マハードは確実に蝕まれていた。

 この国の統一と独立を果たした偉大なる力が、凄惨な儀式によって呼び起こされた闇の力であると知ってから、この事実をひとり抱えるには荷が重すぎた。
 千年リングから漏れ出す邪念と憎悪、それを抑え込むのに神経を張り続ける日々。まさか妊娠中のアイシスに打ち明け、負担を強いるわけにもいかない。かと言って、いったい誰にこの事で口を破れば良いというのか。

 ───ファラオは、この事実をご存知なのだろうか。


 神の妻(2)

 前世のなまえはひとり、王妃の礼拝所を歩いていた。壁一面に刻まれた文字を手でなぞりながら、その最後に文字が途切れるところまで来てやっと顔を上げる。

「(お母さま……)」

 見上げた先に描かれた姿は、記憶にある母親とは違っていた。王妃として描かれ、“次の王妃の母”である神を崇拝する者ドゥアト・ネチェルの名を冠した文字が刻まれている。
 この次の空白に描かれるのは私。アメン神の妻ヘメト・ネチェル・ネト・アメン神を礼拝する者ドゥアト=ネチェル、……そのあとは何と言われるだろう。

 目を少し横に向ければ、もう1人の王妃が母に並んで描かれている。聖なる女性、神の手ジェレト・ネチェルの名だけを冠した、アテムの母親。
 2人の母親が早くに死んでしまったのは辛いことだったかもしれない。それでも2人が早くに死んだことで、前世のなまえとアテムの間で王位継承の事でいがみ合わずに済んだのもまた事実だ。

 だが今は無性に母親が恋しい。辛く、崩れそうなこの体を、母ならきっと抱き寄せてくれる。きっと、この苦しみを分かって、導いてくれる。そうであると、どうか今は思わせて欲しい。


 ザリ、と砂を挽くサンダルの音に前世のなまえは振り返った。石柱の側でセトが跪き、頭を下げる。
「王女様、そろそろお部屋へお戻り下さい」
「……わかったわ」
 前世のなまえは壁画に振り向く事なく、そのまま足を踏み出した。しかし立ち上がったセトを横切ろうとしたところで、寝台に焚く聖なる煙キフィが淡く香り、思わず足を止める。
「前世のなまえ様?」

「(……なぜ、まだ正午だというのにこの香りが?)」

 見上げたセトの姿が、あの夜、布越しにかき抱いた影と重なる。この香が焚かれるのは前世のなまえの寝室、それも夜の間のみ。セトの警護は日中だけのはず。この香りがセトの体に残るなどあり得ない。

 あれは、……夢じゃなかった?

「セト、あなたどうして───



「どうしたというのだ」
 アクナディンはマハードの異変に真っ先に反応していた。壁に手をついて項垂れるマハードの肩に手をやり、顔を上げさせる。
「顔色が悪いぞ」
「申し訳ございません、アクナディン様……」
「よい、気にするでない。私の部屋へ来なさい」

 千年眼を通して垣間見えるマハードの心。その中で蠢く千年リングの闇に、アクナディンは初めて恐れにも似た騒めきを感じていた。それが、自分の心の奥底に仕舞い込んだ忌まわしい記憶に繋がっているものだと、直感していたからだ。
 部屋へ通すなり、アクナディンは召使いに水やぶどう酒を出させた。ある程度支度を済ませたあと、アクナディンは人払いを命じる。

「千年リングからの波動が乱れておる。マハード、千年リングはお前に何を見せた」

 マハードは言葉を詰まらせた。果たしてこれを口にして良いものかと躊躇うが、アクナディンの眼には、それらの言葉では言い尽くせない凄惨な光景、───千年リングが持つ記憶の断片が既に見えている。
「(なぜ千年リングが、あの忌まわしい事実をマハードに見せた?!)」
 千年眼で見通せるもの全てに知らぬふりをするというのは、簡単な事ではない。だがこれだけは、知らぬ存ぜぬとマハードに貫くしかなかった。

「千年宝物ほうもつの誕生の秘密、その忌まわしい儀式の犠牲となった怨念が、この千年リングに宿っています。……私はその事実を知ってしまいました。しかし、千年宝物ほうもつをいつ、誰が生み出したのかを私は知りません。千年リングが見せる光景、これも……いったいどれほど前の出来事だったのか、いったいどこの地で行われたことなのか…… ただ凄惨な過程のみを見せられ、苛まれる毎日。私はいったいどうすれば良いのでしょうか、アクナディン様」
 アクナディンは震える手を誤魔化すように、マハードへぶどう酒を差し出した。千年リングの見せた光景のあとで、それは血の満ちたカップにも見て取れる。しかしマハードはそれを飲み干して口を拭った。

「……千年宝物ほうもつの誕生の秘密、それはお前にだけ告げられしもの。だが国を治めるに欠かせない神器である以上、それが如何なるものであれファラオにお伝えするのが、真に忠実な神官のあるべき姿。───お前は、ファラオに見たことをありのままご進言するのだ」

 アクナディンの心は震えていた。この事実を誰かに、兄王へ打ち明ける時など来ないと思っていたからこそ、心の奥底へ隠してこられた。
 それをいま、マハードの口を通して兄は知る。兄のため、国のためひとりで歩んだ破滅の道、その実態を。自分の身分を捨て、妻と息子を捨ててまで成し遂げた事のあらましを。
 本当はずっと知って欲しかったのやもしれぬ。だが自ら犯した罪を口にするにはあまりにも重い出来事だった。だからこそそれを兄が知り、はじめのうちに慰めてくれていたなら…… 若い頃の自分なら、兄を許せていただろうか。
 道は違っていただろうか。

 千年リングがマハードに事実を見せたのは、アクナディンにとってのみ天啓だった。千年宝物ほうもつを作り出した張本人、それがアクナディンであると、……それはアクナムカノン王しか知らないからだ。
「(いや違う。作れと命じたのは兄だった。私はアクナムカノン王の手足にすぎぬ。千年宝物ほうもつをつくりし張本人、それはアクナムカノン、お前なのだ!)」

「しかしアクナディン様、これは国を揺るがしかねない事実。我がエジプトは他国との武力衝突や民の治世を、千年宝物ほうもつの力に頼ってきました。……もしアクナムカノン王が千年宝物ほうもつの真実を知り、お心を痛めるような事になれば───」
「マハードよ。ファラオはこれまでも幾多の争いを経験し、何万という兵の死を見てこられた。恐れ多くもその王のお心を軟弱と申すか?!」
「……! い、いえ、……申し訳ございません」

 ───おお、人の心よ。なんと繰りやすい脆弱なものか。
 アクナディンは目を細めて、マハードの杯にもう一度ぶどう酒を注いだ。震えて息の上がるマハードの肩に手を置き、その眼差しは父親のように優しく注がれる。

「真実とは時に酷なもの。それをひとり抱えて苦しむことを、ファラオもきっと望みはせぬ。民の苦しみは王の苦しみ。行って、話してくるのだ、マハード」



「間違っているとは思わないか?」
「えぇ? 何をですか? 王子」

 どこか間の抜けた返答に、アテムはバルコニーの柵へ肘をついたままため息をつく。首を傾げるだけで大きな目を瞬かせるマナにアテムは振り返った。
「お前は前世のなまえに仕えると思っていたぞ」
 それを聞くなり、マナは「えへへ〜」と照れたように頭を掻く。幼い頃よりマハードを「おししょうさま」と呼んでコロコロと着いてまわっていただけの幼な子が、今や本当に最高官位である六神官となったマハードの弟子として、正式に王宮へ上がっていた。
 そしてマハードの出仕先が父王へ変わったことにより差し出されたのが、マナという経緯わけだ。

「あのセトという男…… マハードの次に出世するのは間違いなくアイツだ。だがオレと前世のなまえという仕える場を別けたまま官位を上げれば、いずれ2人は派閥争いに巻き込まれる。本人たちが望まなくともな」
 アテムは石段の続く床を見渡した。ひとつだけ欠け、開けられた穴。マハードとセトの剣闘を許したときのものだ。
 ……セトは間違いなく、あのとき前世のなまえへの横恋慕でマハードに挑んでいた。あの決闘紛いの一戦でセトは随分と懐柔したものの、今この状況においてアテムはセトの腹の中が読めなくなってきていた。水面下で続く王宮に仕える家同士での啀み合いに、マハードの対抗馬としてセトを担ぎ上げようとする派閥が出るのも、おそらく時間の問題だろう。

「長くこの王宮を見てきたシモンやアクナディンなら、てっきりセトの方をオレの部屋に寄越してくると思ったんだがな」

「それって、アタシと王女が毎日一緒ってことですか?」
「…………」

 急に、頭を抱えて究極の取捨選択を迫られるシモンとアクナディンの姿が目に浮かんだ。
 マナと前世のなまえが毎日…… 間違いなくわがまま放題、いたずら放題。下手をすれば後宮どころか王宮を抜け出して街にでも飛び出しかねない。前世のなまえ1人にできなかった事でも、マナがついた途端にその“いたずらの度合い”と“逃亡先”の幅は広がる。
「(いや待て、アイツも大人になった。もう前のように騒ぎを起こしたりはしないはずだ)」
 頭を振っていらない心配のイメージを掻き消す。
 そうだ、前世のなまえも随分おとなしくなった。……父王の命でマハードが結婚をした時から。

「うーん、アタシはそう言う……大人のイザコザ? は、よく分かんないんですけど、気になるなら、王女と一緒にいる時間を増やしたらいいんじゃないですか?」
「え」
「? だって、アタシじゃなくてセト様が王女に付きっきりっていうのが気になるんですよね?」
「マナ、オレは別に“そういう”心配をしているんじゃ───



「そのような事が」

 項垂れるアクナムカノン王を前に、マハードはただ跪き、俯いていた。
 一度口にした言葉を掻き集めて消し去ることなどできるものではない。今更になって「話しても良かったのか」など考えても遅いのだ。
「なんということだ……!」
「……」

 話しても良かったのだろうか。
 小さな細波も対岸までたどり着く頃には大きな波となって押し寄せる。マハードの僅かな不安は、着実にその首を絞めた。

「お前は下がれ。……誰も部屋に入れるでない」
「……! は、」

 頭を抱えるアクナムカノン王に一礼してあとにする。石柱の影で一度振り向けば、王は天を仰いでいた。
 早鳴る心臓は不安と云い知れぬ罪悪感。だが今は「伝えるしかなかった」と言い聞かせて、マハードは背を向けた。


 ───『これまで多くの困難や難題を乗り越えたが、思っていたよりも平坦な道だったのかもしれぬ。その分だけ険しい道を、孤独を強いて、歩ませてしまったな』

 自分はなんと愚王であったろう。弟を、アクナディンを何も分かってなどいなかった。『苦労をかけた』? それがこんな事を強いた己が言うことか。
 何百という兵と魔術師を連れ立ち、千年宝物ほうもつを手にして帰ってきたのはアクナディンただ1人だった。なぜあの時、アクナディンに事の次第を詳しく問い質さなかった?

「(……分かっていたのやもしれぬ。これだけの大いなる力、その対価が如何に重いものか、私は心のどこかで分かっていた。だが真実を聞く勇気が、王でありながら、私自身になかったのだ。アクナディン、我が弟よ─── お前に与えた仕打ちの数々、そして犠牲となった民の数々…… 私はどう償えば良い……?!)」

 ふと、アテムと前世のなまえの顔が思い出された。この咎を、禍根を2人に残して死ぬのか、と。
 しかし顔を覆う手は深く皺を刻み、渇き、荒れている。アクナムカノン王は初めて年老いた自分の手に気が付き、そして恐れた。
 残された命のうちに果たして償い切れるのか? 2人の子供が無事に成人を迎え、残された自分の務めも果たしたものだと、そう思っていた。

 自分の務め、───娘の心を引き裂いたばかりでなく、息子に血に塗れた玉座へ座らせる事が、自分の務めだったのか?

「偉大なる太陽神、祖先の魂よ……! ファラオのあるべき姿、成すべき事、それの真実が人間としての大罪だったというのですか?!」




「セト、あなたどうして───

「王女」

 突然降り掛かった声に振り向くと、アクナディンが立っていた。これにはセトも少し驚いたのか、前世のなまえから一歩退いて頭を下げる。

「アクナディン、珍しいですね。このような場に」
「王女がこちらに、いらっしゃると伺い……」
「私に何か?」
 心を見透かす黄金の片眼。フードに隠しているとはいえ少し苦手だった。きっとその心すら知っていてアクナディンは元々の目の方を細めているのだろう。
「もし宜しければ、お部屋で……」
「……、」


 王女の部屋。後宮の一番奥に仕舞い込まれた宝石箱のようなもの。ときに厳重に閉ざされ、ときに誇示するように見せびらかされる。……今みたいに。

「この部屋はかつてお母君であった第一王妃が住まわれていた部屋。あの庭の泉は王妃のために、先王……つまりお母君の父であり、王女の祖父にあたる方がお造りになられたもの。こうして前世のなまえ様に継がれて癒しの場になっていると知れば、先王もお喜びになる事でしょう」
 あぁ、うんざり。部屋に誰か招くたびにこうして前置きを聞かされる。その話だってシモンから聞いているわ。肝心の父王からは聞かされたこと無いのに。

「それで、何の用があってこの“王女の部屋”へいらしたの? まさか、わざわざ亡き王妃を偲びに?」
 どこか挑発的で冷めた眼。その胸中は子供と大人の狭間で揺らぎ、葛藤に激しく感情が鬩ぎ合っているのが、千年眼を通さずとも見て取れるようだった。
 すました顔をしているだけ。自分はまだ何も失ってなどいないと言い聞かせ、闘い続けなければ身も心も無用となることを恐れている。
 アクナディンは「フム」と小さく息をついて前世のなまえを見たあと、その背後に立つセトへと顔を上げた。
「セト、お前は部屋を下がっておれ」
「……! しかしアクナディン様、私は王女の───」
「アクナディンに従いなさい」
 前世のなまえの背中がピシャリと言い放つ。セトはそれでも少しためらったあと、振り向きもしない彼女に頭を下げて部屋をあとにした。

「他の神官に聞かせたくないほどの事のようですね」
「……実は、王女にこちらのものを献上したく参上しました」

 アクナディンが召使いに手招きすると、素焼の瓶と黄金の杯がテーブルに出される。前世のなまえはそれに目を向けることなく、ただじっとアクナディンの、元々の眼の方を見つめた。

「それで? 私から何が欲しいのですか」

 まさかアクナディンほどの男が、こんな15になったばかりの王女から欲しいものがあるとでも言うのだろうか。
 立場上、官位や役職を無心される事はそれなりにある。アテムよりも、女である前世のなまえの方が懐柔しやすいとでも思われているのだろう。子供っぽく奔放そうに振る舞ってきた分だけ、周りは“御し易い”となめてかかるのだ。
 たがここへ来て、この国で宰相・シモンに並ぶ権力と地位を確立している最高神官が、こんな小娘に擦り寄る理由はない。前世のなまえはただ眉を顰めるだけだった。

「前世のなまえ様が王妃になられた暁に、ファラオ率いる六神官の長を、次期王となられるアテム様にご進言頂きたいのです」
「私に後ろ盾になれと? ……あなたは既に父王の腹心。心配しなくとも、兄は父の側近だった者も重用なさいます」
「恐れながら、私ではございません」
「……」
 目を細めた前世のなまえに、アクナディンは椅子から立ち上がるとその場に平伏した。

「では誰を、私に推挙させたいと?」



「……」
「……」
 非常に気まずい。マハードは顔を顰めて唇を噛んだ。だが相手はマハードの心情など知った事ではないと言わんばかりに、完全に敵意のある目で睨んでいる。

「久しぶりだなマハード。顔を見ないから、てっきり避けているのかと思ったぞ」
「あ、……いや」
「そうだったな。貴様は今やファラオに仕える六神官のひとり。私のような下位の者に顔を見せるどころか、堂々と王女に面会を申し込める地位を得ながら、忙しくてそんな暇も無かったようだ」
「決してそのような───」
「ところでここは後宮へ続く回廊。ファラオに仕える六神官様が、いったい何の用だ。フン、王女に泣いて詫びに来たのなら、この私が取り次いでやっても構わんぞ?」

「いい加減にしろ」
 声を荒げるでもなく、マハードはただ静かに目を細めてセトを見た。偶然セトと鉢合わせた事には気まずそうにした割に、王女の事を持ち出してもマハードは眉一つ動かさない。それが尚のことセトの癪に触る。
 セトはマハードの胸ぐらを掴み、石柱の影の壁に押しやった。咄嗟に人目から隠れるようにしたのは、セトなりの、せめてもの優しさだったのかもしれない。

「王女はお前を信じていた。その王女への仕打ちが“これ”か?!」
「私達はいずれ引き裂かれると分かっていながら愛し合った。その時が来るのをずっと覚悟していた」
「それがアイシスという女に“手をつけた”言い訳か?」
「なんとでも言え。……今は、彼女を愛している。私の妻になり、子を身籠ってくれた。王女が愛して下さった私はもう死んだ。今はアイシスの夫として生きる身。王家を護るため、私は自らを殺したのだ」

「臆病者が! 貴様が殺したのは貴様自身ではなく、前世のなまえ様だ! 私は貴様が王子の元を去って半年、ずっと王女のお側で仕え続けた。貴様は前世のなまえ様というひとりの人間ではなく、結局は権力に従い、王家を選んだだけだ」

 マハードがセトの腕をふりほどくと、今度はセトが石柱に叩きつけられた。襟刳を掴むマハードの両手がギリギリと軋むほど握られる。

「貴様に何がわかる! 貴様もいずれ摂理に逆らえず、私と同じ苦しみを味わうだろう。心から愛する女に出会えたとしても、この世でその人と結ばれるとは限らない絶望をな。人の世から望まれる限り、人は役目を果たさなくてはならない。そうするしか、本当の意味で誰かをお護りする事さえできないのだ!」

「ハッ、笑わせるな。貴様はあのとき愛した女の心を砕いたのを、世の摂理だ何だと御託を並べて、自分が裏切った罪悪感から目を背けているだけだ。人間の男としてその咎を負い、責めを受け、王女の前で首を撥ねられた方が、よっぽど前世のなまえ様は愛された女として救われただろうに!」

「人を愛することと、人と愛し合う事は違う。それこそ子供と大人ほどにな。貴様は真に誰かと愛し合ったことがあるか。誰かの愛に応えたことがあるか。誰かから愛に応えてもらったことがあるのか!」
「……ッ」

「……」
 言葉を詰まらせたセトに、マハードの手が緩んだ。
 マハードには分かっていた。「王女を諦めた」という点でセトと自分は同じなのだと。ただ、前世のなまえの心を奪い、砕いてしまった。その点だけが決定的で、そして取り返しのつかない境界線を超えてしまっていることも。
 それをどうこうできるものでないことも。

 解放されたセトが服を払いながら、忌々しそうに唾を吐き捨てる。殴り合いにならなかっただけ、互いに大人になったのだと感じていた。

「……私の次はお前だ、セト。本来ならば、私よりも貴殿が先に千年宝物を賜るべきだった。だが王子と王女が成人なされた今、もう時はない。千年宝物を手にしたとき、その目に何が見えるか─── いや、それはそれぞれの宝物の本質によって違うのかもしれない。だがセトが千年宝物を手にしたとき、また分かり合えるものが互いに抱けることを願っている」




「なぜセトにそこまでの期待をしているの」

 前世のなまえはやっとテーブルに差し出されていた黄金のカップを手に取った。瓶から香るぶどう酒の匂いに顔を顰め、平伏したままのアクナディンに目を向ける。
「立ちなさい、アクナディン。父上と歳の変わらないあなたが、こんな小娘に平伏す必要など」
 女官にぶどう酒をその杯に注がせると、前世のなまえは顔を上げたアクナディンにそれを差し出した。

「……セトはこの1年、私によく仕えてくれました。私が彼の後ろ盾になる事は構いません。しかしそれと、兄の側近に推す事は別です。お決めになるのは太陽神たるファラオの一存のみ。頼む相手を間違えましたね。その杯を持って、兄のところへ行きなさい」

 見上げた先に座る前世のなまえの姿。思い出の中にただ静かに座る女の姿が重ねられる。
「(……本当に、王妃によく似ておられる)」
 アクナディンの目が憂いに揺らめいたのを、前世のなまえが少し驚いたような顔で見た。なぜか、その目をどこかで見たことがある気がしたのだ。

「(───、……父上に、似ている)」
 アクナディンに対して初めてそんな事を感じた。
 フードに目深く隠した顔。千年眼ばかりが目に付いて、あまりまじまじと見てこなかったせいなのかもしれない。


「王女!」

 バタバタと騒がしく駆け込んできた女官に驚き、前世のなまえは杯から手を滑らせる。
ファラオが───」



「マナ、オレは別に“そういう”心配をしているんじゃ───

「王子───、王子!」
 駆け込んできたシモンにアテムとマナが振り返る。老齢のせいか、それとも違う理由か、シモンはバルコニーへ出るなりその場で転がり伏せた。

「シモン、どうした」
 腰を摩るシモンにアテムが慌てて駆け寄り、抱き起こしてやる。だがシモンは立ち上がるよりもその腕に飛びつき、アテムの顔を見た。

ファラオがお倒れに」




 バチャ、と床に広がる深紅のぶどう酒。その湖面に映る千年眼に、どうしてアクナディンだけが俯いていたと気付けるだろうか。
 跪くアクナディンの服に、そして前世のなまえのドレスの裾に吸われて染みていくぶどう酒。騒ぎを聞きつけたセトが王女の部屋に飛び込んで見たものは、血色の湖面に佇む王女の姿だった。



- 8 -

*前次#


back top