『あなたはひどい人ですね』
『…お前、人のこと言えないだろ』
『そうですね…俺も、ひどいやつだ』
―――そうしてあいつは
私の涙を掬ってみせたのだ―――


「―――――――………、」
寝覚めは最悪だった。
放課後、地平線に融ける夕陽。運動部の掛け声。じりじりと迫る、時間。今日が終わる。
舌打ちを一つしてから身を起こす。宿題をしていたのだがどうやら眠ってしまっていたらしい。伸びをしてからノートに視線を落とせば、最後の一問だけ空白になっていた。随分半端なところで寝落ちしようだ。ここでやるにはなんだかもう面倒なので、由貴は荷物をまとめて教室をあとにした。
腕時計を見れば短針は六の辺りにある。兄はまだ帰っていないだろう。会うのは気まずいので早く学校から出ようと決める。

『…俺も、ひどいやつだ』

不意に蘇った声に、由貴の足は一瞬だけ止まる。何であいつの声が、顔が、熱が、蘇るのかは分からなかったが、あいつのことはもう思い出したくないということだけは声を大にして言えた。去り際がハッピーエンドとは言い難かったから思い出したとでもいうのだろうか。いや、それならあの人のほうがもっともっと哀しくて―――。
「あっ、由貴」
「!」
考えに耽っていたので前方に現れた人物に気がつかなかった。
兄の、“トビオ”だ。隣には“タケダ先生”もいる。
「…?何」
何か言いたそうに口をもごもごとさせている兄を怪訝し、由貴は端的に急かす。すると「あのですね…」と武田が申し訳なさそうに口を挟んだ。
「影山さんにお願いがありまして……」
「はい」
あ、嫌な予感。と心中で察する。
彼の頼みを簡潔にまとめるなら“バレー部が行う東京遠征で雑用係が不足しているため、臨時でお手伝いさんをやって貰えないか”ということだった。
そんなもの嫌に決まっているだろう。由貴の中で答えは既に出ていた。別段バレー部にも兄にも思い入れがあるわけではないので断りを入れようとしたその時、兄がガバッと頭を下げた。あの、兄が。
「!?」
「頼む!もう何人にも断られてんだ!!お前だけが頼りなんだよ!!」
やめてくれ、そういうのは――由貴の胸中は急速に冷えていく。
「影山さん、僕からもお願いします!!」
「……部外者の私が一緒に遠征行けるんですか?教頭先生が許す筈ないんじゃないですか」
「大丈夫です!!影山さんはお兄さんと違って成績優秀で素行も良いので多少無理を言っても了承するでしょう!!」
無自覚で兄を貶しているこの教師が、ほんの少し怖く感じられた。兄も「え」といった感じに小さくショックを受けている。だがすぐに立ち直り頭を下げ直す。
「頼むよ由貴!」
兄と由貴は、お世辞にも仲良しとはいえない。“前”が忘れられない由貴に半分以上原因があるが、兄も兄で深くは関わろうとしない質だったので溝は深まるばかりであった。だが今、兄はその溝を飛び越えようとしている。どうすれば良いのだろうと、由貴は困り果てる。
怖いくらいに真っ直ぐな二人の視線に、苦々しい顔をして素っ気なく逸らすことが由貴にできる唯一の抵抗だった。


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