───『兄様、兄様!!! 姉様が!!!』
 扉の向こう、遠く聞こえたミハエルの声に部屋を飛び出したトーマスは、5脚揃っていたティーカップの1つを割ってしまった。
『オイ!!! なまえがどうし───』
 だがその時はそんなことにも気付かないで、クリスより先に階段を駆け上がったトーマスが、廊下で小さくうずくまるミハエルの背中を見つける。
『どうした、なにがあっ……!!』
 ミハエルが大泣きしながら膝をついて抱きしめる人物を見て息を飲む。ワンテンポ遅れてやってきたクリスも、呆然と立ち尽くすトーマスの背中から飛び出てくれば、トーマスと同じようにその光景に目を見開いた。
 開け放たれたドアの前、カーペットの毛足に残る壁つたいに引き摺られた跡。その先で、嗚咽に揺れるミハエルの肩から、息を求めて出てきたその顔に、トーマスとクリスも言葉ひとつ出てこない。
『……クリス、兄さま? ……トーマス?』
 次には3人がかりで抱きしめられたなまえの困惑した悲鳴が上がった。───

 \を、なまえを見つめ続けるだけの半生だった。何もできはしなかった。……見つめることすらできない時間さえあった。そしてやっと戻ってきた家で待っていたのは、父の失踪の真実と、眠ったままのなまえ。
 生命維持装置に繋がれて横たわる\を、Wは2年もの間世話し続けた。何度医者から生命維持装置を外すことを勧められようと、それに頷く兄弟はいなかった。
 ……あのまま目覚めなければ、彼女をずっと自分のお人形にしていられた。

 ───『ゆっくり飲みなさい』
 支えがなければ座ってることすらできないなまえを、トーマスが背後から抱きかかえてソファに座らせて、クリスの差し出したホットミルクのカップをなまえの手の上から包むように持ってやった。
 冷たい指が暖かいカップと自分の手の間に挟まれて、段々と温もりを取り戻していく。
『飲めるか? ちょっと待て、……』
 なまえの肩から顔を出して、カップの中身に息を吹きかけてやっていれば、、なまえが少し警戒した面持ちで眺めていた。
『あ、の、……トーマス? と、ミハエル? ……だよ、ね?』
 いまさらになって訝しむなまえに、『ハァ??!』と大声を上げたトーマスが顔を顰める。ミハエルもどこかショックを受けたような顔をしたが、ミハエルのその頭にはすぐクリスの手が乗せられた。
『2人と最後に会ってから4年近く経っているんだ、無理もない』
 静かに目を伏せ、ミハエルの頭を撫でるクリス。ミハエルに視線を落とせば、変わらない笑顔をなまえに向けた。
 なまえが最後に2人を見たのは、確か12歳の頃。施設でトーマスとミハエルと引き離されたのが、最後。あの時掴んでいたなまえの腕を思い出しながら、トーマスは筋力のなくなった今のなまえの細腕を見つめる。
『4年、……? わたし、どうして……』
 その言葉に3人がハッとして顔を見合わせた。不穏な気配になまえも口を噤み、クリスやミハエルを覗く。
『───カイトは?』
『アイツの事は忘れろ』
 ギュ、とカップごと手を握られたなまえが思わず振り返る。自分がそんなに怖い顔をしていたのか、なまえが困った顔でクリスを見上げれば、クリスもまた怖い顔をしていた。
『……!』
 怯えたようななまえにクリスも何か言葉を飲み込んで、なまえの前に膝をついて、肩に手をやった。
『なまえ、今は体の調子を戻すことに専念しよう。君に何があったかは、これからゆっくり話せばいい』
『兄様、……』
『そうだ、姉様、まずは髪、切りましょう。僕、近くの美容室に時間が空いてないか聞いてきます』
『え、でも……』
 歩けない、と言いかけたところでトーマスが遮る。
『俺が連れてってやるから。ミハエル、男の美容師は駄目だからな!』
『はいはい』
 パタパタと部屋を出て行くミハエルを見送り、立ち上がったクリスを目で追うと、今度は背後からトーマスの手が伸びてきて、なまえの長い前髪をかき分けた。
『ったく、心配させやがって。風呂にもいれねぇとだが、まだひとりで入れそうにねぇしな……』
 ぶつぶつ言いながら、人形遊びでもするかのようになまえの伸びっぱなしの髪を分けたり、耳にかけたり。まるで品定めでもされてるくらいの気持ちになって、なまえはムッと唇を尖らせる。
『なによ。お風呂なら一緒に入ってたじゃない』
『バッ……!!! て、てめ、いつの話を……!!!』
『は? ……え、』
『なまえ、忘れていたが…… 君とトーマスはもう16歳。ミハエルは14歳、私は19歳になっている。ホームヘルパーの看護婦が来るから、その時にお願いしよう』
 一瞬、自分に向けられた視線の、戸惑いの中に見えた揺らぎが、カイトに向けていたものだとトーマスは淡い期待すら抱いた。
『16、歳? 私と、トーマスが?』
『……』
 途端に気恥ずかしくなったトーマスが手を離してソファから立ち上がる。カップを支えきれなくなったなまえの手からミルクが溢れるのは、それとほぼ同時だった。

 服を揃えて、伸びきった髪を整えて、リハビリや筋トレ、食事療法、あらゆることにトーマスは時間を割いた。おそらく1番生き生きしていた。だが不思議と、なまえが自分で歩けるようになって、遅れていた勉強も取り戻していくうちに、また大きな不安が押し寄せる。
 カイトの名前を出せない空気の中で、ぬるま湯に浸けて、なまえを甘やかす日々。それになまえが耐えられるはずもなかった。

『カイトに会いたい、カイトはどこにいるの? どうして私に会いにこないの』
 溜め込んでいた鬱憤を破裂させてぐすぐすと泣きじゃくるなまえに、クリスは動揺するが、毅然とした態度でなまえを諭す。
『カイトはもう君に会えない、……いや、会わせるわけにはいかない。私たちを許してくれ。君のためなんだ』
『どうして?! クリス兄様、兄様は、私とカイトのこと、取り持ってくださったじゃない。どうして、そんな……』
『君が2年ものあいだ眠っていたのは、カイトが原因なんだ! ……カイトと君がデュエルをして、君は負けた。そしてカイトは、君を殺しかけた』
『嘘、嘘!!! カイトは私にそんなこと……』

 廊下でそれを聞いていた。クリスにしか本音をぶつけないなまえに苛立ちながら、そんな関係にまで堕ちてしまった空白の時間に虚無を抱えながら。
『嘘じゃねえ』
 堪らず乗り込んだ部屋で2人の驚いた顔を見た時点で後悔する余地などない。クリスが目でトーマスを諌めるが、トーマスは構わずなまえの肩を掴む。
 カイト、お前にはわからない。一生かけても、俺の気持ちなんか。
『カイトはテメェを、俺たちを裏切った。父さんが行方不明になったのも、なまえがあんな目に合ったのも、……全て、カイトの親父、Dr.フェイカーの仕組んだことだった』
『カイトの、お父さま、が?』
『カイトがお前に近付いたのは、あの腕輪が欲しかったからだ! フェイカーはずっとお前の腕輪を狙ってた。カイトは、フェイカーの命令でお前と恋人ゴッコをしてたんだよ』
『……なに、言って、』
『トーマス、もうやめなさい』
 膝から崩れ落ちたなまえに合わせて、トーマスも膝を折った。
『なまえは俺たちの家族だ。知る権利がある。自分に起きたこともな』
 呆然とするなまえの顔を包み、真っ直ぐに見つめる。
 追い詰める気が無かったと言えば嘘だ。だけど俺たちが受け止めた事のあらましを知るべきだと思ったのは本当で、それが真実だったかどうかまでは、考えの中にさえなかった。
『お前が眠っていた原因は、フェイカーに実験モルモットにされたからだ。カイトはお前が親父からモルモットにされるのを黙って見てただけじゃねえ、お前に止めを刺したのもカイトだ。あの腕輪を手に入れて、婚約したお前が邪魔になったんだよ!』
『トーマス!』
 クリスがなまえの耳を塞いで抱きしめた。真っ青な顔で震えるなまえの腕をなお掴んだまま引き寄せて、トーマスは口を開ける。

『なまえ、アイツはお前のこと───』

 パン、と渇いた音が部屋中に響き渡った。クリスの平手打ちがトーマスの頬を跳ね、ほんの一瞬の静寂のあと、クリスが弟に上げてしまった手を握り、震えそうな声を飲んで静かに口を開く。
『もういい、もうやめなさい。なまえは充分に苦しんだ。お前がそれ以上追い討ちをかけてどうする』
『……』
『……カイトは、私が、邪魔だった?』
 ぽつりと呟いたなまえの顔を、クリスは覗くことができない。トーマスも俯いたままで微動だにしない。
『カイトが、私を、愛してなかっ……!」
 堪えきれず涙が溢れ、声にならない嗚咽が喉を締める。なまえは思わず手で口を塞ぎ、床に頭を擦り付けるほどうずくまる。
『あ、……ああああ!!!』
 ひどい声が喉を引き裂く。嘘だ、嘘だと叫ぶ声もすべて悲鳴になり、涙が止まらない。
 騒ぎを聞きつけたミハエルが目を丸くして飛び込んでくれば、3人が方々を向いたまま動きもせず、ただなまえだけが床に伏せって大泣きしているという惨事が広がっていた。
 どうしていいかわからずただ見ているだけだったが、ミハエルは、なまえがカイトの事を知ったのだと察して「姉様、」と呟く。
 どうしようもない修羅場に、トーマスはなまえを無理矢理起こして抱きしめた。嫌がるなまえの力など、トーマスには及ばない。それでも抵抗をし続けるあまり、なまえが次第に過呼吸を起こしかけて体が強張るのを、トーマスは腕の中で感じた。
 そしてなまえの顔を掴み、クリスやミハエルが声を上げる間もなく、トーマスはなまえの唇に自分のを押し当てる。
『……!』
『に、兄様……!』
 トーマスはなまえの吐く息を甘んじて飲み込み、なまえもトーマスの肺から漏れる息を吸い込む。唇が触れたり触れなかったりする距離でなまえの混乱を落ち着かせると、トーマスはそのまま目を閉じ、改めてキスをした。
 少しだけ唇を離せば、すぐ目の前に真っ直ぐ射抜くなまえの瞳がある。
『ト、───』

『俺が愛してやる』

 崩れ落ちたまま力の入らないなまえの体をしっかりと抱き締めて、トーマスは片手で涙を拭ってやった。
『トーマス』
 どこか諌めるようなクリスの声にも、トーマスは素知らぬ顔で「兄貴は黙ってろ」と言い放ち一蹴する。
 まだ麻痺する気管にしゃくり上げるなまえに、トーマスは問答無用とばかりに捲し立てた。
『俺はあんな奴が出しゃばってくる前から、お前が好きだったんだ。父さんが居なくても、兄妹って事になってるのは俺がどうにかする。なまえ、俺たちとお前が家族になる方法はひとつじゃねえ。……いや、本当はこれが正しい道だったんだ』
 どこか虚空さえ垂れ込むなまえの瞳の奥に大きな不安を感じながらも、トーマスは本心のままの言葉を変えることはできなかった。ずっと抱え込んでいたこと、ずっと思っていたこと。たとえ兄や弟の前でも構わない。昔、カイトが俺たち兄弟の前で“そうしたように”、トーマスはなまえの手を握って跪く。
『俺のものになれ。一からやり直そう』
 もう一度迫る唇に、なまえはトーマスの胸を押して拒んだ。
 解放されてすぐになまえはよろけながらも立ち上がり、転びかけたところをクリスに支えられたが、思わずその手を振り払ってしまう。
『あ、……』
 ごめんなさい、と言葉にならない声を上げ青ざめるなまえに、クリスはどんな顔をしていいか悩めば、その間にもなまえはふらつく足を必死に奮い立たせてその部屋から飛び出した。
 ミハエルを横切る直前にも怯えた顔をミハエルに見せる。そして自分の部屋へと逃げて行くなまえの背中を、3人は見送るしかできない。

 暫くして、階段の奥から扉の閉まる音がする。そこでやっとクリスとミハエルが、トーマスを見下ろした。
『……ッ なんだよ』
『トーマス、……いや、何も言うまい』
『……』
『言いたい事があるなら言えよ、ミハエル!』
『いいえ、なにも』
『チッ』



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