「うぅ───」

 双六が獏良の顔を覗き込む。しかしその目つきが闇人格のものであるとは気付かない。
「あぁ、気付いたか。随分と魘されておったようじゃが……」
 起き上がると、腕には点滴の管が繋がっていた。個室の病室らしい部屋は灯りもなく、太陽が沈んだばかりの藍色の空と街の明かりだけが窓を照らしている。
「大丈夫、ちょっと……イヤな夢を見て」
「そうか。まぁ目が覚めてよかった」
 獏良は特に返事を返さなかった。だが静寂が訪れることはなく、双六は少し興奮した様子で続ける。
「やったぞ獏良君。遊戯と城之内がパズルカードを揃えたそうじゃ。さっき連絡があっての」
 パズルカード、その言葉に肩が僅かに揺れる。さっきのマリクの顔を思い出すだけでムシャクシャした苛立ちが込み上げるが、獏良は平静を装った。
「……、そ、そうなんだ。それで、決勝の場所はどこなんです?」
「あ、───しまった。それは聞きそびれてしまったわい」
「チッ」
 双六はヘラヘラと笑うばかりで獏良舌打ちをしたのにも気付かなかった。必死に堪えていた苛立ちがまた顔を出す。ベッドから起き上がって足を下ろすと、双六が慌てて獏良を止めた。
「僕もみんなの所に……」
「いかんいかん! まだ安静にしとらにゃあ───」

 ぷつり。
 たぶんそんな音が胸の中に響いた。そしてそれに呼応するかのように、獏良の胸からは千年リングが現れて大きく光出す。

「オレ様はこんな所でグズグズしてらんねえんだよ」

「───き、君は……!」
 ただならぬその光景に双六が後退りした。だが息を飲むよりも先に、双六の視界は暗転する。

 その場に倒れ込んだ双六を見下ろして、獏良は少しばかり晴れたイライラに笑みを浮かべた。
「大人しく寝てなジジイ」
 それだけ吐き捨てると、腕に繋がる点滴の管を掴んで引き抜く。ベッドにその針のついた管を放り、獏良はハンガーに掛けられたジャケットを毟り取った。

「(ククク……これから血生臭ぇミレニアムバトルが始まろうってんだ。オレ様を仲間外れにしてほしくねぇなぁ……)」

***

「───!!!」

 耳をつんざくのはヘリのホバリング音。そして自分の荒い息。
 震える手で抱きしめたデュエルディスクを胸に、ジワリと痛む右の手のひらを握って目の前の男をただ見つめていた。

「……貴様」

「(ヒッ……)」
 悲鳴を上げそうになる喉で息を飲み込んだ。ゆっくりと顔を上げた海馬の頬は白く血が引き、こうして黙って見つめ合う間にもそこは赤く色づき始める。

 デュエルディスクを取り上げられかけて、なまえは思わず海馬の顔を平手打ちした。
 ……もうダメかもしれない。ここでヘリから突き落とされても文句は言えない。むしろ、それだけで済むなら御の字。今の海馬は本当にそんな恐ろしい顔をしている。

「……ッ なまえ!!! 兄様になんて事───
「モクバ」
 モクバですらその低い声は聞いたことがなかったのだろう。ビクリと体を震わせて怯えた顔をした海馬の弟を見て、なまえはそう感じ取った。
「お前は黙っていろ」

 いっそモクバから叱責される方が良い。海馬の目は怒るでも冷たいでもなく、ただ静かに目を細めているだけ。それがどれだけ恐ろしいか、いざその目を向けられるような事を海馬という男にしでかした者でなければ知ることは叶わないだろう。


 衝動的に自分を平手打ちしておいて、いざ目の前の相手が恐ろしい人間だと思い出した途端に小動物のように震えだしたなまえを、海馬は見下ろしていた。……意外にも、その心は平静だった。
 怒れどはすれ、報復をする気にはならない。それは自分がこの女に恋愛感情を抱いているとかの問題ではなく、彼女もまた、海馬自身が最初に選択したものを抱えているのだと理解していたからだ。

「貴様もデュエリストだったな」

 言葉に詰まったなまえの、デュエルディスクを抱いた腕に力が入った。その選択を、海馬は自分がどうこう言える立場ではないと承知している。

 なまえに危険が迫っていると知ったうえで自分の社会的な力に慢心し、彼女を放って遊戯の持つ神のカードに固執した選択について、海馬はまだ自分の答えが出せないでいた。
 決して過去の過ちに囚われているわけではない。しかし初めて男として味わった後悔と、自分の人間的な弱みを覆っていた鋼鉄の装甲になまえという存在が亀裂を入れたことで、デュエリストであるなまえから平手打ちをされても仕方がない事をしてしまったという罪悪感を感じているのだ。

「(……このオレが、らしくもない事を)」
 自分への忌々しさと嘲笑に目を細める。なまえには別の意味で映っているのだろう。だがそれでいい。その反応こそ、自分の鋼鉄の装甲がまだ異常をきたしていないという証左だ。
 どちらにせよ、もし平手打ちしてきた相手がなまえでなかったら、海馬も冷静にその理由を考えるまでもなく報復行動に出たと思う。相手がなまえだった。それだけで、目の前のこの女は命拾いしたというわけだ。



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