「…ん」
 なまえはボンヤリと目を開く。足先に過ぎ去る空気が触れる浮遊感と、背中と膝の裏に伸びる腕、そして身体の半身に感じる暖かさを覚えて、やっと自分が誰かに抱かれて運ばれている事に気が付く。
「…!」

 ハッと目を覚ますと、見覚えのある青いコートに抱かれていた。
「…目が覚めたか。」
「…!!!! か、かぃ…海馬!!!」
 顔を上げるとすぐ上に海馬がこちらを見下ろしている。

 …あのあと、気を失った彼女をペガサス自身が抱き上げようとしたのを、海馬は引き留めて頑として触らせなかった。海馬自身もなぜ自分がそこまで なまえを他の男が触れる事に強い反発意識を持ったのかはまだ理解できていなかったが、事実嫌なものは嫌だったので、彼女を運ぶ役目を負ったのだった。

 なまえは千年秤を握ったまま今海馬の腕に包まれ、その肩と胸板に頭をもたれていた。
「は!!!離し…ぎゃうっ」
「離して」と言い終わる前に海馬はその腕を離した。無論なまえは海馬の足元に無様に背中から落ちる。…想像以上に高さがあり、辺な声が口から出た事が、痛みより恥ずかしさが勝り、なまえは顔を覆うしかなかった。
「な、…何するのよ…。」
 なまえはちょっと涙を滲ませた目で海馬を睨みながら、強く打ち付けた腰を摩って立ち上がる。

 海馬は何か言ってやりたかったが、何故自分がなまえを抱き上げて運んでいたかの説明をするにはどこか気恥ずかしかった。彼女が目を覚ました事で、海馬自身 急に心臓が高鳴って少し目を逸らしてしまった。

 海馬が目を逸らすのを、なまえは別の意味で捉えていた。自分が千年秤を握り締めたまま気を失っていた事と、地下から抜けて別の場所に移動している事。…そしてモクバとペガサスが居ない事に 悪い方へ物事が進んでいると察したのだ。

「…モクバ君は、どうしたの」
 海馬はやっとなまえと目を合わせた。
 …最悪の状態であるというのに、2人は目が合うとまた鼓動が早くなるのを感じ、本能や理性を越えて互いに惹かれ合っている事を自覚しつつあった。

「…モクバはペガサスに囚われたままだ。俺はこれから、遊戯にデュエルを挑む。」

 …現に海馬は、なまえへの心象がだいぶ変わりつつあった。もし彼女を闘う相手と見ていたら、きっとこれらの経緯(いきさつ)は話さなかっただろう。だが、今の海馬にとってなまえは闘う相手ではなく、1人の女性としての意識が芽生えていたのだ。だからこそ自分の状況や弱みに繋がりかねない事も口に出てしまった。

 それを海馬自身も解っていた。まだ大して交友関係があるわけでもなく、仲間でもない彼女に どうしてこんなにも心が騒めくのか。
 意識のないなまえを抱き上げた時、心の底から彼女を守りたいという気持ちを自覚してしまった。…それはモクバとは違う、支配欲にも似た感情だった。海馬は、本当は既にこの気持ちがどういったものなのか、察しのついた事だった。

 それでも目を覚まして自分に向かい合うなまえに、そんな感情を見せるわけにはいかなかった。海馬自身のプライドがあったのだ。

 それは奇しくも、なまえも同じであった。自分のプライドが海馬への恋心から目を逸らさせ、気持ちに蓋をしている。

 この海馬とは、このなまえとは、
 自分の気持ちにどれだけ目を逸らす事ができるか。
 相手に自分の気持ちをどれだけ隠し通せるか。
 そんな心理の読み合いや我慢比べをする相手。気恥ずかしさやプライドがお互いをそうさせていた。

「遊戯と闘うですって…?」
「俺がペガサスと闘う条件は、遊戯と闘い、ヤツに勝つ事だ。遊戯に勝てなければ、俺にモクバを取り戻す事は出来ない。」

「(遊戯と闘うなんて…!海馬に対するペガサスのこの仕打ち、絶対に許さない…!…でも海馬、どうして私を責めないの。私は何の力にもなれなかった。…次こそは どうかせめて、海馬の魂だけでも、私は守って見せる!)」

「(なまえ。前にお前へ言った言葉、あれは撤回してやろう…。お前は今 自分自身の闘う理由を見つけた目をしている。…だがそれでも、俺はお前と闘う気にはなれん。何故だ…。闘う事ではない、違う理由でお前には昂りを感じる! )」

 2人とも心の中で激しく感情がせめぎ合っているのに、仮面を被ったように冷静な顔で淡々としている。
 他人として見るなれば、これほど若さゆえの初々しい滑稽な事はないだろう。だが当の本人達からしてみれば、生まれて初めてのこの感情に戸惑いを隠せず、こうして水面下での自分と相手の戦いになっていたのは仕方のない事だったのかもしれない。

 2人がお互いに素直に向き合う事は、互いに自分自身に素直に向き合う事。海馬となまえは鏡合わせのように同じ心境だった。

 この2人が素直に向き合うのは、まだ時間が掛かりそうである…。

「俺は遊戯の元へ行く。」
「…止めた所で無駄でしょうね。…私も行くわ。」

 海馬は内心安堵したが、なぜ安心感を持ったのか自問していまい、苦し紛れに鼻で笑って誤魔化す。そしてなまえを横切ってさっさと城の出口へと向かった。
 なまえはそんな海馬の心境につゆほども気付かず、ただ嫌味ったらしく鼻で笑ったんだろうと考えて、手にしていた千年秤を腰のベルトに差して海馬の背後に着いて歩みを進めた。

 ***

 暫くして城の出口に着くが、そこには黒服の男達が待ち構えていた。男達はなまえを取り囲む。
「クイーンを城から出すなという命令です。」
 なまえが舌打ちをすると、男がなまえの腕を捕まえようと腕を伸ばした。だが海馬が逆にその男の腕を掴むと締め上げる。
「なまえに触れるな、ゲスども。」
 なまえは確かに海馬のそんな発言を耳にしてドキリとする。だが海馬は黒服の男の腕を放すと、今度はなまえの背中を押して遠ざけた。

「此処からは俺1人で行く。お前が来れば、遊戯にいらん事を言いかねないからな。」
「な、なんですって」
 なまえが振り返って突っかかる前に、海馬はもう背中を向けていた。

「開けろ。」
 海馬は門を開けさせて出て行く。
「待って海馬!…海馬!」
 追いかけようとしたなまえを黒服の男達が引き留め、扉はすぐに閉められてしまった。

 ***

 遊戯達一行は階段を上り切ろうとしていた。
 だが城門の前に立ち塞がる見慣れた姿を目にして一度立ち止まる。

「あ…!」
 遊戯は海馬の姿を確認する。海馬も遊戯を見下ろしていた。
「(遊戯…やはりスターチップ10個を獲得してきたか。流石だ。)」

「海馬くん!」
「遊戯!ここから先は通れない。」

 海馬の闘志を感じた遊戯は、闘いの気配に心がざわめいた。
「どうしたの海馬くん、どういうこと?」
 海馬の張り付いたような冷静な顔は頑として崩れず、ただ遊戯を見ていた。…ここになまえが居てくれたならば、という淡い望みを胸に抱えて。

「俺はこの島で、己の運命を悟った。遊戯、…俺にとって貴様の存在は、決して追い風にはならない。俺たちが対峙する場には闘いの風が渦巻く。…永遠に!」

 なまえがここに居ない以上、海馬は遊戯達一行にとって悪役となるしかなかった。それは今何としてでも遊戯に闘わせるための策略である。しかし一方で、口にしているのは本心であった。

「海馬ァー!てめぇは俺が相手だ!今度こそブチのめす!」
 海馬はしゃしゃり出てくる城之内を鼻で笑って一蹴する。

「フン、まさかそこの負け犬もスターチップを10個集めたとは…。負け犬から馬の骨に昇格してやる。」
「ンだと〜〜〜!!!」
 荒ぶる城之内を 本田と獏良が取り押さえる。それを海馬は既に横目にしか入れなかった。ただ1人 遊戯を真っ直ぐ見据えて。

「俺はアレからずっと1つの答えを探し求めていた。なぜ俺が遊戯とのデュエルに負けたのか… あの時、遊戯はなぜ奇跡を呼び起こせたのかを。そして朧げながらも答えを見つけ出した。あの時、遊戯にあって 俺に無かったものが…。」

 海馬はペンダントに手を伸ばすと、それを開けて幼い頃のモクバの写真を見つめる。
「(人は、守らねばならぬものを背負った時、強くなれるのか。その問いの答えを確信する方法は、このデュエルに勝つ以外ないのだ。)」

 海馬はペンダントから顔を上げて遊戯に向き直った。その瞳には闘志が燃え上がり、遊戯もそれを感じて目を反くことが出来なかった。

「遊戯!城に入りたくば俺を倒せ!これは宿命のデュエルだ!」

 遊戯はその海馬の気迫に押されていた。だがここで足を引くのはお互いのデュエリストの魂に背くことである事も理解していた。
「(今僕の前にいる海馬くんは、昔の海馬くんとは違う!その目には何か秘めている!)」

「遊戯、貴様にはわかるはずた。心に沸き立つデュエリストの血が、俺たちを再び巡り合わせた事を!」
 海馬の言葉に、遊戯は心の底から地鳴りのように昂ぶるものを感じた。それは闇の人格の遊戯への人格交代によって現れる。

「海馬!わかったぜ。このデュエル受けて立つ。そしてお前を倒す!」

 ***

 なまえは城に戻されたが、大人しく部屋に戻るつもりはなく どこか海馬と遊戯のデュエルが見える場所を探して足を進めていた。

 海馬は何と言って遊戯とデュエルするつもりなのだろうか。…私が一緒に行けたならば、せめて海馬1人に重荷を負わせたデュエルのやり方にはならなかっただろう。そう考えながら、ただ目の前の不安感に目を閉ざした。

 遊戯の周りには仲間がいる。外野の声に気持ちが煽られる海馬ではないだろうが、恐らくモクバの事情などは一切口にせず闘うだろう。

 なまえは急に、海馬はいつも寂しい立場にある事に気付いてしまった。
 だが同時に、それを知って私に何が出来るのかと思う。それを哀れむ事が、海馬にとっての屈辱である事を理解している。
 どうする事も出来ないどんよりとした気持ちを胸に、足を止めて窓から見える外の景色を眺めた。

「…海馬、瀬人…。」
 名前を呼ぶだけで顔が火照るのを感じる。なぜか眉間のあたりが甘痒く、ツンと痛む。自然と下の瞼がせりあがって視界を狭くする。

 どうしてか、泣きたい気持ちになるのだ。

「…セト…」
 口から小さく呟くその声は、まるで自分ではない誰かの物のように感じた。
 冷たい風がなまえの赤い髪を外に向かって放り出させる。
 目から涙が溢れる前に、なまえはそこから離れて、また目の前に続く長い廊下を進んで行った。


- 28 -

*前次#


back top