つくづく哀れな男だと思う。

 セトはそう目を伏せる事しかできなかった。真っ白く血の気が失せた顔を悟られないよう平伏すマハードにも、震える体を必死に堪え気丈に振る舞う王女にも、この青い眼を向けて瞼に焼き付けようとは思わない。
 地獄に突き落とされたマハードには、いま絶対君主であるファラオからの祝福が与えられている。これ以上のおぞましい事が、果たしてこの世に存在するだろうか。
 セトは俯いていた顔をほんの少し上げて、玉座の横に立つ前世のなまえ王女を覗き見た。

「(……本当に、なんという方だ)」

 しもべを愛して、祈ったところで、こうなる事は当の2人が一番よく分かっていたのだろう。父王や神官達を前に、王女は少したりとも動揺を見せていない。ただ遠くを見つめて、震える唇を僅かに噛んで堪えている。
 セトには分かっていた。前世のなまえ王女が本当は、大声を上げて泣きたいのだろうと。すぐ側に立つアテム王子も分かっていて、前世のなまえ以上に動揺して彼女に目配せをしている。


 そう、分かっていた。いつか引き裂かれる運命なのだと。だからそれまでの短い時間を、命をかけて愛し合ってきた。

 それでも心の奥底で私は願っていた。王家を捨てて、国を捨てて。……一生父王や宰相達から追われる身になったっていい、どこか「王女と神官という私達」を知らない民だけがいる小さな村で、あなたと夫婦になれたらいいのにって。
 マハード、あなたが私を攫ってくれたらいいのにって。

 でも幼さを免罪符にした逃避行は終わり。そんな空想を平気で描けていた自分と、お別れする時間が来ただけ。


 王家の生贄

「マハードにアイシスを娶らせるですと!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまったシモンが、口を押さえて横に座るファラオへ頭を下げた。アクナムカノン王は気にするなと言うように軽く手を振ってから、そんな提案をしてきた本人─── アクナディンへ顔を向ける。

「マハードとは、《王育所カプ》で息子の側につけていた者だったな。……彼はいくつになった」
 王からの問い掛けにシモンが一瞬躊躇う。しかし応えないわけにもいかず、両手をすり合わせて動揺を隠した。
「た、たしか18になる頃かと……」
「そうか」
 静かに椅子の肘掛けに肘をついて顎を撫でる王を、シモンが黙って見つめる。その背中に流れる冷や汗、深く刻んだ眉間の皴…… アクナディンには千年眼を使わずともシモンが何を考えているのか手に取るようにわかっていた。
 そして、王が何を思い出しているのかも。

「アイシスは代々王家に長く仕えし家の長子。王子が信頼する王育所カプの出の者を与えれば、必ずや王家の繁栄の布石になるでしょう」
 アクナディンの尤もらしい言葉に、「フム……」とアクナムカノン王が息をつく。シモンはじっと堪えて手を握っていたが、ついにその話題を流そうと口を開いた。
「しかしアクナディン殿、マハードもまだ未熟の身。ワシには少し性急すぎる気もしますがのぅ───」
「未熟とは、裏返せばまだこれから出世できるという事でもあるのではないか? 多くの者は上位神官になるまでに歳をとるが、彼らはまだ若い。いずれ私やシモン殿のような、宰相や側近の地位が確約されている。“アテム王”を、ひいてはこの国を支える礎となるのだ。王子の今後を考えればこそではあるが、何よりアイシス本人がマハードを望んでいる」
「ア、アイシスが……?」
 シモンの手に反対を押し通せる手札は残っていなかった。これ以上の議論の余地が無いと見るや、アクナムカノン王はゆっくりと立ち上がる。

「女の方から望むとは、なかなか勇気のある娘のようだ。アクナディンが良い縁だと言うのなら間違いはないだろう。明日の謁見に2人を連れて参れ」
「はっ」

 短い返事と共に頭を下げたアクナディンを王が横切り、その場をあとにした。アクナディンが顔を上げれば、王のあとを追いかけて行くシモンの背中が千年眼に映る。
 フードの奥底で釣り上げられた笑みを見ている者は、誰もいなかった。



ファラオ! ファラオよ、お待ち下さい」

 背後から呼び止めるシモンの声に、アクナムカノン王が足を止める。中庭に面した石廊下をシモンのサンダルがパタパタと音を立てて駆け寄ってくれば、肩で息をしながら不安げな眼で王を見上げた。
ファラオ、もしやマハードを…… その、……ご存知だったのでは?」
 直接的な問い掛けにも関わらず、その核心的なディテールはシモンも口には出さない。だが目を細めたアクナムカノン王に、シモンは「あ……」と息を飲んだ。

「前世のなまえの、……王女の初恋の男だったな」

 白く血の気の引いた顔で何か言い繕おうとするシモンを手で制すると、王は背を向けてまたゆっくりと歩き始める。シモンがそれのあとについて歩き、2人は中庭に面した石廊下から王宮の奥へと進んだ。

「覚えているとも。……娘が6つの時だ。息子の学友として側に付けた者たちの中から、マハードと言う男と結婚すると言い出してな。まだほんの子供の、他愛の無い憧れやお遊びだ。しかしたったその一言でさえ、私は前世のなまえを厳しく罰した」
 ふと足を止め、アクナムカノン王は右の手を眺めた。その横顔を見つめるシモンの眉はすっかり意気消沈したように下げられる。

「私は1人の娘の父親ではなく、王家の人間として娘を罰してしまった。立て続けに亡くした2人の妃たちが、それぞれに1人ずつ遺してくれた子供たちだ。……どちらが正妃の子だ、異国の血だと分け隔てることなく、私は子供たちを愛そうと心に誓っていた。だからこそ、あの時の仕打ちを後悔している」
ファラオ……」

「シモンよ、それ故に私は、今までお前と王女が秘密にしていた事に目を瞑ってきた」

 ヒ、と悲鳴にも似た音がシモンの喉を震わせた。とうに王はマハードと前世のなまえ王女の関係を知っている。いかに広大な砂漠と言えど太陽の光が届かない場所がないように、この王宮に太陽神である王の目が届かない場所などないのだ。
 シモンは震える体を必死に折り曲げてその場にひれ伏した。マハード共々、いや一族郎党首を跳ねられる覚悟で王に赦しを乞う。

「私が目を瞑っていた事など、もうよい。立つのだシモンよ。」
 恐る恐る顔を覗くシモンに構わず、アクナムカノン王はゆっくりとまた足を進める。ついて来るには立ち上がらざるを得ないと理解しているからだ。シモンもそれをわかっていて立ち上がり、王のあとを追ってついて歩く。

「2人も次の雨季を越せば15になる。もう子供たちと呼ぶことも出来ぬ。アテムの成人に合わせ、私は2人を結婚させるつもりだ」
「……」

「シモン。これは父ではなく、王として命じる。……マハードという男、もしアイシスとの結婚を断ったときは─── 首を跳ねよ」
 



「王女様、」

 少し呆れたような声色にマハードのマントが揺れる。マハードもわざわざ振り返らずとも、長い外套の中に潜り込んで隠れるのは1人しかいないとわかっていた。

「シーっ! セトが私を捜してるの。何もないフリをして」
「しかし───」
 口答えなり説教なりが飛んでくる前に、前世のなまえはマハードの背中にぴったりとくっついて腰に腕を回した。もう離さない、と言わんばかりの前世のなまえにマハードの声が詰まる。
 背中へ無遠慮に押し当てられた胸が日増しに膨らんでいるのを感じる。どんどん大人の体へと成長していく王女に抱く感情は、邪なものへと色付いていく。
「(クッ、……これではダメだ。修練が足りない)」
 手を伸ばせば彼女はマハードに応えるだろう。それがどんなに恐ろしいことか知っていてもなお、体は理性と反して前世のなまえの女を求めようとする。その体の現象を悟られぬよう腰に巻きついた前世のなまえの腕を解くと、マハードは顔だけ振り向いて震える息を押し殺した。

 マントの中からわずかに覗く赤紫色の瞳に、脇腹をくすぐる吐息。困惑した顔でどうすべきか考える間もなく、整然と並ぶ石柱の間を歩いて来る人物が目に入る。


「マハード、王女を見なかっ─── ……前世のなまえ様?」

 セトの鋭い視線が、マハードのシェンティから伸びる4本の足に向けられた。気不味そうに顰めた顔をマハードの後ろからゆっくり覗かせると、セトのため息を合図に前世のなまえがバッと走り出す。

「前世のなまえ様!!!」
 顔色を変えて走り出すセトの背中を見送るしかできない。奥の曲がり角で、前世のなまえが笑顔でマハードに手を振ってから去って行く。それに小さく手を振り返したのを前世のなまえが見られたかは分からないが、マハードはため息をついて背を向けた。

 昔、幼かった頃の王女の脱走を走って追いかけていたのはシモンだったが、今ではもっぱらセトがその役目を負わされている。歳月は確実に人の体の上を過ぎ去っていた。
 しかし大人になっていく身体に反発でもするように、前世のなまえは日に日にわがままや子供じみた行動が目立つようになっていた。
「……」
 前世のなまえとセトが走り去った方をもう一度見る。もう2人の姿はそこにない。それでもマハードは、前世のなまえの内心を思うとそこから動くことができなかった。




「王女!!! いい加減にしてください。確かに私は貴女の警護官ではありますが、子供のお守りを任務にした覚えはありません!」

 長椅子に体を任せて肘をつき、真剣に聞く様子のない前世のなまえにセトの眉間のシワがさらに深くなる。
「それも、よりにもよってマハードの服の中に隠れるなど! ご自身の立場をもっとお考えください! 私がここへ来たばかりの頃はあんなに思慮深く賢いお振舞いだったというのに───」
「平民の出の者が王女に付いたせいで低俗が私に伝染った、……と言われるから気に入らないのね?」
「……!」
 ハッとしたまま口を開けっぱなしにしているセトを横目に、前世のなまえが立ち上がってバルコニーへ出て行く。ほんの少し何か考えたあと、セトはそのあとを追う。

「言わせておけばいいのよ」
 バルコニーへ出れば一斉に女官達が壁際に寄って平伏す。その中をただひとり歩く前世のなまえの背中が、なぜかあまりにも孤独に見えた。テーブルには鳥かごがいくつか並んでいる。
 椅子へ腰掛けるなり、前世のなまえはまた憂鬱そうに肘をついて小鳥に目を伏せた。

「何も知らない、私の側にさえ近寄れない身分の低い者の僻みなど……気にするようなあなたではないでしょ」

「私は自分の評価ではなく、貴女様のことを案じているのです。子供のように振る舞われたと思えば突然元気をなくされて…… 最近ご様子がおかしい事が続いていらっしゃいます。……もし私でお力になれる事があれば───」

「じゃあ、」
 さっさく声を上げた前世のなまえにセトが片膝をついて言葉の続きを待つ。忠犬じみたその顔に前世のなまえは一度冷たい横目を向けてから、城壁の向こうに広がる砂漠へと顔を上げた。

「二度と私の力になるなんて言わないで」

 「え、」と硬直したセトの視線を振り払うように、前世のなまえは顔も見せず立ち上がって部屋へと戻って行ってしまった。そのあとをまた女官が従い付いていくが、すぐに部屋の出入り口からその女官達を追い払う前世のなまえのヒステリックな声と物を投げつける音が響く。

 投げられた銀の杯が近くに転がるのを拾い上げると、セトはため息を漏らして、おそらく八つ当たりされるだろうと知りながら部屋へと戻っていった。




「王女はどうした」

 部屋に入ってぐるりと見回したあと、アテムは平伏していた女官に声を掛けた。女官は顔を上げて「あちらに」と手を差し伸べる。部屋の主に断りも無く立ち入り、アテムは女官が指し示した方へ歩みを進めた。

「前世のなまえ」

 何枚も吊されたリネンのベールを捲った。すると中から黄色やオレンジ色の小鳥が飛び出て、そのまま窓から飛び去ってしまう。
「あ、……! すまない」
 急いで中に入って、アテムはベールの仕切りを閉じる。寝台がすっぽり収まるくらいの、リネンのテントに包まれた小さな聖域。それをそのまま鳥籠のようにして、前世のなまえはその中に小鳥を放っていた。

「アテム」
 長椅子に膝を抱えて蹲る前世のなまえが顔を上げる。アテムは天井から吊るされた布を手で避けながら、長椅子の空いたところに腰を下ろした。
「すまない、鳥を放してるとは知らず……いま2羽くらい逃してしまった」
「いいのよ。鳥も、やっと自由になれて清々したでしょ」
 のろのろと手を小袋に入れ、粟や稷を床に撒く。逃げ損なった3羽の小鳥がそれに群がり、忙しなく床を啄むのをまたぼんやりと眺める。

「てっきり泣いてるかと思ったぜ」
「泣いてるのはセトでしょ」
 身体を震わせる事すらもなく、淡々と返事をする前世のなまえの、自分と全く同じ色をした目を覗き込む。床を跳ねて餌を啄む小鳥に向けられているようで、その目は何も見てはいない。
「今度のお説教係りはアテム?」
 掠れた声で呟いた前世のなまえを、アテムは肩を組んで引き寄せる。
「そうだな、……だが悪いことをしたと分かっているなら、きっとセトも許してくれるさ」
「……」

 さっきはあまりにも感情が昂りすぎて、セトに銀の食器を投げつけた。別に狙ったわけではなかったが、当たりどころが悪くて鼻血を出させてしまった。
 狙ったわけじゃない、だけど、もし当たればどうなるかって分からないほど子供でも愚かでもない。分かっていて、それを堪えきれずに物に当たり散らしたのは自分。……自分が悪い。

「セトは?」
「大したことはないと言っていた。すぐに血は止まったらしい」
「……そう」
 プチ、パチ、と小鳥が嘴で種の殻をすり潰す音だけが2人を包む。ときどきさえずる声に耳を傾けても、前世のなまえはニコリともしない。

「ねぇ、アテムは好きな女の子はいるの?」

 唐突な問いにアテムは「え、」と言葉が詰まった。頭の中をぐるりと見回す程度では足りず、色々な選択肢をひっくり返してもその問いに見合う答えを心の中に見つける事ができない。
 好き、……そんな事を聞かれたって、前世のなまえとマハードのように、男女として心から愛し合うなんて事はそもそも考えてもみなかった。
 自分が結婚する相手は、最初から決まっていたのだから。

「……いない、と言うのも嘘になる。だが、いる……と言うのも変かもしれない」
「どうして?」
「お前だからだ。」

 鳥に向けていた目が一度だけ大きく見開かれるのを、アテムは見ていた。何かを言い迷うように口元を動かしたあと、前世のなまえがゆっくりと顔をアテムの方へ傾げ、抱えていた膝を離して床に足を降す。

「じゃあ、口付けして」
 ドレスの裾が落ち、驚いた小鳥が狭い蚊帳の中で飛び回った。
 跳ねた心臓がアテムの胸を叩く。羽根が花弁のように舞う中で、赤紫色の瞳がぶつかり合った。

 腹違いの兄と妹。生まれた月がほんの僅かに違っただけ。まるで双子のように、鏡写しのように育ってきた。ただひとつ普通の兄妹と違うとすれば、生まれたときから互いに結婚するのが決められていたことだけ。
「前世のなまえ……」
 同じ血が流れる指が、同じ血の流れる頬に這う。
 前世のなまえは目を閉じた。小鳥の羽ばたく中で、アテムが迫ってくるのを閉ざした瞼越しに感じる。

「いぎゃッ」

 小鼻でも摘むかのように下唇を摘まれた。顔を顰めて目を開けると、なんとも言えない顔をしたアテムが待っている。
 その目にジクリと胸が痛む。膿溜まりのような穴が開いた気分だった。

 まるで悪い子に罰を与えるように摘まれていた唇を解放されると、今度は力強く抱きしめられる。マハードとは全然違う体。自分と大して変わらない背丈に、半分ずつ同じものを共有した血肉、そして同じ体温。
「───ふ、」
 アァ、と嗚咽が漏れたのをアテムはしっかりと胸に感じ取った。

 分かってる。自分たちはもうすぐ成人する。それがなにを意味するかも。


 はやく大人になりたいと思っていた。大人達の保護無しに生きていけない自分が嫌だった。自分が保護される立場である限り、大人の言うことを聞かなくてはいけない。だからはやく大人になりたかった。

 自由になりたかったから。

 王族という立場は偉いのだから、大人になりさえすれば自由にできる。きっとマハードと結ばれることだって─── バカみたい。そんなもの、ただの御伽噺。小さかった子供の夢。
 ひとつ、またひとつと大人になるにつれて私は理解した。……この王宮で、テーベで、エジプトの地で、私に自由なんてものは許されない。この国の民が自由であるために、それこそ他の誰かが自由に恋ができる平和な世の中であるために、私は不自由であらねばならないのだと。

 本当は最初から分かってた。そんなことくらい。信じたくなかっただけ。だからマハードとの恋に命を賭けることだってできた。引き裂かれる未来しか無いと知っていても、「子供だから許される」ほんの僅かな自由を、私はマハードのために使う事ができた。許され得る限りの私の全てを捧げた。

「(捧げた? マハードに私は何をあげられた? 許したのは唇だけじゃない。笑っちゃう)」
 ……それが私の限界。この血の一滴、髪の一本、指のささくれの一片ですらマハードにあげてない。

 この体は王家のもの。エジプトの民が乾けばこの血を絞り、飢えればこの皮を剥いで肉を分け与え、道標を失ったのなら骨を砕いて砂漠に撒く。それが王家の人間の役目。私は生け贄。


 しばしの沈黙の中で、ぴったりとくっ付け合う胸が服越しにもその鼓動が同じ速さだと感じ、震えていた心は落ち着きを取り戻していく。もし自分に死が迫る時があったとしても、アテムが側にいたら私は何も恐れないだろう。
 嗚咽や掠れた吐息が落ち着いて来た前世のなまえの背中を、アテムが優しく摩った。

「オレもお前を愛している」

 ひとつだけ鼓動のリズムが乱れた。抱き合っていて、アテムの顔は見えない。それでも肩に降る熱い吐息が、地に降り注ぐ太陽の息吹きと同じものだと感じる。
 アテムの中に、太陽神が居るのだと。

「これがお前とマハードのような、男女の恋愛なのか、それとも“きょうだい”の家族愛なのか、……オレには分からない。だがオレは思うんだ。オレと前世のなまえ、別々の母親から産まれたのには意味があったと」
 背中に回していた腕が肩へと滑り、体が離される。熱を帯ていた胸に差し込まれた冷たい空気が不安を呼び起こそうとするが、向かい合って真っ直ぐに注がれた視線に何もかもがかき消された。

「生まれる前、オレとお前はひとつだった。この世に生を受けるときに2つに割れたのは、またひつとになる事によって国を収める事ができる。オレとお前の結婚は、父やまわりの宰相達が決めた、大人が決めたことじゃない。これはオレ達が生まれる前に、神の国で、自分達で約束した事だったんだ。……オレはそう信じてるぜ」

「アテム……」
 あまりにも真っ直ぐに向けられた同じ色の瞳に、前世のなまえの目が伏せられる。
「だけど、私はこの世でマハードを愛してしまった。アテムだって知ってたじゃない。先に裏切ってしまった私を、どうして……」
「別の誰かを愛するのは、人間として産まれたなら自然なことだ。オレはそれを咎めるつもりはない。……同じように、人間は自分自身のことも愛する。オレがお前を愛するのも、同じひとつの存在だったなら当然のことだろ?」
「じゃあアテムもいつか、他の女を愛するの?」
「……そうかもしれないな。だが、オレがお前を許したからといって、お前にオレを許す必要はない。オレの考えはあくまでオレの考えだ。現実的に、お前との結婚は王位継承と統治権を得るための通過点に過ぎない。その先で、オレ達は国を治めるためにもっと過酷な道を歩むことになる。……父が、オレの母を他国から嫁がせたように、オレも他の女を娶る時が来るかもしれない。だからこそオレは、女だからという理由だけでお前に孤独を強いたくはないんだ」

 肩を掴んでいた手が腕をなぞり、両の手ひらにたどり着いたところで握り締められる。
「きっとこれから先、そんな理想や言い訳が通用しない現実が待っている。それでもオレは何があろうと……前世のなまえ、お前の味方だ。恋愛とか家族愛とか、オレ達のことは何かに区分できるものじゃない。オレはお前が幸せになってくれさえすれば、それに越したことはない。……」

 そんなの間違っている。

 言いたいことが沢山ある。それなのに喉が息をしてくれない。舌が動かず、熱がいたずらに鼻を摘んで離そうとはしない。ナイルの水が体を浸透して目蓋から溢れ、止まってくれない。だめ、そんなの間違っている。
 いうことを聞かない自分の肉体への呵責に苛まれ、余計に泣き噦る前世のなまえをアテムがまた抱き寄せた。

 私が同じ存在だったというならどうか感じ取って欲しい。私が言いたいことの全て、泣いている理由の全て。あなたは間違ってるって。

「わかっている、だからもう泣くな」


 初めてアテムの声が低く、昔と変わってしまったのだと気が付いた。だけど懐かしい。変わったのではない。きっと、元々のアテムの声に戻っただけ。
 前世のなまえは力なく体を預けてアテムの肩に目を押し当てた。こぼれていた涙も頬を転がることなく、アテムの服に染み、溶けていく。

「わ、かっで……ないッ」

 震えて本来の声とは随分変わってしまった嗚咽混じりの声で、それだけ言葉にするのが限界。アテムの顔は見えない。だけど、彼も泣きたいんだろう。……そう感じた。

「わかってるさ」




「いま、なんと……?」

 全身の血が地に吸い取られていく気がした。ドッと吹き出す汗は異常に冷たく、水よりも滑らかに肌を落ちていく。肉体が溶け落ちるのではないかというほどに真っ白い顔で震えるマハードを前に、シモンは心を鬼にした。

「わかっておると言ったんじゃ。お前と、王女との関係をな」

 卒倒しそうなマハードを見ていられなくなり、シモンは腰を伸ばす振りでもしながら背を向ける。腰に組まれた後ろ手がなんとも居心地悪そうにモゾモゾと動かされるが、マハードにはそれですら威圧的に感じられた。
 これから下る天罰は決して生温いものなどではない。……前世のなまえを受け入れた日から覚悟していた。だが現実それを目の前にして恐れ慄かないほど、自分は出来た人間ではないと思い知らされる。

「……こ、……これはまだワシしか知らん。ファラオに知られる前に身を引け、マハード」

 幼い頃からマハードを後見していたシモンにできる、最後の嘘。
 前世のなまえが自由にマハードと恋愛できたのはこのシモンが隠匿し続けた努力あってこそだった。真実の何もかもをこの男に言えば、剣で喉を裂き、ナイルに身を投げるだろう。……その喪失が、一体何になるというのか。

「アクナディン殿から、お前にアイシスとの縁談が上がっている。結婚して、前世のなまえ様への思いを断ち切るのじゃ。よいな?」
「……」
 呆然と佇み、返事すら返せないマハードに振り返る。

「承知するんじゃ、マハード! もしここで断るなら、ここでお前の首を跳ねてワシも死ぬ。だがそれでどうなる? ファラオのみならず王子をも裏切り、王女1人に全ての咎を負わせるか?! ……諦めるんじゃ。男として命賭けで王女を愛せたお前なら、神官として命賭けで民と国を愛し、働けよう。お前はいずれ選ばれし神官としてアクナムカノン王に、そしてアテム王に仕える時が来る。アイシスと手を取り合い、民と国のために、王達を支えるんじゃ」

「───あ、」
 呆然としていた顔、その目から涙が落ちると同時にマハードはその場に崩れ落ちた。堪えきれない嗚咽に震える肩へ、シモンの手がそっと寄せられる。

「マハード、誰かを愛するがために死ぬのには、お前はまだ若い。今は生きて、天命を待つのじゃ。アイシスはお前を愛し、お前を望んでおる。互いに愛し合う喜びを知っているお前にしか、アイシスを幸せにしてやることは出来ん」
「───ッ、では、……では王女は、」
「思い上がるでないぞ、王女の幸せはファラオがお決めになること。卑しくもワシらただの人間が享受し合えるものではないのじゃ!」

 それは間違っている。

 言いたいことが沢山あった。しかし喉が息をしてくれない。舌が動かず、熱がいたずらに鼻を摘んで離そうとはしない。ナイルの水が体を浸透して目蓋から溢れ、止まらない。違うのだ、あの方は同じ人間だ。
 いうことを聞かない自分の肉体への呵責に苛まれ、余計に嗚咽を漏らすしか出来ないマハードにシモンは哀れみ、立ち上がって見下ろした。

「そちの気持ちもよく分かる。もう下がってよいぞ。……今日だけは、男ではなく人間として、思う存分に泣くがよい」




「私は父親として、娘の恋のひとつ応援もしてやれない。アクナディンよ、お前も私を軽蔑していることだろう」

 そうだとも。

ファラオ、……いや、今だけ兄上とお呼びする事をどうかお許しください。兄上、私は太陽であるあなたの影として、今までお仕えして参りました。妻を捨て、子を捨て、そして自分をも捨てて。それは全て王である兄上を慕い、敬ってきたからこそ。何があろうと私は兄上の味方です」

 最初こそ嘘ではなかった。だが今は嘘だ。人の真実というものはすぐに入れ替わり、嘘が誠になり、誠が嘘になる。同じように、愛は憎悪にさえ生まれ変わろう。
 私が国のため、民のため、そして王たる兄のために尽くして、果たして何になった? 妻は名も知らぬ外れの村で野党に殺され、息子のあるべき将来を摘み取り、真実を知らないセトは、平民出の卑しい身分と陰口を囁かれながら、元凶たるこの王の娘に仕えている。

 忌々しい。王の何もかもが憎い。王の座をこの手に出来なかった、王位継承権を持った王女が選ばなかった、この自分さえも。

「お前とは兄弟であると同時に、同じ女を愛し、敵対した仲でもあった。今のお前は、あの時と同じ目をしている」

 アクナディンが一瞬まぶたを動かした。その反応が何を意味するのか知っていてもなお満足したかのように、アクナムカノンは「フ、」と力なく笑う。
「私とお前はひとつの腹から生まれた。この世に生を受ける瞬間に別れた、私の片割れだ……元々ひとつの存在だった我々が、光と影に隔てられる事によって国を収めてきた。これまで多くの困難や難題を乗り越えたが、思っていたよりも平坦な道だったのかもしれぬ。その分だけ険しい道を、孤独を強いて、歩ませてしまったな」

「……」

「決して王への忠誠や兄弟愛からではない。それでも言葉や区分の出来ないもので、お前は私の味方でいてくれた。お前から全てを奪っておきながらも、今もこうして側に居てくれる。どんなに私がお前に感謝しているか、お前という弟が居たことがどんなに幸せだったか。お前を褒め称えようにも私の才智はまだ乏しすぎるようだ」

 能天気な男だ。

 言いたいことが沢山ある。恨みが、憎しみが、数えきれないほどの罪が。だがそれを口にするわけにはいかない。頭に上る血がいたずらに視界を揺るがしてやめようとはしない。

 なぜ私は泣いている?

「私はお前と同じ存在だった。お前が言いたいことの全て、涙を流す理由の全てとは言わん。だが、ほんのひと掬いでも私には感じ取れている。……わかっている。苦労をかけたな」

 人の真実というものはすぐに入れ替わり、嘘が誠になり、誠が嘘になる。愛が憎悪にさえ生まれ変わるように、憎悪は愛に生まれ変われる。
 いまこのひと時だけ、ひと時だけだ。アクナディンは子供の頃に慕っていた兄への気持ちを思い出し、自分が随分と変わってしまっていたと気付いていた。これから自分はさらに変わり、醜くなっていくだろう。きっと、もう元には戻れない。
 アクナディンは熱くなった片方の目頭を、シワの増えた手で押さえた。こぼれそうになる涙は指を這い、袖の中へと吸われていく。

 だが泣くのはここだけだ。もう復讐心を、これからは息子であるセトへ尽くそうと決めた心を動かすことは、たとえアクナディン本人であっても変えることは出来ない。
 顔を上げたアクナディンの目はもう潤んではいなかった。それを見たアクナムカノンは小さく息をつく。

 親同士、子を思う気持ちは変わらない。……そう感じた。

「お前が代わりに歩いた険しい道を、ついに私も歩む時が来た。王と親は相容れぬ。王であるが故に免れた道を、親であるがゆえに歩む事になろうとはな」




 つくづく哀れな男だと思う。

 セトはそう目を伏せる事しかできなかった。真っ白く血の気が失せた顔を悟られないよう平伏すマハードにも、震える体を必死に堪え気丈に振る舞う王女にも、この青い眼を向けて瞼に焼き付けようとは思わない。
 地獄に突き落とされたマハードには、いま絶対君主であるファラオからの祝福が与えられている。これ以上のおぞましい事が、果たしてこの世に存在するだろうか。

「謹んで、お受け致します」

 僅かに震えた声はファラオへの恐れか、それとも王女への決別に嘆くものか、それは誰にも分からない。ここへ来て何も知らないアイシスを哀れだと思う者はいったい何人いるだろう。セト、シモン、……それだけだ。
 アクナムカノン王もアクナディンも、真実を知っているからといって1人の女を哀れむだろうか。前世のなまえもマハードも、打ち崩され、引き裂かれた愛に自分たちを哀れみこそすれ、その間に当てがわれた1人の女を哀れむだろうか。

 結局は身分によって視界にすら入らないのだ。

 セトの心は騒めいた。身分や階級への不満、そしてそれが普通になっている、王宮全体の人間への疑問に。


「祝着至極に存じます。これでわたくしも肩の荷が降りました」
 千年タウクを首にしたアイシスの叔母がファラオに頭を下げる。整然と並ぶ5人の神官を前に、アクナムカノン王は立ち上がって前世のなまえとアテムの方へ目を向けた。

「……」
 呆然とマハードを見つめたまま動かない前世のなまえと、それを気遣うアテムは父王の視線に気付く様子がない。シモンが2人を諫めようとしたところで、アクナムカノン王はさらにその奥へと顔を上げた。

「千年リングを此処へ」

 振り返ったシモンとアクナディンの目が見開かれる。何を言い出すのかと口を開けたままのシモンを、召使が持つ盆に載せられた千年リングが横切った。
 突然のことに騒めく中で、セトもただ愕然とそれを見ているしかできない。
 しかし信じられないその抜擢に一番慄いていたのは、他でもないマハード本人だった。

「マハードに千年リングを与え、我が側近たる六神官に加える。これからは息子ではなく私の側で仕え、勤めるがよい」


 分かっていた。いつか引き裂かれる運命なのだと。だからそれまでの短い時間を、命をかけて愛し合ってきた。
 でも幼さを免罪符にした逃避行は終わり。空想を平気で描けていた自分と、お別れする時間が来ただけ。

 あなたには二度と2人きりで会うことが出来ない。それをちゃんと自分の中で噛み砕いて、理解して、……私はやっと震えた息を吐いた。


- 6 -

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