“右腕の感覚がなくなる”というのは普通の感覚ではない。後天的ではないというならそれは先天的による体の障害だ。赤葦や周りの大人たちは“運悪くそういう体で生まれてしまった”と思っているようだが、由貴は違った。
「ハァ……(何で…こうなるんだ)」
今まで“前”の時に負った身体的障害が“次”に影響を及ぼすことはなかった。それは出会ってきた“以前”の時に知り合いだった者や、由貴にも当てはまることだった。だからこそ由貴は己の掌にある傷跡に困惑したし、赤葦の発言に対しても同様だった。
本当ならもっと跡が残るような大怪我だってしたことがあるのに、何故掌の傷だけ今の体に反映しているのだろうか。それに、よりにもよって赤葦に反映しているのがあの時の怪我というのは…由貴に対する皮肉なのか何なのか。今すぐ逃げ出したい気分になった。
「なに暗い顔してんの」
「してません」
「嘘だぁ、元気なさそうに見えるけど」
黒尾に付き合っていられるほどの余力もない。まだ午前中だというのに今日を越えられる自信がなかった。
「………………赤葦と喧嘩でもした?」
黒尾の唐突な発言に由貴の手が止まる。
「どうしてそこで赤葦さんが出てくるんですか」
「いやぁ、由貴チャン赤葦のこと気になってるみたいだから」
「………別にそんなんじゃありませんし、喧嘩もしてないんで」
むしろ彼のほうは親しげだった。元は社交的なのだろう。以前は上官と部下の関係であったため無駄話というのをしたことがなかった。とはいえあの怒涛の日々では無駄話ができるほどの余裕なんてなかったのだから、過去と今を比べるのは愚考であるが。
「本当に何でもありません。むしろ…」
「何?」
「……いえ。赤葦さんっていつもあんな感じなんですか?」
「え?ああ、そうだね。あんな感じ」
叫ぶ木兎を冷静に見つめる赤葦。昨日もヒートアップする先輩を静かに宥めていたから、きっと面倒くさい人間をあしらうのが上手いのだろう。
「………――楽しそうで良かった…」
「、は………?」
「……ほら黒尾さん、行かなくて良いんですか。セッターの人が呼んでますよ」
きっとこの記憶は、なかったことになる。誰かに思い出されることもなく、誰かに触れられることもなく消える。由貴のみがあの真っ赤な日々を想起することになる。そしてそれは由貴の海馬が多くの情報により押し潰されるその日まで、生き続けるのだろう。だが“ユキ”はあの日死んだ。あの人に忘れられたあの日から、もうとっくに“ユキ”は死んでいたのだ。“由貴”であり“ユキ”である己に最早生きる意味などありはしない。皆は己の中で生き続けるのに、彼らの中ではもうとっくに“ユキ”は存在しないのだ。
忘れられたら、どれだけ良かったことか。
どうして私だけが覚え続けるのか。どうして私だけが死に続けるのか。どうして私だけが孤独なのか。
死とは忘却だ。忘れられた時、本当に死ぬことになる。人々の記憶から消えた時、その時、死ぬのだ。だから由貴は死に続ける。輪廻から逃れられない。己の死と直面しながら、由貴はひたすら次の死を待つことしかできなかった。
「…なあ由貴チャン」
「黒尾さん、次、出番ですよ」
物申したげな黒尾の背を無理やり押して会話を中断させる。あとでゆっくり聞くからな、とふくれっ面で呟く黒尾にいい加減に頷いて由貴はその場を離れた。どうせこの記憶も些末なものになるのだと思いながら。


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