「!」
 バクラはとっさに一歩引いた。野生の勘ともいえるものだろうか…本能的になまえの纏う空気が変わったのを察知したのだ。

「『闇を従えし者よ、お前はなぜまた呼び起こされた。』」


 なまえは真っ白くとけた意識の中で、確かにその声を聞いていた。完全に肉体の感覚が無い。それでも光に溶ける自分のくすんだ赤い髪が視界にある。

 そして確かに向き合ったその陰は、同じ色の目をしていた。


「おい、…なまえ?」
 本田は一歩ずつ前に進むなまえの背中に問い掛けた。あきらかに様子がおかしい。
「(今のなまえと獏良に何を言っても無駄か…2人とも、その千年なんとかってのに操られてんだな…?)」

「『千年リングに宿りし悪しき魂よ、いまはその剣を収めるがいい。自らを知るその時まで。』」
「てめぇは…なんだ」

 獏良が怯んだ隙を本田は見逃さなかった。なまえの手から千年秤を奪うなり、その支腕の底で獏良の首を打ったのだ。
「うわ───…!」
 肉体の倒れる確かな重音のあと、千年リングのにぶい金属音が響く。その鉤は方々に散らばり、もう不気味な音を立てることはなかった。
「許せ、獏良…」

「───…ッ、わたし…」
 突然体が重く感じ、なまえは膝をついて座り込んだ。意識が戻ると同時に現実の重さがやってきて、おそろしく背中を震わせる。

「お、オイ、大丈夫かよ…」
 本田もモクバを気にしながらではあるが膝をついてなまえの顔を覗き込んだ。顔色は悪いが、いつもの瞳の色に本田は安心したように息をつく。
「驚いたぜ、お前まで操られてよぉ…」
 そう言うと、本田はチラリと獏良の千年リングを見た。モクバをなまえの横に下ろすので、なまえは咄嗟にその小さな身体を支えて預かる。

「コイツのせいか…」
 本田が千年リングを拾い上げると、なまえはその瞬間に起きた思いも寄らない本田の行動に呆然とするしかなかった。

 断崖の下に広がる森の中へ、本田が千年リングを遠くに投げ捨てたのだ。

「…!??」

 フッと満足そうに鼻で笑って戻ってくる本田に、脇腹の痛みよりも頭が痛く感じる。傷口の痛みを堪えながら、なまえは胸の中にバテルを呼びかけて、彼に千年リングを探させに行かせた。

 当の本田は獏良を肩に担いでから、モクバを片腕で抱き上げる。
「なぁオイ、一人で歩けるか?遊戯達のところへ戻ろうぜ。」
 膝をついて脇腹を押さえるなまえの事も案じるが、流石に3人は本田でも担げない。しかしなまえも、ジャケットでキツく縛り上げているとは言え、完全な止血はしていない…。正直なところ、痛みを堪えて平気そうな顔をするのだけで精一杯だった。

「大丈夫よ…、私は海馬を探すから、本田は2人を連れて先にもどって。」
「待てよ!流石にそりゃあ無茶しすぎだぜ。」
 それでもなまえは首を振って、千年秤を持って立ち上がった。腹に縛り上げたジャケットの裾を捲っていつものようにベルトへ千年秤を差し、必死にいつもの様に振る舞う。

「大丈夫。血はもう止まってるし、掠っただけだから大した怪我でもないわ。」
 どうしても、海馬を取り戻したかった。自分が負けさえしなければ、こんな事にはならなかったのだから。

「早く行って。私は海馬を見つけるまで、絶対に戻るつもりなんて無いわ。」
「…なぁ、オメェなんで海馬のヤツをそんなに庇うんだ? …好きなのか?」

「は?」

 ドプ…と脇腹に熱いものを感じた。心臓が飛び跳ねたせいで、血圧が上がったのだろう。しかし、なまえはそれどころじゃない。

「な、なんでそうなるの…よ!そんなわけないでしょ?!」
 平静を装っているものの語尾が強くなる。純粋に気になると言う面持ちだった本田も、流石に「ははーん」みたいな顔をして口角を上げた。

「今はそれどころじゃないっていうか…!とにかく、私は大丈夫だから!はやく戻りなさいよ!せっかく取り戻したモクバ君をまた奪い返されたらシャレにもなんないわ!」
 なまえは不自然に縛ったジャケットの袖を握っては離したりしてから、やっと顔を背ける。そのまま背中を向けて階段を下りて行くと、もう本田に言葉を返す素振りすら見せなかった。


- 98 -

*前次#


back top