神の妻(1)

 いっそ滑稽だと嘲笑わらってくれたらどんなに楽だろう。

「王女、どうぞ民にお姿を……」

 城壁の突き出したバルコニーに立って、民衆の歓声に応える父と兄の背中を見ていた。宝冠に首飾りに腕輪、いつもより数倍重い体に、随分と前から背骨が悲鳴を上げている。
 今日はアテムが15歳になったことを民に拡める日。王家の人間として、王女として民に姿を見せる日。
 シモンに急かされるまま足を踏み出した。父王に影のように寄り添う千年宝物ほうもつを携えた六神官、その一人一人を前世のなまえが横切って歩く。視界の端で輝く千年リングがこんなにも忌々しい。

 マハードとはあの時からもう3ヶ月、顔を見合うことさえしていない。きっと目を合わせてしまえば、心に閉じ込めたものが溢れ出てしまう。今だって何もかもやり直したいと願っている。
 だけど、彼はもう他の女のもの。それをアテムの、王家のものであった私が傷付き、嘆き悲しむ権利が一体どこにあったと言うのだろう。そんなもの最初から持ち合わせてなどいなかったじゃない。

 これが正しい私の道。正しいマハードの道。私達は何も間違えてなどいない。引き裂かれると分かって、間違いを犯し続けていたのだから。

 たったの3ヶ月。傷が癒えたかと言えば嘘になる。それでも心は静寂そのものだった。何度も覚悟を決めて、心と向き合うには充分な時間だったと思う。恐れる事はない。私には兄であり、夫となるアテムがいる。父王がいる。私とアテムを必要としてくれる国が、民がいる。

 私の愛は、1人の男にではなく何万というこの国の民へ応えるためのもの。

 アテムの横に立ち、一際大きい波となって押し寄せた歓声を前世のなまえは見下ろした。黄金色の砂の大地に黒くひしめく人間の塊。あれらのひとつひとつが、前世のなまえやアテム、父王やマハード、シモンやセトのように個々の命があり、意思があり、生活が、自由がある。
 同じナイルの水で洗われて生まれた人の子、同じ砂漠に埋れて死んでいく人の子。「なぜ私なのか」、もうそんなわがままは言わない。


 アクナムカノン王が手を上げると、民衆は一斉に静まり返ってその場に平伏した。後ろでシモンが膝をつき、退室を促す。アクナムカノン王に続いてアテムもバルコニーの窓辺から部屋へ戻った。
「前世のなまえ?」
 立ち尽くしたまま動かない前世のなまえにアテムが振り返る。ほんの少しの沈黙の後、前世のなまえはやっと民衆に背を向けた。

 ひどく太陽光が強い。灼けた黄金の冠と腕輪、汗を留める重たい首飾り。……暑い。髪の中にまで熱が篭り、まぶたが重くなってくる。
 次第に荒くなる息をなんとかやり過ごしながら、目眩に歪んだ視界だけを頼りに足を踏み締めた。



 いまは静寂だけがマハードの慰めだった。
 誰の気配もしないこの石版ウェジュの神殿は、千年リングと共に与えられたマハードのための場所。出入口は番兵の守る小さな扉がひとつ。余程のことでなければ誰かが入ってくる心配もない。……こうしてやり場のない感情に身悶える時こそ。

「(……前世のなまえ、様)」

 思い出すのは、今日のこと。すぐ目の前を横切った前世のなまえの姿、そして懐かしい香りがマハードの心へと腕を伸ばし、捕らえようとさえする。
 心の奥底に仕舞い込まれた思い出の全て。ここに行き着くまでの結果がいかに辛いものだったとしても、どんな苦痛からも奮い立たせるにこと足りるのかもしれない。

 しかしマハードはそんな己の未練を律して振り払い、甘美な誘惑にも似た王女の記憶に蓋をした。

「(アイシスは何も知らず、私を愛し、信じてくれている…… 私には私の運命があるのだ。アイシスを妻にした事こそが、人の世から求められた私の運命やくわり。アイシスひとり幸せにしてやれないで、はたしてあの方を……いや、王家をお護りすると己に課した使命を成せようものか)」

 王家への忠誠と前世のなまえ王女への愛の誓い、それの全てが前世のなまえの愛を手にして喜ぶためのものではなく、前世のなまえが幸せに生きるための自己犠牲であるべきだと己に課したあの時と同じだ。「前世のなまえ王女は、私よりも先にセトを愛していたのではないか」、「私はセトの代わりだったのではないか」……そんな猜疑心に駆られたとき、自分の差し出した愛が「自分のためのもの」であったと気付かされた。
 なれば私が夫としてアイシスに差し出す愛の全ても、アイシスが幸せに生きるためのものとして捧げよう。アイシスの心もまた同じ人間として真実のものだと知っているのだから。

『アイシスはお前を愛し、お前を望んでおる。互いに愛し合う喜びを知っているお前にしか、アイシスを幸せにしてやることは出来ん───』

「(シモン様が仰っていた事は正しかった)」
 滲む視界に汗とは違うものが落ちて砂に吸われる。そのひどく不安定な心の隙間に反応するかの様に、千年リングのウジャド眼が僅かに煌めく。しかし、マハードはまだそれに気が付いてはいなかった。



 部屋に入るなりまずは宝冠を外して髪をかき上げた。指輪が髪に引っ掛かってから順番を間違えたと知り、苛立ちを堪えて指輪を抜き取る。重たい腕輪に首飾り。胸にまで垂れ下がる肩当て。それらをポイポイ落としながら歩き、女官が拾い集めながらあとへあとへと付いてくる。
 前世のなまえは自分の体がカラシリスのドレス一枚になるまで全てを削ぎ落とすと、庭に出て石段を降り、服のまま泉へと入って行く。
 石造りの泉は腹までの深さがあった。暑さと頭痛に任せて、前世のなまえは水の中へ倒れ込み、体を放った。

 空気の弾む水音が耳に振動する。水の天井に煌く太陽の光と、流れに任せて靡く自分の髪。一気に冷却されていく体。
 それでも開放感はひとときだけ。体は勝手に浮き、元の世界に戻れば音が鮮明になる。無意識のうちに空気を吸い、水の中よりも意識も視界も鮮明に映った。

「王女様」

 浮いた体でほんの少し顔を傾けると、2人の女官が櫛や粗布を持って水までついて来ている。大きくため息をついたあと、前世のなまえも立ち上がって底に足をつけた。
「わかってる。ありがとう、任せるわ」
 水の抵抗を受けながら歩き、水の中に設けられた長椅子のような寝台に寝そべれば、水の中で髪を梳かれ、体を洗われる。沐浴の時間は大抵決まっているが、たまにこうして気まぐれを起こせるのが沐浴の自由なところ。まあ、面倒を見させられる女官達には申し訳ないけれど。

「王女様、ファラオがお越しです」

「はっ?!」
 撤回するしかない。自由に沐浴できる時間すら邪魔できる人物が居た事を、前世のなまえは忘れていた。

 バッシャバッシャ音を立てて泉から上がり、水が滴るまま部屋に入ると、そこにはもうアクナムカノン王が立っている。こうなってはずぶ濡れで体に張り付いたドレスに構うことなく、堂々と振る舞うしかない。
「父上」
 体を屈めたまま女官が前世のなまえに寄り、ショールだけでもと差し出す。アクナムカノン王が頷くのでそれを羽織ると、もう一度父の顔を見上げた。

「体が冷えてはいかん。庭に出よう」
「……はい」
 裸足で歩く床に水の足跡が落ちる。アクナムカノン王が肩を抱いて促すまま、前世のなまえは泉のほとりへ出た。
 直射日光の当たる長椅子に腰掛ければ、アクナムカノン王も横に座る。

 珍しい。アテムにさえ厳しく当たる父王が、まして前世のなまえが病気に伏せった時でさえ見に来なかった人が、成人を迎えた日には娘の部屋に訪ねてくる。
 ───この人にとって、王女など成人して初めて大切にするに値するのだろう。アテムの方が、息子の方が可愛んだわ。

「お前の目を見ていると、王妃を思い出す」
「……」

 憂いに満ちた父上の目が大嫌い。
 突然母のことを持ち出されて、余計に苛立ちが心を蝕む。物に当たり散らしたい衝動が体をもみくちゃにしようとする。……どうせ父王は、私のことなど何も知らない。大人しくて、聡明で、賢くて、いい子。そういう私が被ってきた王女の仮面しか知らない。
 いまさら父親らしい顔を見せに来たつもりなのだろうか。

「私を恨んでいるか」

 ええ、そうかもしれない。

「父上、私は王家の人間として定められた道に生まれた女。この世に生を与え、これまで大切に育てて下さった事を感謝こそすれ、父王に何を恨む事があると言うのですか」

 嘘はない。父を恨んでなどいない。自分の定められた人生も、マハードの事も。何もかも私の選んだ事。
「……そうか」
 髪の先からゆっくりと滴り落ちる水がショールに広がり染みていく。ナイルの水が、私の涙の代わりに小さな声で抗議している。

「兄との結婚はお前に孤独を強いるだろう。……もしお前に望む男がいるなら───」
「父上」
 そんなひと、もういない。いいえ、最初からいない。

「アテムは私にこう言ってくれました。私とアテムは、生まれる前ひとつの存在だった。この世に生を受けるときふたつに割れたのは、再びひとつになることで共に国を収める事ができるからなのだと」
「……!」

───『私とお前はひとつの腹から生まれた。この世に生を受ける瞬間に別れた、私の片割れだ……元々ひとつの存在だった我々が、光と影に隔てられる事によって国を収めてきた』

「この世界に降り立つ前、神の国で、私たちはそう約束したのです。アテムに世界を統べる太陽神の力が与えられているのなら、私は世界を統べる月神の権利をもってアテムを王に選びます。……この世に、アテム以外に望める、王に選べる器を持った男がどこに存在すると言うのですか」

 兄弟であるがゆえに、兄妹であるからこそ、進む道は違っている。一方はひとつの腹から生まれてふたつに割れ、一方はふたつに生まれてひとつに結ばれる。険しい道を片割れに強いるのではなく、共に険しい道を歩こうと手を取り合える姿に、アクナムカノン王は前世のなまえに、神ではなく人間として生きようとする意志を垣間見た気がした。

 そう、分かっていた。マハードを愛しても、いずれ引き裂かれる……いいえ、例え誰が許そうとも、私自らがマハードと決別することを選ぶことを、いずれは自分の手で引き裂く時がくるだろうと分かっていたのかもしれない。
 マハードは嘘をつけない性格で、実直で、真面目一辺倒で、王家に従順な男。そんな彼を愛していた。マハードが望むなら神に背き、悪魔にさえなれるほどに。でもマハードに王の器はない。国を滅ぼし、民から太陽を奪い、この世の全てから恨まれ、憎悪されながら共に生きるか。王家を裏切り、民を裏切り、この世の全てから追われ、逃げ惑い隠れながら共に生きるか。
 私たちの行くあてには破滅しかなかった。

 人間の世界から望まれる役割を果たしてこそ、人は人でいられる。

「そこまでの覚悟が出来ておるのなら、私からはもう何も言うまい。娘よ、兄を支えてやれるのはお前しかいない。お前の母のように、立派な王妃となれ」

 ───おのづから起きることなかれ……
 ───『いつか分かるわ』

 私の知る母は母でしかない。あのひとはどんな気持ちで父を選び、……王妃になったのだろう。



「マハード」

 顔を見るなり花を咲かせたように笑顔を綻ばせて駆け寄るアイシスに、マハードも自然と口元が緩む。
「アイシス」
「今日はもう、お勤めは宜しいのですか?」
「あぁ……アクナディン様が、今日はもう戻っていいと」
「そうでしたか。わたくしはまだ少し掛かります。先にお部屋で休んでらして下さい。お疲れのようでしたら食事も───」
「いや、アイシスが帰ってくるのを待っている」

 煌めくアイシスの瞳。それと同じものを、これまでにいったい何度向けられてきた事だろう。
 いくら罪悪感や葛藤に苦しもうと、心は既にアイシスへ傾き切っていた。相応の身分、相応の結婚。それでも相手がアイシスで良かったと、今なら心から言うことができる。彼女の前では、マハードは夫でも男でも、まして王家の警護を務める神官である必要もない。ひとりの人間として向き合い、支えてくれるアイシスに、いつしか安堵し、居心地の良さを感じていた。
 アイシスを幸せにできるのが自分だけであると同時に、自分もアイシスがいる事で安らぎや幸せを感じていたのだ。

 ……身を焦がすような前世のなまえとの恋とは違う。これが本当の、人間として求められる理想。

「では、また後ほど」

 そう、これが求められている役目。

 マハード以外の誰にも見せない顔で微笑み、アイシスは神殿の方へと去っていく。見送る背中から少し斜め方向を見上げれば、王女の住まう後宮が見えることを知っている。それでもマハードは頑としてそちらに目を向けたりはしなかった。10年以上も後宮を見上げ続け、今や悪癖と呼ぶべきものになってしまったこの習慣も、そのうち意識せずとも見上げなくなり、忘れていくことだろう。
 王女の、幼い恋心のお相手を務めさせて頂いた思い出も、いずれはこの赤い大地デシュレトの砂に埋れ、朽ちていく。


 ザワリ、と一瞬背中に冷たいものが触れた。
 千年リングが僅かに震える。時が止まったように、風が止んだ。

『───人間に求められる理想? そんなものの為に、私たちをこんな目に合わせたのか』

 王家の、国を守ると言う一方的な正義のために強いられた苦悶も、いずれはこの赤い大地デシュレトの砂に埋れ、朽ちていくとでも思ったのか。
 そんな事はさせない。必ずやこの報いを、代償を王家の人間に支払わせよう。



 ガシャン、パリン、と盛大な音を立てて石床に散らばった水瓶の破片の中に、アイシスは佇んでいた。
 一面に張られた湖に、駆け寄ってくる召使いの姿が映る。
「アイシス様! お怪我はありませんか」
「え、……えぇ」
 たまたま手が滑っただけ、そう言ってしまえばそれだけなのかもしれない。だがアイシスは、何か不穏なものを感じていた。



 汗が砂粒の塗された石床に落ちては吸われていき、荒い息が石柱に木霊する。
 体の震えだけが千年リングを震わせている原因ではない。千年リング自身が震えている。それを自信の持てる魔力を注ぎ込み、マハードが抑え込んでいた。
「(この光景は何だ)」
 マハードはただ力無くその場に項垂れる。

 心に巣食わんばかりの強大な闇が、マハードの影に潜んで嘲笑っていた。
 いったい何がきっかけだったのか、それとも千年リングの逆鱗に触れたのかはわからない。しかし千年リングはマハードの首に絡みつき、深い怨恨の記憶をその耳に囁く。
「───ウぷッ」
 目眩に声が出せず、顔から血の気が地に吸われていくように引いていく。紫色とも白ともわからない色が視界を波打ち、体を支えていた腕にも力が入らない。
 新鮮な空気を求めど口からも血生臭い臭気を感じて、熱く苦いものがこみ上げそうになる。

 思えば、千年宝物ほうもつを与えられてファラオのすぐ側に仕えることの出来る六神官、その椅子のひとつが空いていた理由─── 最高神官ともあろう先任の者が早くに命を落とした原因を誰も知らなかった。
 決して周りがマハードに口を閉ざしていたのではない。先任の神官が、まさしく墓まで持っていったのだ。

「(千年リングよ、……なぜ今になって私にこんな事実を見せる!)」

 千年リングを手にしてそれを唯一知ってしまったマハードにとって、それは余りにも重い事実だった。



「バカを申すでない」

 アクナディンの石版ウェジュの神殿。その祭壇の上で跪くセトに振り返って、アクナディンは珍しく声を荒げた。
「しかしアクナディン様、私は身分の低い出自。ましてマハードやアイシスのような継ぐ家はおろか、親兄弟、血縁の者ひとり居りません。そのような私を神官として取り立てて下さったこの王家のために、身も心も捧げて闘いたいのです」

 国境警備のための遠征出兵の話しを聞き、セトはアクナディンに兵として志願していた。
「男たるもの、兵を率いて勇敢に戦うのも神官としての役目。この命を差し出すことになろうとも覚悟はできています。私の父も、勇敢に戦場で命を散らしたと聞きました」
「───!」

 ───セトには、お前の父は戦いで命を散らした、名も無き兵士……そう言い聞かせて育てるのだ。

 真っ直ぐに向けられた青い瞳にアクナディンが躊躇う。幸か不幸か母親によく似たその色は、王家の血である赤紫色の片鱗もない。この珍しい青い瞳が、もし王子や王女と同じ色に輝いていたら、セトは自分の出自に気が付いただろうか。
 お前はマハードやアイシスとは違う。お前には王座に坐ることのできる血が流れている。一兵として死んでいい男ではないのだ!

「お前には王女を警護する役目がある。遠い国境に身を置き、どうやって王女を守ると言うのだ」
 セトの目が揺らいだのを見逃すアクナディンではなかった。その青いためらいの真意を窺い知るのに、千年眼や父親の勘すら必要ない。

「セト、……まさか王女に懸想しているのではあるまいな」
「な、何を仰いますアクナディン様……!」
「そうなのだな?」

 詰め寄るアクナディンにセトは息を呑んだ。ここで認めるわけにはいかない。……認めてしまって何になる。マハードのように何処からか女を当てがわれるのか? 側に仕える仕事を追われるのか?
 だが、王女のすぐ側から離れたいという気持ちは大きかった。戦場へ赴き、胸に仕舞い込んだ鬱憤が晴らせるなら晴らしてしまいたい。

 王女という身分から離れた、ひとりの女として出会ったあの時から、セトはずっと彼女を理想に掲げてきた。出自を跳ね除け、王宮に上がり、神官の地位と王女の側に仕えるにまで這い上がった。何もかも、あの女ともう一度出会うために。
 ……しかし現実はどうだった? 何もかも残酷で、悍しいものだった。これが王家、これが王宮。煌びやかなのは見た目だけ。その中でもがき苦しみ続ける前世のなまえを、どうしてこれ以上見ていられようものか。

「それで良い」

「……は?」
 思わず声が漏れた。アクナディンの顔は僥倖に輝き、寒恐ろしいまでに目が煌々としている。思いがけないアクナディンのその反応に、セトは顔を硬らせるほかない。

「セト、王女への心、私以外に漏らしてはおらぬな?」
「……、あの」
「よいか、決して誰にも悟られてはならぬ。だが王女には変わらず接し、なるべくお慰めするのだ。片時も離れてはならん」
「アクナディン様、───」
「お前には天命がある。私が必ず、お前の力になる!」

「おやめ下さい!」

 アクナディンを振り払い、セトは立ち上がって後退りした。荒い息が石柱に反響し、肩は震えている。
「アクナディン様、これは……どういうおつもりですか。私は、……」
 アクナディンの恐ろしい考え。それは、セト自身も一度気付き、余りの恐ろしさに目を背けたことのある考え。

「は、───反逆罪を犯されるおつもりですか。最高位の神官であり、六神官の長である貴方が……」

「セト、今は黙しておるのだ。たとえお前が私を告発しようと誰も聞きはせぬ。この王家に仕え続け、築き上げた信頼あればこその私。良いな、王女の警護の職を辞する事は決して許さん。……お前もいずれ、あのマハードのように我々六神官の列に加えられる。それまで私に従うのだ! セト!」

 懐柔する気の無いセトの目に、アクナディンが顔を顰めた。セトの心の奥底に眠る願望。それを覗き見る千年眼が僅かに煌めく。
 人の心など、ましてや己の血肉の分身である息子の心を動かすことなど、アクナディンにとって赤子の手を捻るよりも軽い。

「王女をひとりの人間に戻してやろうとは思わんのか」

「───! あ、……」
 セトの視界は揺らいだ。首を駆け巡る血潮の勢いすら感じるほどの目眩。彼女を愛するがゆえに願ってきた、彼女の望む事。

「私の元で働くのだ、セト。国や民のために切り刻まれる前世のなまえ王女を救えるのは、お前しかいない」



「顔色が優れませんね」

 「え、」と上げた顔がカップに揺らぐ水面に歪んで映る。じっと覗き込むアイシスに、マハードは何度か瞬きをしたあと、手にしていたカップを煽って、言葉ごと水を飲み込んだ。

「なにか気がかりなことでも」
「いや、何でもない。……王子と王女が立て続きにご成人なさり、今は祭事が多い。私も少しばかり疲れてしまったようだ」
 カップを置いた手にアイシスの手が重ねられる。控えめで優しく、ほんの少しだけ水に荒れた指先。頭の中で“他の手”と比べてしまう前に、マハードはその手を包み、握り返した。

「マハード、……」
 どこか遠慮がちに、しかしアイシスにしては大胆に、マハードの胸に身を預ける。抱きしめ返してやれば、アイシスは目を閉じてマハードの鼓動に耳を澄ませる。
「あなたはいつも何かを憂いたような顔をして、たまに何かを思い悩んでいましたね」
 ひとつ乱れた鼓動。顔は見ない。
「たとえ些細なことでも、どうかわたくしにお話しください。私たちはもう共に王宮で支え合ってきたきた神官同士という関係だけでなく、……夫婦なのですから」
「……そうだな」
 アイシスがやっと顔を上げてマハードを見上げれば、こっちを見ろと言わんばかりに頬で胸を撫でては小突く。
 いじらしく可愛らしいアイシスの素顔に、マハードも小さく微笑み返せば、さらに抱き寄せて口付けを落とした。

「───お抱きになって」
「アイシス、」

「───あッ……」




 ───あぁ、もう泣くこともできない。

『前世のなまえ様───、……前世のなまえ』
『オレもお前を愛している』

 みんな言葉ばかり。うんざり。聞き飽きるほどの「愛してる」なんて言葉がほしくてこの命を燃やしているわけじゃない。誰かが私を分かってくれたら、受け入れてくれたらそれで良かった。
 誰かの犠牲の必要がない“それ”がほしい、それのどこがわがままだったと言うの。ただ目を閉じて、手を伸ばしてくれさえすれば良かったのに。
 なぜたったそれだけの事に罪を感じ、罰を受け入れようとするの。

 「愛してる」、その言葉を失ってしまったら、私にどう愛していると伝えられるの? 私への思いが本物だと感じられるものはどこにあるの。

 それさえあったなら、私を愛しているなんて、そんな言葉だって必要なかった。口にしなくても分かり合えたはずなのだから。


「前世のなまえ様」

 は、と息を飲んで顔を上げた。寝台を取り囲むリネンの天蓋の向こう、セトの影が頭を下げる。
「……こんな時間にどうしたの?」
 なるべく平素な声を意識した。声が震えてしまう自分が嫌だったから。起き上がってみると、部屋に居るはずの女官や召使い達の気配がない。見渡す限り、リネンのベールを挟んでセトと前世のなまえだけ。その違和感に顔をセトヘ向き直したとき、布の隙間から伸ばされた腕が前世のなまえを捕らえた。

「……!」

 声が出なかった。
 布ごと抱き寄せられ、セトの顔は見えない。……これは夢なのかもしれない。いいえ、きっとそう。
 セトは初めて外の世界から来た自由の象徴、私の理想の世界の人だった。王女という身分から離れて、同じ人間同士として出会ったあの時の思い出が、どんなに自分の中で煌めいていたことか。
 ……でも現実はそれからどうなった? 何もかも残酷で、悍しくて、辛いものばかりだった。大人になったセトは、あの時のセトじゃない。王家の人間だと知るなり、彼は私を崇める人間の一部に成り下がった。

 美しいのは思い出だけ。だからこれも夢。

 私の知るセトはこんな事しない。……きっと、自由を求めるあまり、あの思い出がセトの姿を借りて私を抱いているだけ。
 これが私の欲しかったもの。言葉がなくても、あの時私は愛を知った。

「どうして夢の中でまで、あの人が……もう妻のある身だという現実を私に見せるの。幼い頃の夢よ、誰かの姿を借りるなら、マハードの姿で現れてくれたら良かったものを」

 はぁ、……とゆっくり息を吐き、抱かれた胸に手を這わせ、身を預けながら目を閉じる。少しだけど鼓動を感じる。誰かのを聞くのはどんなに久しい事だろう。

「心地いい」


 しばらくの沈黙のうち、寝息を立て始めた前世のなまえをセトが抱きしめた。そして互いの姿を覆っていた、天蓋から垂れるリネンのベールを抜き取ると、あの日見たままの、「アナト」と名乗り、瞳を閉じた少女の顔がそこにある。

「あなたが“アナト”と名乗ったとき、私はあなたの名に運命すら感じた。あなたがセト神であるバアルの神、その妻アナト女神の名を口にさえしなければ、……私の心がこんなにも掻き乱されることは無かった」
 前世のなまえの頭を支えて、セトは前世のなまえを寝かせてやった。深い眠りに落ちた彼女の頬を、あの時のように手で包む。

「これを夢だと仰るなら、どうかお許しください。今だけは、あなたはアナト。私の思い出の続き。そして、神話から目覚める時が来たのです」

 セトは不思議な力で引き寄せられるままに、ゆっくりと目を閉じて顔を前世のなまえの唇に落とした。
 その唇に触れる前に目を開き、胸を押しやった手はない。前世のなまえの心にあった、他の男の影すらも。

 短く、ほんの触れるだけの口付け。足りないとばかりに求める体を堪えて、セトは眠りに閉ざされた前世のなまえのまぶたにも口付けてから体を起こす。
 これで決心はついた。あの時の思い出からの決別、神話の世界からの目覚め。ずっと自分を捕らえ続けていたしがらみ、───あのとき出来なかった口付けを果たして、セトの心は解放された。

 セトを捕らえ続けたアナトという女性の思い出は終わった。

「私の心を真に捕らえていたもの、……前世のなまえ様、私はあなたを“神の妻”から解放してみせる。そのために、……私はこの王家を、あなたを裏切る」




 ───あぁ、もう泣くこともできない。

「おぉ、それはめでたい。しっかりと妻を支えるのだぞ」
 いっそ滑稽だと嘲笑わらってくれたらどんなに楽だろう。

 あれから半年が過ぎようとしている。今日の王の謁見に、マハードはアイシスを連れてきた。僅かに膨れた腹を大事そうに抱えて、女の幸せの絶頂にある顔で、マハードに寄り添って。
 悪阻が軽くなってやっと王宮へ出てきたアイシス。あのお腹に、マハードの子が居る。

 いっそ滑稽だと嘲笑わらってくれたらどんなに楽だろう。お前と夫の関係は知っていたんだぞ、私が王女から横取りしたんだぞって。そういう笑みを浮かべてくれたら、私だって心からアイシスを恨む事ができるのに。

 可哀想なアイシス。何も知らないでマハードに抱かれて、子を孕んで、何も知らないでマハードを愛しているのね。だめよ、マハードはきっとまだ私のことを愛してくれている。私を思ってくれている。

 ……バカね。目を見ればわかる。私はずっとあなたの目の奥を覗いて愛を感じてきた。いまはアイシスを愛しているのね。当たり前じゃない。私はマハードの愛を欲しがるだけで、決して何もあげられなかった。でもアイシスは違う。結婚して、身も心もマハードに公然と捧げられる。
 アイシスが何も知らなくて良かった。彼女が幸せだということは、マハードも幸せなんだわ。

 あぁ、でも私を嘲笑ってくれたらいいのにと願ってしまう。きっとこれが人間である証拠。自分だけが悪役になっているのが辛いのね。

「おまえたちのいえのあんねいをいのっています」
 そうだ、私は最初から人形だ。笑わなきゃ、笑って、笑え、笑え。

 にっこりと微笑む前世のなまえに、マハードもシモンも、アテムやセトですら安堵する。この数ヶ月で前世のなまえも随分と聞き分け、大人の対応をするようになった。
 アテムですら見抜けないほどに。

 この場で前世のなまえの違和感に目を細めていたのは、アクナムカノン王だけだった。


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