来ると、なにかを探るように目を細める。

 セトはマハードと違い平民の出自であった。それ故に同じ下位の神官でありながら王宮の中でも出入りできる場所は限られ、周りからの風当たりも強い。しかし彼は臆したり下卑することなく、むしろ高圧的で野心家の面を持つ。マハードとは水と油ほどソリが合わない男だった。

「フン、一体どこへ行っていたのかと思えば、……随分と華やかな場所だったようだ。」
「なに」
 鼻で笑うセトに牽制するが、マハードは内心心臓が高鳴っていた。

「服に化粧がついている。それに、男社会の神官どもは女の匂いに敏感だ。……追求される前に着替えてくるんだな。」
 ぐっと口を噤むマハードに、セトは勝ち誇ったような顔で通り過ぎようとした。だがマハードのすぐ横で足を止めると、どこか懐かしいその移香に目を伏せる。

「この王宮において貴様だけは嘘偽りのない……潔白な男だと思っていたが、どうやら私が買い被り過ぎたようだ。」

 マハードが振り返ると、セトはもう歩き出していた。なにか言い返せるものでもなく、ただ言葉にならない息を吐き捨てると、マハードは自室に向かって足早に去って行った。



『ねぇアテム、私にマハードをちょうだい。』

 8年前、私は兄に仕えていたマハードに恋をした。

『マハードは物や奴隷じゃないんだぞ。それに、マハードをどうするつもりだ。』
 アテムは困った顔で前世のなまえを覗き込んだ。庭園でマナと魔術書を広げるマハードを遠く眺めながら、至って大真面目だと言わんばかりに前世のなまえはアテムと同じ色の瞳を煌かせている。

『マハードとけっこんするの!』

 その夜、私は初めて父王から顔を打たれた。理由もわからず泣きじゃくって、左の頬が痛くて、父王が何を言っていたのか少しも覚えていない。
 だけど、泣きじゃくる私を、父はすぐに抱きしめた。大きな手で頭を撫でられて、それからの事は少し覚えてる。

『前世のなまえ、お前はアテムと結婚しなければいけない。アテムと共に大人になっても、私はアテムを次の王にすることができない。

  アテムを王にする事ができるのは、前世のなまえ……お前だけなんだ。』



「《おとめ、ナイルの子らよ、汝らはケメト。愛よ、おのづから起きることなかれ。我の呼び醒まし時まで。殊更に、汝、その愛呼び醒ますことなかれ》……」

「前世のなまえ?」

 石盤ウェジュの神殿、三幻神のレリーフを戴く最も神聖な石壁を前にする前世のなまえに、アテムは声を掛けた。
「泣いてるのか」
 その声に前世のなまえの肩が一度震える。振り返るでもなく、ただそこに座り込んでいた前世のなまえの背中に、アテムも座り込んで背中同士を預けた。

「……続きを聞かせてくれないか。」
 声を堪えてしゃくり上げる腹違いの妹の背中を感じながら、アテムは静かに目を閉じた。時折松明から薪の割れる音だけが響く神殿に、前世のなまえが震える声を振り絞るのを待つ。

「……───《おとめ、ナイルの子らよ、我にかたく誓えよ。愛する者に会はば、汝ら何とこれに告ぐべきや。愛によりてはや患ふと告げ。おとめよ、汝の愛する者は、別の者の愛する者に、何の勝れるところ、ありや》……」

 前世のなまえは振り向いてアテムの背中に取り付いた。アテムは何も言わず、ただ後ろ手に前世のなまえの頭を撫でやる。
 そうやって暫く静かになったと思えば、前世のなまえはアテムのマントの裾を引き上げて鼻をかんだ。

「おい!」
 不穏な音に振り返れば、前世のなまえはもういつもの笑顔で立ち上がった。

「あー、スッキリした。」
「前世のなまえ! おまえ!」
 祭壇の石段を駆け下りていく前世のなまえの背中を目で追うが、本当に追い掛ける気にはならない。やれやれとため息をついて腰に手を当てれば、前世のなまえは足を止めて振り向いた。

「おやすみなさいアテム!」

「……、あぁ。また明日な。」
 遠目に見れば前世のなまえは笑っていた。だがアテムは、あえて濡れた足元を見ないでおいた。



「お呼びでしょうか。」
 マハードは膝をついて頭を下げた。内心穏やかではない。セトから指摘されて服を着替えた所で、今度はアテム王子からの呼び出し───…… なんとも長い夜だと体が重くなった。

「マハード、どうか王子と神官ではなく、幼い頃から共に育った友としてオレに答えてほしい。」
 驚いて顔を上げると、アテムは月を背中に真剣な眼差しでマハードを見つめていた。マハードはその光景に息を飲み、背筋を伸ばして短く了承する。

「……王女を、前世のなまえを本気で愛しているか。」

「! ───……それは、私には、お答えできません。」
 顔を背けるマハードに、アテムは激しい剣幕で詰め寄った。
「本気でないなら前世のなまえを弄んだのか!」

「いいえ!!!」

 自分でも驚くほどの大声に、マハードは狼狽してアテムに謝罪する。そして震える身体を必死に押さえ込み、強い眼差しでアテムを見た。
「あの方を、……前世のなまえ様を愛しております。愛さずにはいられませんでした。しかし前世のなまえ様は王子の、あなた様の妻となられるお方。それをどうして問われるのですか。
  王子こそよくご存知の筈です。あの方に、前世のなまえ様に私が愛を告白して何ができましょう。引き裂かれる運命にあると分かっていながら、前世のなまえ様の心に私が触れてしまうなどできません。
  王女が私にどんな気持ちを抱いて下さっているか分からないほど私も愚かではないのです。しかし、私の応えをお伝えして本当に傷付くのは前世のなまえ様です。だから私は───……!」
 青い顔で項垂れるマハードの肩に、アテムは手を置いて膝をついた。

「いいんだマハード。オレはお前をどうするつもりもない。……お前の本心を聞けて安心した。お前は一度たりともオレに嘘や偽りを言ったことがなかった。そのお前が今言ったことを、オレは心から信じる事ができる。」
「王子……」

「マハード、覚えているか。オレはお前に、同じ赤い血が流れている同じ人間であると言った事を。そこにファラオと神官と、民と何の違いも無い。身分なんて関係ないんだ。
  お前が前世のなまえの事をそこまで思い詰めて、愛してくれていたことが、オレは嬉しいんだ。
  今はまだお前の立場を危うくしてしまうものかもしれない。だがどうか前世のなまえのためにその思いを貫いて欲しい。……オレは確かに前世のなまえと結婚しなければ、父の王座を継ぐことさえできない立場だ。オレ達兄妹は、国のために、ナイルの民のために犠牲になる事は厭わない。
  それでも、もし前世のなまえの幸せになるなら、マハード…… その時は、前世のなまえの側にいてやってほしい。」

 砂漠を抜ける冷たい風が、アテムとマハードを駆け抜けた。
「お前になら前世のなまえを任せられると信じているぞ。」



 マハードは真面目で、高潔で、なによりも従順な男だった。

 少なくともそう評価されていた。でなければ少年期から王宮に仕え、幼い王子と友好を交える事も…むしろ出会う事すらも叶わなかっただろう。
 決して有力な家の出というわけでもなかったが、マハードは魔術師としての才能と、無欲で従順であるが故に信頼を勝ち取り、この国のアテム王子の側近くに仕えた。

 それがどんな運命を齎らすことになるかも知らずに。


「前世のなまえ様……?」
 マハードは朝日も昇りきらない早朝の薄寒い庭園で、息を白くする前世のなまえを見つけた。あたりに女官やお目付役の者は見当たらない。寝着のまま身体を抱いて震える王女に目を丸くして駆け寄り、マハードはマントを広げて胸の中に彼女を導いた。

「よかった、やっぱり会えた……」
「なんという無茶を。お体に障ります。」
「いいの、……暖かい。」
 服越しにも分かるマハードの厚い胸板に顔を埋め、冷え切った体を預ける。8年前自分から抱きしめた相手とは思えないほど強く、逞しくなったマハードの身体に、思い出との間に横たわる長い時間を思い起こした。

「もっと強く抱いて。」
「いけません」
「寒いの、……命令されたいの?」
 しばらくの沈黙のあと、マハードは強く、それでいて優しく前世のなまえをさらに抱き締める。このまま溶け合ってしまいたい。そう思っても、皮膚と皮膚で区切られた2つの肉体は、そう簡単に……魔法のようにはいかない。
 ゆるゆると昇り始めた太陽に、2人はどちらともなく腕を離した。
 太陽が目覚めるとき、太陽神はまた王女を見ているのだ。

「戻らなくちゃ。」
「お送り……致します。」
 最期の足掻きとばかりに、指先だけが絡み合っていた。これを離してしまえば、次に会えるのはいつになるか分からない。

城壁からは太陽が覗き始め、黄金の光がマハードの頭上に迫り来ていた。前世のなまえはゆっくりと首を横に振る。
 まるでその光を恐れるかのように2人はその場へ膝をついて、最後に口付けを交わした。

 しっとりと暖かく押し包むマハードの唇が離れると、前世のなまえはゆっくりと目を開けた。マハードの瞳は真っ直ぐ自分に注がれ、決して口にできない言葉をその瞳の奥で囁く。
 やがてマハードは金色の縁取りを帯び、ナイルの水面より青い空が2人を覗き見た。

「前世のなまえ」

 マハードは確かにそう言った。あの彼がもらした声は、王族の娘を呼ぶときのものではない。太陽の下でマハードが王女をそう呼んだ事の意味がどれだけ深いものか、それがわからないほど前世のなまえは愚かではない。

「マハード、あなた……」
 その先はもう一度落とされた唇に飲み込まれた。



『おとめナイルの子らよ、汝らはケメト。愛よ、おのづから起きることなかれ。我の呼び醒まし時まで。殊更に、汝、その愛呼び醒ますことなかれ…』

 ほんの少しだけ残る記憶の中で、母はいつも歌っていた。決して子守歌なんかじゃないその歌が、王家に生まれた女のために歌われるものなのだと、今なら分かる。

『母さま、それはどういういみなの?』

 あの人は美しく笑うだけで、『いつか分かるわ』と言っていた。そう、そのいつかはもうやって来た───…… だから今なら分かる。

 女はケメト、豊かな黒い土。王が呼び醒ますまで、私の愛を起こしてはいけない。私の愛が、その者を王にするのだから。



 そう、いつかこの愛が再び呼び起こされるとき、私は男を王にするだろう。


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*前次#


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