「───ハァ、……ハァ、……ハァ」

 大きく肩で息をするなまえの前には、リシドが天を仰いで倒れている。《黒魔導の執行官ブラック・エクスキューショナー》のダイレクト・アタックにより、リシドのライフは尽きた。だがなまえの勝利の瞬間はあまりに唐突で、誰もが呆然と2人を見上げることしか出来ないでいる。

「しょ、……勝者、みょうじなまえ!!!」

 磯野の声に杏子や舞達からワッと声が上がった。
「勝ちやがった、アイツ…… あの状況で」
 戦々恐々とした城之内が、なまえとブラック・マジシャンの新たなる姿、《黒魔導の執行官ブラック・エクスキューショナー》を見上げる。
 海馬もやっとなまえから目を離し、一度俯いてから短く鼻で笑った。

 ゴツ、という鉄床を踏む音のあと、意を決したようになまえの靴が何度もその音を刻んだ。次第に近付く足音の振動を背中に感じながらも、リシドは天に輝く月を見るばかりで起き上がろうとさえしない。その視界の一番下に月に照らされた赤い髪が入り込んでも、その視線は一向に動かなかった。
 立ち止まったなまえに、やっとリシドは目を閉じて口を開く。

「お前と闘えたこと、誇りに思う」
「……」
「約束だ…… 千年秤も、返そう」
 手を伸ばしたリシドに、なまえは決して膝をつかなかった。ただ少しだけ腰を屈めるだけで千年秤を受け取ると、ほんの数時間手放していただけのそれが、ずっと何年も忘れていたかのように酷く重く腕にのし掛かる。
 チラリと煌くウジャド眼を見て、糸で手繰られるようにその光源たる月を見上げた。

「リシド……!」

 張り詰めた声に振り返れば、降下を始めたフィールドによじ登ってまで駆け寄ってきたイシズがなまえを横切ってリシドに膝をつく。その姿にノイズが走り、小さく息を吸い損ねたなまえが半歩ほど後退した。
「……ッ」
 そっと片手で顔を覆う。もう汗もため息すらも出ない。

「ヤツがマリクじゃねぇなら、本物は一体……」
 そう呟いた城之内に、遊戯はもう目星のついていた先へ振り返る。しかし、その人物は既にそこから消えていた。
「……あ!!!」

 遊戯の声に顔を上げれば、倒れたリシドの頭上に立つ“ナム”……いや、マリクの姿。その手には本物の千年ロッドが携えられ、イシズが咄嗟に手を伸ばす。
「!!!」
「マリク!」
 マリクもまた頭を抱えていた。僅かなノイズがたちまち大きな流れとなり、次第に蝕んでいく。
「う、……うう、ぐぅ!」

 ブルブルと震える肩が、千年ロッドを振り上げた。瞬時に千年秤を構えるが、次の瞬間には背中に激痛が走る。
「あぐ……!!!」
「アアッ!!!」
 鉄床に千年秤が落ちる音は盛大に響いた。千年ロッドに弾き飛ばされたのはなまえだけではない。痛みに耐えて起き上がれば、少し離れたところにイシズも倒れている。

「なまえ! イシズさん!」
「マリク、貴様!!!」
 フィールドに登ってきた杏子や城之内がなまえとイシズを起こし、遊戯が間に割り入った。

「マリク、様……」
 朦朧と伸ばされた手は、あの儀式へ連れて行かれるマリクに伸ばすことの出来なかった手。見開いているのは、あのとき閉ざした目蓋。だがそんな哀れみに満ちた顔が見たものは、もう本当のマリクの姿ではなかった。
「お前の役目は終わった。リシド……」
 バキ、と鈍い何かが折れた音のあと、リシドは完全に沈黙した。それを目の前に、杏子に介抱されていたイシズが息を飲み両手で口を覆う。
「い、いけない、マリク……! あの人格を目覚めさせてはだめ!!!」
「(あの人格……?!)」
 たったひとつの言葉にはっとしたのは遊戯となまえだけ。

「……ッ、あ」
 杏子に肩を支えられて起き上がっていたイシズは、遊戯の向こうに立つ変わり果てた弟の姿を見て息が止まりかけた。突然震え出したイシズに、杏子が覗き込む。その顔は見るからに混乱寸前で血の気が引いた蒼白で、ただ一点を見つめた瞳が浅い息をするたびに揺れている。
「イシズさん、大丈夫?」
 その声に、同じように舞に支えられて起き上がっていたなまえが顔を向けた。頭が理解するより先に、ハッとして千年秤を握りなおす。
「ちょっとなまえ?!」
 次に振り返ったのは遊戯だった。だがその視線がとらえようとした先に彼女の姿はない。もっと手前で、遊戯の首は止められる。
「……なまえ」

 名前を呼ばれて、少しだけ千年秤を握る手から力が抜けた。遊戯がいま呼んだ名前は、私のもの。だから顔を向けなきゃ。そう思って顔を上げた前髪の向こう側、遊戯は心底驚いたような顔をしている。
「……『───』」
 小さく息を漏らしかけたところで、さらに深い深淵から響く笑い声が降りかかった。なまえも遊戯も、すぐにそちらへ気を取られる。天を仰ぐマリクが意識を失ったリシドを跨ぎ、よろめきながら遊戯達の方へ歩み寄って行く。
 その道中とも言うべきか、マリクはリシドの腰から抜け落ちていた偽物の千年ロッドを踏み付けると、いともたやすくその首が折れて転がる。
 マリクの髪は風で大きく掻き上げられていく。時に悶え苦しみ、時に笑いながら、マリクは顔を上げて本物の千年ロッドを掲げた。

「あれが本物の千年ロッド……! ヤツが本物のマリク!!!」
 遊戯が身構える。明らかについさっきまでのマリクとは様子が違う。何より、その額に輝いているウジャド眼は、千年アイテムの紋章。

「フ、フフフ…… ハハハハ! やっと出てこられた」

 アッと口を塞いだイシズに、マリクの眼球がドロリと動いて射抜く。
「ヨォ姉様…… 随分と久しぶりだなァ」
「あ、…… く……」
 怯えながらも口を噤み、イシズは無意識のうちに自分の鎖骨へ手を伸ばす。だがそこにもう千年タウクはない。一瞬ハッとして視線を下に向けたあと、すぐに闇の人格と入れ替わった弟の体を睨み返した。
 それを鼻で笑うと、マリクはもう一度背中を向けてリシドを見下ろす。そして靴の爪先で、忌々しいとでもいうようにその顔に刻まれた刻印を小突いてから踏みつけた。
「リシド……!!!」
「姉様、また会えて嬉しいよ。コイツがいると、俺は表に出てこられないからなぁ」
 踏みつけるだけ踏みつけて満足したのか、マリクは再び遊戯たちに向き直る。その足元に横たわったまま目を開けないリシドに胸が酷くざわめいたのはイシズだけではない。……なまえも、言いしえぬ不快感に喉が締められた。
「表だと……?」
 やっとそのマリクに声をあげたのは遊戯だった。歪んだ笑みを浮かべれば、マリクは思い出を振り返るようにまた天を仰ぐ。
「もう1人のマリクは大人しい性格でね。ヤツは闇を恐れている…… だが、俺は闇が大好きでね」
「彼も千年アイテムによって、マリクの体に生まれた闇の人格……」
 見定めるように目を細めたなまえに冷たい汗が流れる。
「まぁどいつもコイツも、俺にとっちゃ影の存在だ。とくにこの男には消えてもらわないと、俺は表に出てくることさえできない。……女ァ、礼を言うぜ。お陰でこうして出てこられたんだからなァ」
「……」
 食いしばった歯に骨が軋む。なまえの中で、なまえ自身が完全に3分割されていた。咄嗟に遊戯の隣に立った自分と、マリクという真の強敵に挑もうとした自分と、そして、リシドという男が目を覚さない事に震える自分。それぞれがそれぞれに拮抗し、感情がジェットコースターのように激しく揺れる。それを必死に糾して、なまえはあくまで「自分自身、元々のみょうじなまえという私」を表面に保つ。

「だが残念だったなァ、今のデュエルで貰えるはずだったゴッドカード……コイツの持つ《ラーの翼神竜》は偽物だ。本物は俺が持っている。……フフフ、ハハハハ」
「(……やっぱり、か)」
 大して落胆も驚きもしないのはなまえだけではない。遊戯も海馬も、本物のマリクが別にいた時点で察してはいた。

「まあコピーでも、その女になら扱えるかもなぁ。神のカードを操ることができるのは、千年アイテムと何らかの関わりを持つ者のみ。……なぁ海馬?」
「下らん。俺はオカルトグッズに何の興味もない。神のカード……《オベリスクの巨神兵》は、すでに俺の操るしもべだ」
 腕を組んだまま淡々と返す海馬に、マリクは口端を上げる。
「フフ…… そうかな? 海馬、キサマも気付いてないうちに、三千年の記憶に操られてるのかもな。そこの女のように」

「……ッ」
「(海馬が…… まさか)」
 千年秤を握った手が震える。その横で、遊戯は背中に海馬の視線を感じながら、あの石版に描かれた神官と、王妃の姿を思い出していた。

「まぁいい、……いずれ答えは出るだろうさ。遊戯、いよいよ本当のミレニアムバトルの始まりだ。我々はこれより真の闇に向かう。……もう誰1人戻れない。フフフ…… ハハハハハハ!!!」


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