そんな会話など露知らず、夜、自宅にて影山由貴は教科書を適当にめくりながら、勉強以外のことを考えていた。それは勿論合宿のことである。
「はぁ…」
不意に出た溜息に慌てて口を閉じる。最近溜息が多すぎる。自重せねば由貴の幸せはあっという間に底をついてしまうだろう。尤も、今世において幸せなど永遠に訪れるわけないと由貴は考えているが。
兄が日向と一悶着あったらしいということは又聞きで知ったことだが、由貴は興味を示すことができなかった。三年生の菅原から自宅でできるフォローがあったら何かしてほしいと頼まれているが、まったくもってできていないというのが現状である。そもそもバレーについて無知である由貴が下手に口を挟めば兄が激怒することなど目に見えている。
「……どいつもこいつも面倒くせえな」
おっと素が出た。幸い自宅には由貴のみだから誰かに聞かれる心配はないが、やはり周囲を警戒してしまう。自分の家なのに、血が繋がった存在なのに、どうして警戒する必要があるのだろう。自問するが、返ってくるのはいつだって不毛な答えだった。
どれだけ血が濃かろうが、どれだけ愛情を注がれようが、由貴が応えられる相手はたった一人だった。血の繋がりがない彼だった。もうどこにもいないのに、どうしても心は彼のみに応えようとする。由貴にとってそれは嫌で仕方のないことだった。
どれだけ覚えていたってもう無意味なのだ。ならばそれはさっさと“思い出”として清算したほうが良い。赤葦を見てひどく思ったのだ、もうこの記憶は過去のものなのだと。どれだけ姿かたちが似ていて瓜二つだったとしても、もうそれは別人だ。右腕の感覚がなくなろうが、違う名・違う体を与えられた知らない人間なのだ。

“忘れよう”

忘れてしまえばいい。痛みをつらさも、哀しさも。“嗚呼あの時は大変だったな”と、たまに思い出して笑えばいい。そうすればもう心を痛める必要なんてないのだ。痛みを共有できないのなら捨ててしまえ。
だって、どんなに心を痛めたところであいつは“赤葦京治”なのだから。それ以上でもそれ以下でもない“普通の男子高校生”だから。
「由貴いるか?玄関に置いてあったチラシのことなんだけど…」
いつの間に帰宅していたのか、ドア越しに兄が話しかけてきた。
「うん、何」
「あれポストに入ってたのか?」
「そうだけど」
ドアを開ければ黒髪の少年、十五歳の普通の少年がいた。
そう、これが現実。これがこの世界では当たり前のこと。血なまぐさいことから縁遠いのが、普通なのだ。
だから忘れよう。―――早く、忘れてしまおう。


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