息をすることはこんなにも難しい
「裕也さん」
そう俺に呼びかけ、普段の弾けるような笑い方とはまるで違う妖艶に誘うような笑みを浮かべ、均等のとれた鍛え方をした腕を俺の首に巻き付ける。絡みつくような視線をふいに猫のように細めると、顔を傾け俺の唇へと近づーー
「裕也さーん!」
高尾に名前を呼ばれはっとして顔を上げる。なんども呼んだのに、と拗ねたように唇をとがらせる高尾に用でもあったのかと訪ねるが、おはようございます、宮地さんがいたから声かけただけっすよ。だなんて笑うから、いつものように後頭部をはたいた。
先日あの光景を見てから、このように無用心に意識を飛ばしてしまう事が増えた。内容が内容なだけに人にも相談など出来ず、更に己の中に貯めてしまうからだろうか、それとも俺は欲求不満なのだろうか、俺の頭の中の高尾は、緑間を弄り忙しなく笑い転げまくる高尾から、兄貴とキスをしていたあの高尾にすり代わりつつあった。
「んじゃ、また部活でぇ 」
ひらひらと手を振りながら学校へと翔けてゆく後ろ姿を見送る。今日は朝練がなかったためか、珍しく高尾の隣には緑間が居らず、そしてあの変な乗り物にも跨っていなかった。
遠ざかってゆく背中をぼんやり見つめながら歩いていると、いつの間にやら校門をくぐって自分の下駄箱の前にまでついていたようで、自分の意識の無さに改めて驚嘆する事になった。
『み や じ さ ん』桜の花弁のような唇から紡ぎ出される長年慣れ親しんだ我が名字は、当たり前に兄と同じである。全く同じのその名字を、高尾は俺を呼ぶ時に使うよりも、明らかに兄貴を呼ぶ時に使う方が多いだろう。二人共同じレギュラーだし、部活の時間が終わればさっさと帰ってしまう俺よりも、自主練まで一緒にしているとあらば、はるかに兄貴といる時間の方が格段に上だろうし、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。今までこれっぽっちも気にした事なんて無かったのに、高尾の俺と兄貴との差に何故だか胸の奥がもやもやと黒く渦巻いた。
最近、部活中気がつくと高尾の唇に目が行っている。この唇がいつも俺の名前を呼んでいるのかと、この唇と兄貴の唇は触れていたのかと、あれに触れるのが、俺の唇だったならばーー
「…大丈夫か宮地」
「っ…あ?」
前の席のクラスメイトの仙石に声をかけられやっと思考の沼から抜け出た。なんと驚く事に、先程まで受けていた授業は終了していて、今は既に業間休みらしい。
授業の内容なぞ全く頭に入ってきていなくて、というか何の授業だったのかさえ危うい。
心配そうに覗き込んでくる仙石に体調不良で早退する旨を伝え、ひとつ溜め息を溢れし、ろくに使わなかった勉強道具を乱雑に鞄に詰め込んで教室を出た。
「あっれ、宮地さん」
…このタイミングでかよ。最近俺の脳内を占めてやまない人物の声が背中にかかる。恐らく移動教室中だったのだろう、緑間と一緒に筆記用具と教科書を持った高尾が振り返ればそこにいた。
「どーしたんすか?帰るの?」
お前らのせいでな。等と言えるはずもなく、目も合わせずぼそりと体調不良だ、と答えそそくさと昇降口へと向かう。後ろから不安そうに宮地さんと呼ばれた気がしたが、顔を合わせた所で何か余計な事でも口走ってしまいそうで、痛む心を抑えつつ帰路へとついた。
*
日が落ちて星もまばらに光り始める頃、今日も授業に部活に自主練にと勤しんでたであろう兄が帰宅した。
帰ってくるなり、リビングでテレビを見ながら寛いでいた俺の前で仁王立ちし、どこかばつの悪そうな顔で暫く唸った後、大丈夫なのかと俺に問うた。最初何の事なのかわからずクエスチョンマークを飛ばした俺だったが、ふとそれが今日の俺の早退の件だと気付いた。
「裕也、体調わりーの」
「あ?なんで」
「高尾がそう言ってたって」
高尾、その名前が兄貴から発せられると件のキスを嫌でも思い出してしまい噎せる。そういえば学校を出る前に最後に遭遇したのは高尾だったか。
午前中に早退してしまったため部活中にも見かけなかった俺を普段の兄貴らしからず柄にもなく心配してくれているようだ。ただの仮病で帰ったとも言えず、特に今は体調に不調はないと答えリビングから自室へと向かった。背中に兄貴の何か言いたげな視線が刺さってしょうがなかったが、気付かないふりで誤魔化した。
「…ハァ、つーか、いくらなんでも意識しすぎじゃね、俺」
倒れ込んだベッドの上で独りごちるも、誰かから返事なぞ返ってくるはずもなく、溢れ落ちた言葉は虚空に消えた。
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