血の代償
 誰かを憎むことがどんなに恐ろしいことなのか私は知らなかった。
 純粋だったからこそ、私が孕んだ憎悪はどんな夜の色よりも暗く、どんな闇よりも深い。そして私の愛が大きければ大きいほど、残酷な仕打ちをする事ができる。

 きっとセトも同じだったんだと、今ならわかる気がした。



「前世のなまえ様」

 今日何度目かわからない呼び掛けにうんざりした顔で前世のなまえは振り向いた。……“あのとき”のセトが神官までのし上がり、今では前世のなまえの部屋に仕えている。だが、前世のなまえにとって今目の前にいるセトは思い出にあるあのセトではなかった。

「……なんでしょう」
「そろそろ陽が陰る頃です。お身体に障りますので、中へ」
「大丈夫よ。もう少し、こうしていたいわ」
「……は」

 なんでもない事ですぐに声を掛けてくるし、常に目を光らせている。それこそ24時間を7日間、まだふた月だけど、このままいけばきっと365日。朝の陽が昇る前に部屋を抜け出してマハードと密会を重ねる事が出来ていたけど、セトが前世のなまえの部屋仕えになってからは一度たりともマハードと2人きりになれる時間が取れていない。

 石造りの泉の庭。水浴にも使うこの泉にカラシリスの裾が水に触れるのも構わず、前世のなまえは石段に腰を下ろしていた。南東の空を見渡すテラスで芦の葉や水面を揺らす風を眺めるだけの時間でさえ、セトは前世のなまえから目を離さない。

「ずっとそうしてたら疲れているでしょう。少し休んできなさい」
「いえ、私こそ大丈夫です。ご心配賜り光栄です……が、前世のなまえ様に仕えるのが今の私の役目。それを放棄する事などできません」

 いい加減どうしようもない苛立ちが募っていた。
 マハードはアテムの部屋仕え、セトは前世のなまえの部屋仕え。いっそ交換してほしいと思っても、父王が決めた事を覆すことなどできない。
 何よりセトが部屋仕えになってからというもの、父王に仕えているアクナディンまでよく王女の部屋に顔を出すようになった。……セトの直接の指導官だから仕方ないとしても、マハードと前世のなまえの関係にとって状況は最悪だった。

 それでもいずれ事態は好転すると見込んでいる。セトが前世のなまえの部屋に仕えているのも、彼がファラオへ仕えるため、何れ神官としての最高権力を得るための足掛かりに過ぎないからだ。
 あと半年も我慢すればセトも千年宝物を与えられ、仕える相手は父王に変わる。独りマハードに恋を抱いていた長い月日を思えば、半年や1年など大した時間ではない。
 私とマハードの関係は、そんな短い時間で変わってしまうようなものではないと信じているのだから。

「前世のなまえ様、せめてこれをお掛けください」

 いつの間にかセトがすぐ横に膝をつき、ショールを差し出していた。真っ直ぐに注がれる青い目に心が騒めく。先に目を逸らしたのは前世のなまえだった。
「失礼します」
 セトがショールを広げて前世のなまえの肩に掛ける。マハードどころか女官達ですら人の目のある場で王女に触れる事を恐れるというのに、セトだけは堂々と前世のなまえに接した。
 まるで対等な人間だとでも言うように。

 その度に心に細波が立つ。セトはずっと諦めていた“自由”を思い出させる象徴だった。今だって“対等”を求めていた前世のなまえの心に応えるような態度をこうやって見せてくれる。
 だからこそ、セトが“自由”を奪う足枷でもある現状に尚更息苦しさを感じていたのだろう。



 マハードは焦っていた。
 セトが前世のなまえの直近で仕えるようになってから、彼女と言葉を交わすことさえ出来ていない。……それどころか神官としての地位でも先を越され、千年錫杖に選ばれ次の任官でセトは王に仕える六神官となる。
 平民からのし上がってきた以上相当な実力者であるとは知っていた。だがここへ来てマハードは真にその実力を知ることになったのだ。

 正直なところ地位などどうでもいい。マハードにとって、この国を……ひいてはアテム王子と前世のなまえ王女に報い、お守りする力がまだ足りていないと実感することがなによりも辛い。
 次の任官でマハードも上位神官になる。それでもセトからは一歩遅れている。先にスタート地点へ立っていたのは自分だったはずなのに、そう思うと尚更苦悩してしまった。

「精神が乱れているようですね」

 ハッとして顔を上げると、青い炎を挟んで対面に座るアイシスがジッとマハードを見つめていた。
「あ、……いや、すまない」
 目を手元に伏せれば、書きかけのパピルスにインクが何滴か落ちている。それだけ長いこと呆けていたのだろう。マハードは大きくため息をついて筆を墨壺に戻した。

「なにか悩みがあるなら…… わたくしでよければ聞きますよ」
 そう首を傾げて覗き込むアイシスに、マハードは「いえ」と短く返す。もう一度チラリとアイシスの方を見れば、彼女はまだ真剣な眼差しをこちらに注いでいる。
「本当に大したことでは…… すまない、アイシスの集中の邪魔をしてしまったな」
「邪魔だなんて。私たちは共にこの王宮で支え合ってきたではありませんか、」
「……そうだったな」
 どちらにせよ書き直さなくてはならない。マハードは墨壺に蓋をして立ち上がると、書き損じたパピルスを篝火の中へ放り込む。そしてそのまま部屋を出て行てしまった。

「……マハード、」



 その背中をアクナディンが見ていた。
 石柱の陰から去っていくマハードを眺め、アクナディンは徐ろに自らの方の目を手で覆う。千年眼が僅かに煌めき、マハードのその心を覗き見た。

 セトの邪魔になる者は誰であろうと葬らなくてはならない。それが例え兄の息子であろうとも。

 その決心を前にして、無名の神官如きに容赦するアクナディンではなかった。
 王位継承権を持つ王女さえ手に入れてしまえば、セトは王座を主張することができる。セトが王家の血縁である事を知っているのは実の父親であるアクナディンと、長年王宮に仕えているシモン、そして実の兄であるアクナムカノン王自身だけ。だがそれだけ居れば充分だ。いずれ時を待ちセトに打ち明け、必ずや息子を王の座に───!

 一度は捨てざるを得なかった息子が這い上がり、この王宮に立った時、アクナディンの心はその野望に震えた。

 いまアクナムカノン王の次の王座を約束されているのはアテム王子のみ。しかしそれは大した脅威でもない。前世のなまえ王女を誑かして内戦でも起こせばいいのだ。
 セトのためならば、この手を再び血に汚す事など厭うはずもない。

 だがマハードだけは真っ先に対処する必要があった。
 いくら王家に従順で忠実だとは言え、もし心変わりでもすれば王座に最も近いのはマハードになりかねない。むしろ、あの男と王女の内通が公になれば周りがあの男を祭り上げる可能性をも潰したかった。
 アクナディンは踵を返して王の間へと足を進める。

 時間はまだあるのだ。追放や処刑では王女に対して逆効果になるだろう。……そう、まだ動く時ではない。マハードと前世のなまえ王女に亀裂を入れるなら、2人が自滅する隙を待てばいいのだから。



 セトは鼻で笑った。
 アテム王子の後ろで跪くマハード。その姿に心が騒めく。

「アテム!」
「前世のなまえ」

 ある昼のこと、前世のなまえはアテムの部屋を訪ねた。お互いに勉強や魔術の修行はお休みにして久しぶりに兄妹で過ごすために…… というのは、建て前。
 さっそく部屋をぐるりと見回して跪くマハードが目に入れば、前世のなまえはパッと顔を明るくした。

「マハ……「前世のなまえ様」

 遮るように声を掛けてきたセトに前世のなまえの顔が引きつった。アテムもセトに違和感を覚えて眉をひそめる。

「私はこの度アテム王子にお初お目に掛かります……ご挨拶宜しいでしょうか」

 前世のなまえはセトに背を向けたままムスッとした顔でアテムに目配せした。そして聞こえるようなため息を漏らしたあと、「好きになさい」とだけ答える。
 セトが兄王子に跪いて挨拶している間、マハードはその場に跪いて顔を上げることができないし、前世のなまえもマハードに声を掛けてやることができない。アテムも小さく眉端を下げて早く切り上げようとしてやったが、セトは内心鼻で笑ってマハードをチラリと見た。

「僭越ながら王子と王女におかれましては、ただお時間過ごされるのも如何かと思い…… もしお許し下さるならこの“王女部屋付き”神官セト、“王子部屋付き”神官殿と剣技の手合わせなどご披露させて頂きたく存じます」

 思わずマハードが顔を上げる。
「慎みなさいセト! 兄の前でなんてこと……!」
「前世のなまえ」
 諫める前世のなまえの肩をアテムが掴む。振り返れば、アテムの後ろにはもうマハードが立っていた。
「……! マハード、」

「フン、本人達がやる気ならオレは止めないぜ。……セトと言ったな。オレの一番の警備隊長に喧嘩を売ったことだけは認めてやるぜ。だが精々前世のなまえに恥をかかさないことだな」

「フッ…… お許し、感謝致します」



 アテムの部屋に面した、庭を眺めるための広いテラス。そこでマハードとセトは手合わせ用の剣を手に対峙した。
 端でアテムと前世のなまえが並んで長椅子に座り、前世のなまえはマハードを見守る事しかできない。

「アテム……」
 不安げな前世のなまえの肩に手をやる。アテムはただジッとマハードを見つめた。


「せっかくの余興だ。マハード、……ひとつオレと賭けをしないか?」
「なんだと」
 王子と王女に聞こえない程度の声でセトは静かに笑う。マハードはセトからの提案に眉を潜めた。

「オレが勝ったら、前世のなまえ様から手を引け」
「!」
 マハードの剣先が揺れる。しかし喧嘩を売られた時から、……いや、前世のなまえと会えなくなってから、セトが自分と前世のなまえの関係に気付いていると察していた。予測していた通りの事を言い出したセトに、マハードの眼光は鋭くなる。

「万が一にも貴様が勝てば、……前世のなまえ様が密会のために部屋を抜け出すことに目を瞑ってやる」

「畏れ多くも前世のなまえ様を引き合いに出すその無礼、貴様の敗北で贖ってもらうぞ」

 剣を握る手がギリギリと鳴るほど力を込められる。互いの剣先が触れた瞬間、撃ち合いが始まった。


 剣のぶつかり合う音が壁に反響して他方からも前世のなまえの心を震わせる。アテムはただ黙って腕を組んだまま、鋭い目で2人の動きを追った。

「どうした! その図体はお飾りか?!」
「く……!」
 撃ち込まれる剣先を剣で受け止めて防いではいるが、マハードはどんどん後退して追い込まれていく。一方マハードが撃ち込んでみても、セトは剣で受け止めもせずただ体で避けて見せた。
 余裕そうに鼻で笑うセトに、マハードはペースを乱され始める。
 賭けを迫られ事実上の“剣での決闘”と化した手合わせ。もし負ければ、少なくともセトが王女の部屋に仕えている限りマハードは前世のなまえと会う機会が無くなるだろう。それだけは───

「───!」
 邪念とも言える気の迷いに、マハードは剣先を受け止め損ねる。セトの剣が顔の横を掠め、赤い血が一筋マハードの頬に走った。

 マハードはすぐにセトの剣を突き返して頬を拭う。マハードの白い服に落ちた赤い血を見て、前世のなまえが思わず立ち上がった。

「あの剣、刃を引いてない……?!」

 剣が跳び交う中に飛び込みそうな前世のなまえの腕を掴み、アテムが引き留めた。
「待て前世のなまえ」
「でも!」
「黙って見てるんだ。決闘が始まれば、勝負が着くまで誰も止められない。マハードはそれをわかっていて受けた。……その思いは、お前が一番にわかってやらなければいけないことだ」
「……!」
 口を噤んでマハードに顔を向き直す。まだ押されてはいるが、マハードはまだセトの動きに注視して闘っていた。


 もう一度大きく撃ち込んできたセトの剣を受け止めきれず、マハードは右の手に走った負傷に思わず利き手を離してしまう。

「(───もらった!)」

 左手だけで握られていたその瞬間、セトは勝利を確信して撃ち込んだ。大きな金属音と共に1本の剣が跳ね飛ばされ、その剣の持ち主の遠く後ろに転がり落ちる。

 喉元に突きつけられた剣先に息を飲んだのは、……セトの方だった。

 マハードは左手だけでセトの剣を跳ね飛ばし、そのまま喉スレスレに刃を止めて見せた。マハードが右手を剣から離しセトが勝利を確信した瞬間こそ、セト自身の隙を生んだのだ。


 一瞬の事にアテムも前世のなまえも、そしてセト本人も呆然としていた。だがセトが息を飲んだその時、前世のなまえはハッと息を吐いて立ち上がった。

「私の勝ちだ」
「う、…… ぐ……」

 剣を弾き飛ばされた衝撃で手が痺れている事にセトはやっと気がつく。それと同時に敗北を認めざるを得なくなり、ビリビリと反響する手を握り締めた。

 今すぐにでも飛び付きたい衝動を必死に我慢して、前世のなまえはせめての鬱憤を晴らすように隣のアテムへ抱きつく。
 アテムもやっと安堵の息を吐き、喜びと怪我をしたマハードへの心配で背反する感情に震える前世のなまえを落ち着かせながらマハードに目を向けた。

「約束は守ってもらうぞ」

 静かにそう呟いてから剣を引くマハードに、セトは忌々しそうに顔を背ける。アテムの予言通り恥をかかされて、前世のなまえの方へ顔を向けることができない。
 剣を納めたマハードがアテムと前世のなまえに跪く。セトもそこに跪くと、アテムは前世のなまえの背中を軽く叩いて離させ、2人の元へ歩み寄った。


「良くやったマハード。セトもいい闘いだった。……だが、前世のなまえを守るのがお前の役目だ。
  仲間内での“決闘”はこれで終わらせよう。これからはマハードと正当に競い合って、もっと強くなってくれ。
  セト、お前にも前世のなまえを任せられると、オレは信じてるぜ」

「……!」
 心臓が跳ねる。アテム王子はわかっていてマハードと闘わせたのだ。
 恐る恐る目を向ければ、王子はセトが思うような顔をしていなかった。むしろ、清々しく余裕と威厳を持った表情。そこから溢れ出る心の広さに、前世のなまえ王女とは違う魅力がセトの心に流れ込む。

「あ、……ッ」
 セトは言葉が出なかった。前世のなまえという1人の女にだけ拘り、それしか見ていなかったセトは、今本当の“王家の血”に魅了され、服従の意思を抱く。
 その赤と紫に彩られた4つの瞳が目の前に贅沢に並べられれば、セトは自然と心から頭を下げた。

「仰せのままに」


 全てにおいて敗北した。
 全ては勝ち取ることが出来る。己を信じる限り、どんなものでも手に入れることが出来る…… そう信じてここまで来た。マハードが前世のなまえ王女と関係を持っているにもかかわらず、王座を狙う素振りを見せない事を嘲笑し、王座をも手にできるこの世の仕組みに野望すら抱いた。
 実際はどうだろう。目の前に立つ王子は自分よりも幼く、身体的にもセトの方が勝っているかもしれない。だがセトは実際に王子の人柄に触れてただただ平伏した。

 王家に初めて本物の畏れを抱いたのだ。

 アテム王子こそがファラオに相応しい。マハードもそれを根本に抱いていて、前世のなまえの愛を受けながらも傲ることはないのだ。


 チラリと前世のなまえに目を向ける。前世のなまえもアテムと同じように、恋人マハードに怪我を負わせた相手ではなく、ただ信頼する1人の神官としてセトを見つめていた。
 本当は、心の中では感情が渦巻いているのかもしれない。それでも前世のなまえの静かな目にもう一度俯く。

 セトに変化の時が訪れていた。野心や権力の掌握のために王宮を利用するのではない。本当にこの国と王家のために尽くすとはどういう事なのか。……皮肉にも、セトは最大の恋敵であるマハードからそれを見せられた。

 しかし自分の出自が恵まれない境遇だったからといって、自分の住む世界までもが低俗になるとは限らない。その信念は今まさに叶えられていた。セトは逆境を覆し、心から仕えるべき王子と王女に出会い、そして仲間というものを手に入れた。
 この高みにあって、セトは少なくとも“出自”というコンプレックスから解放されたのだ。


「前世のなまえ、マハードを手当てしてやってくれ」
「……! ええ、もちろん」
 アテムはセトに目配せした。その意図を察して、セトは唇を噛んで俯く。
 だが今はこれでいい。マハードを仲間と認めたとはいえ恋敵に変わりはない。これからは正々堂々とぶつかり、挑めばいいのだから。
 マハードを連れて部屋へ入っていく前世のなまえの背中を、今は地に落ちる陰を視界の端に捉えるだけでセトは目を向けなかった。



 前世のなまえは荒ぶりそうな感情を必死に抑えた。
 警護の者さえ居ない前世のなまえの部屋の隅。水桶の中で木綿の布を絞り、そっとマハードの頬を撫でる。
「前世のなまえ様、いけません…… これくらいの傷、自分で」
「ダメよ。アテムから言いつけられたのは私なんだから」
 たったふた月離れていただけだと思っていた。でもいざこうして2人きりになれて、それがどれだけ長い、耐えがたい時間だったのかを思い知らされる。
 寂しさに震えていた心に蓋をして、なんでもないフリをしていただけ。本当はチラリと姿を見ただけでも、駆け出して抱き合いたかった。
 人間社会で与えられた立場のために、メンツのためにそれを理性で罰し、我慢する。どんなにバカらしい事かと思っても、そうしなくてはいけない世界。そこからやっと解放されて、この許された僅かな時間に素直な気持ちが顔を出す。

「さっきはカッコ良かったわよ。好きになっちゃうかと思った」
「それは、……光栄です」
「……もうこんなに愛しているのにね」
「!」
 戸惑いを見せるマハードの目に前世のなまえは吐息が漏れる。
「前世のなまえ様……」
 その顔に手をやろうとしたマハードが、ハッとしてその右手を離そうとした。
「ダメ、逃さないわ」
「いけません、血が……」
 前世のなまえの顔や服を汚すわけにはいかない、そう続けようとしたマハードの口が塞がれる。

 右の手を胸に抱いて目を閉じる前世のなまえを視界に焼き付けてから、マハードはやっと目を閉じた。前世のなまえの方から押しやられた唇が音を立てて少し離れ、また啄ばむように重ねられる。
 今度こそ唇を離すと、額同士をつけたまま互いにおずおずと目を開けて瞳の奥を覗き合う。……前世のなまえの立場上、マハードからの愛の告白は許されない。それでも名前を呼ぶ声とその瞳の奥を見れば、自分たちは魂の底から愛し合っているのだと信じ、感じることができた。

「前世のなまえ」

 怪我を負っていない左手でその頬を包む。ゆっくりと頬骨から頬へ、そして唇から顎のラインへと親指でなぞれば、堪らずにどちらともなく唇を寄せ合った。

 前世のなまえの胸に抱かれた右手が、前世のなまえの心臓の高鳴りを感じさせる。胸に抱いたマハードの右手が、マハードの早鳴る脈動を感じさせる。
 このまま溶け合いたいと何度願っただろうか。
 何度悲しい思いをしても、こうして許された時間を糧に2人は耐えてこられた。そしていつか交われる未来があると信じてこれからも秘密を守り続けるだろう。

 たとえ引き裂かれる時が来る事を知っていたとしても。


「あ、……」
「……! も、申し訳ありません!」
 前世のなまえの胸元にマハードの血が染みていた。擦り傷とは言え剣で負った切傷に変わりはない。偶発とは言え王女の体に垂らした己の血にマハードは青ざめた。

「───!」

 人差し指の付け根に走るその傷を押し包む唇。傷による熱とは違う与えられた体温と感触に、視界で起きている事実を掴めない。
 傷を覆って密着する唇の中で、傷に沿って這う生々しい舌の感触に、マハードの背中がゾクリと粟立った。
「……あ、」
 マハードは必死に理性と戦う。肌に感じる粒揃いの歯列と、まるで前世のなまえの口の中に住む別の生き物のような舌。なにより歯を立てないように指の付け根をむ唇に、初めて前世のなまえに対する欲情を覚えた。

「前世のなまえ様、その、……それは、いけません」
 散々自分の唇で前世のなまえの唇を感じてきた。それが手になり、初めて舌までも感じたことで、“男”である自分が目覚めそうになる。それを知ってか知らずか、照れたような赤い顔で唇を離しマハードを覗き込む前世のなまえに、マハードは思わず犬歯で唇を噛み切った。

「マハード?!」
「ン”いえッ! 大丈夫です!!!」
 マハードらしからぬ取り乱した顔にまた血が一筋垂れる。
 幼い頃から見てきたと言えど、前世のなまえはまたひとつ年を重ねて大人になろうとしていた。マハードの本当の戦いは、まだこれから始まろうとしている。




「お呼びでしょうか、アクナディン様」
 石盤ウェジュの神殿に入ってきたアイシスに、アクナディンは振り返った。フードに隠された千年眼が篝火を反射して、赤く、怪しく照り返す。

「アイシス、……いま千年タウクを司りし神官は、お前の叔母であったな。」
「……! はい」
 アクナディンからこれから言われるであろう言葉に、アイシスの胸が期待に打ち鳴る。

「次の任官でお前を千年タウクの新たなる所持者として指名するつもりだ」

「アクナディン様……!」
「おめでとうアイシス。お前も半年後には王に仕える六神官として迎え入れられる。それまで鍛錬を怠らず、選ばれた責任を果たしなさい」

「は、……はい!」
 アイシスの胸は喜びと感動に震えていた。その心の奥底にあるものを千年眼を通してアクナディンが密かに覗き見る。そしてアイシスに笑い掛けると、アクナディンはその心の底にあるものに向けて釣り糸を投げ込んだ。

「しかし王に仕えてからでは夫をとれないだろう。お前の家は王家と並ぶほど長く続き、代々王の側近を務めてきた由緒ある家柄。絶やす事もできまい。

  ……もし望む相手が居るならば、今のうちに私が取り持とう。」

 千年眼に映るアイシスの心の底。投げ込まれた釣り糸はそれに絡み付き、いまゆっくりとアイシスの口からその名を手繰り寄せる。
 アクナディンがもう一度微笑んで首を動かしたとき、アイシスは心の底から望んだ男の名前を口にした。

「もし許されるなら───…… マハードを私に」



 愛が大きければ大きいほど、残酷な仕打ちをする事ができる。誰かを憎むことがどんなに恐ろしいことなのか、私はまだ知らなかった。


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