Bernadette
 あの人に出会ったのは美しい泉のほとり。

 全身が真っ黒で、陰のような人だった。獣みたいに神経を張り詰めていて、「誰のことも寄せ付けないぞ」という目をしていたけれど、……それが傷付いた心だからなんだって、私にはすぐわかった。


 美しい泉のほとり。色とりどりの油絵に真っ黒な絵具が落ちてたら、誰だってそこに目が行くと思わない?
 カラスだってこんなに黒くない。

 私は朝露を裸足で蹴り飛ばしながら、その真っ黒な人の元へ駆け寄った。

「へへ、こんにちわ」

 笑顔で挨拶したってその人は顔を顰めて申し訳程度の会釈をするだけ。でも嫌そうな顔をする割に、私が来ると知っていて尚この人は泉に足を運んでくれていた。
 私にはそれが嬉しい。

「今日こそ名前を教えてください」

 無碍もなく断られたって挫けない。近付くことのできない境界線に足を少しでも踏み入れて、少しでも可愛い顔で笑って見せた。

 私が持っているものと言ったら、野良仕事で日に焼けた肌に、ソバカスの頬。カカシのワラの髪みたいな金髪と、なかなか太らない体。
 確かに美人とは程遠いだろうけど、自分の心だけはこの泉のようにキレイだと信じている。
 誰も信じてはくれないけれど、この泉は天使が水を飲みに来るからいつまでも清水が湧いているの。だから真っ黒な天使がこの泉に毎日やって来たって、何もおかしなことじゃない。

「あなたは天使なの? 悪魔なの?」

 まるでバレエの配役を聞くような軽い気持ちでそう聞けば、この人はまた眉毛と口を曲げる。それが面白くて、これが「バイバイ」の代わりの言葉になっていた。

「またね! カラスさん」

 私がここに来てこの人が居るとは限らない。それなのにこの人はいつも泉に来てくれた。
 あの人の心に住んでみたい。
 それはきっと素敵なこと。夜色をした暖かい翼に包まれて、星の数ほど用意された夢を見切れないまま眠りにつく。
 あああ!って思い切り叫んだって誰からも怒られない。感情に素直になったって誰も傷付かない。
 あなたの心に住むひとは、きっと幸せなひとね。



「どうですか先生、治る見込みのある患者は……」
「……」

 電流の流れる有刺鉄線と指も通せないほど目の細かい金網で厳重に囲われた“監獄”を前に、ブラック・ジャックは目を細める。

 民族間の内戦が続く某国の国境から、中立国側へ50キロ。民族浄化という血の洗濯ホロコーストを受けた難民を保護する救済団体から依頼を受けて来てみたものの、実情は想像以上に凄惨だった。

 男は年齢関係なく皆殺しにされ、年頃の娘は嬲り殺しにされ、老女は力尽きるまで墓掘りをさせられ、子供や若い健康体は海外のブローカーを通じて“部位ごと”に違法売買される。
 その中で最も惨憺たる状態におかれていたのは、人体実験や化学・細菌兵器の実験台にされた人たちだった。

「*%#××^=○??」
「あぁ、そうだね」
「”}*~•#*>〆」
「そうかい、……そうかい。」

 この収容所には重金属系毒素や鉱毒を打たれた患者たちが集められている。その中でも私はこのF002353番の女性が、一番心に残っていた。
 彼女を含めここの患者たちは、保護された時点でほとんど廃人になっている。かろうじて判るのは性別と大体の年齢程度。戸籍どころか名前すらわからないために、こうして番号で把握するしかないのだ。

 F002353番の彼女は、いつも柵のギリギリに横たわって水溜りに顔を浸していた。泥を噛み、両の目をギョロギョロと動かすのが彼女の限界らしい。異常に捻れた関節で四肢は曲がり、いつも左側の腰を下にしているせいかそこから化膿がはじまり、生きながらにして既に蛆虫が湧いている。

 ブラック・ジャックに出来ることは何一つなかった。

 強いていうなれば、彼女はブラック・ジャックを見つけると動かない体を震わせて喜んだ。言葉にも声にもならない吐息や叫びを上げながら、麻痺した顔の筋肉を精一杯動かして笑いかける。

 ブラック・ジャックは柵越しに膝をつき、彼女の声に相槌をうった。出来る限り患者に寄りそうために、ブラック・ジャックは滞在期間中をその水溜りの縁で過ごす。


 無力さと人間の傲慢さだけを延々と見せつけられて、ブラック・ジャックは疲弊した精神をトランクに詰める日がやってきた。
 結局、軽傷者や衰弱した人々に基本的な治療をしてやる以外、なにもしてやれなかった。
 有害金属や鉱毒を打たれた彼女たちは人体的に破壊されつくしている。手術で取り除けない病巣のために体にメスを入れるわけにもいかない。

「ひどく疲れた……」


「先生! ブラック・ジャック先生!」

 野営テントに駆け込んできたスタッフに驚いて振り返ると、目に涙を溜めて震えるその顔に全てを察した。


 ブラック・ジャックは体が勝手に走り出し、あの柵越しの水溜りへ駆け寄った。泥が跳ねるのも厭わずに膝をつくと、彼女は歪んだ体で天を仰ぎ、両の目を大きく見開いたまま事切れていた。

「───ッ!」
 金属の中毒症状だろうか顔には紫色の筋が走り、瞳は銀色に輝いていた。

「先生、帰りの便におくれます…… あとは我々が、彼女を丁重に埋葬しますので、」

「いえ」
 スタッフの申し出を断り立ち上がった。そして不自由な身体で天を仰ぐ姿勢を見せた彼女の最後の意思に、ブラック・ジャックは応えなくてはならないと直感したのだ。

「解剖用の手術台を用意してください。」

 震える手を見たスタッフが思わず目を逸らす。
「すぐに用意します」
 そう答えて走り去るのを背中で感じながらも、ブラック・ジャックはただジッと彼女を見つめた。
 きっとこの事は一生心に住み着くだろう。……だがそれでいい。この怒りと悲しみをもって、私は医者としての使命を果たす人生を、彼女と共に過ごせるのだから。



「帰っちゃうの?」

 今にも落ちてきそうな空の星を階段みたいに登っていってしまうあの人が見えた。バイバイもないし、名前も教えてくれないなんて。
 だけど、やっぱりあの人は真っ黒だけど天使だったんだなってわかった。だってお星さまに足をかけて、どんどん空へ登っていってしまうんだもの。

 いいなぁ、あそこで私も行きたい。
 あなたの暮らしている空で天使と遊びたい。このガラスの天井を砕いて、雲を引きちぎってドレスにしたい。月を髪飾りにして、太陽の指輪をするの。

 首が痛くなるくらい真上に行ってしまうから、この泉のほとりで寝転がることにしたわ。これなら首が痛くないよ。
 腕を広げて、あなたに手を伸ばすの。もしかしたら、あのキレイなお星さまのひとつでも落っことしてくれるかもしれないから。

「君も来るかい?」

 初めて掛けられた声に驚いた。カラスの翼を差し出された途端に、世界は全て銀色に変わっちゃう。
 魔法は存在したのね、ワクワクする心を抑えなきゃ。レディじゃないとガッカリさせちゃうかもしれないからね。


「私はブラック・ジャック。君の名前は?」

 なまえって呼んで!



「よく頑張ったね」

 開胸部を縫合した糸を切る鋏の音がテントに響いた。一歩ずつ歩み出した星の階段を、彼女はいたずらに転がして遊ぶ。

 今年一番の流星群が空に傷を付けた。


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