「……ありがとな」

夜、兄は恐ろしい言葉を口にした。
「………風邪でも引いてるの?」
「テメッ!人が素直に……!!」
半目で呟けば兄は不機嫌そうに歯軋りした。これまでまともに話したことなんてなかったのだ、そう思ってしまうのは致し方ないことだろう。由貴は悪びれる素振りもなく自室に戻ろうとした。
「なあ!」
ドアノブを掴んだところで、呼び止められる。
「お前、何で俺のことそんなに嫌いなんだよ」
よくもまあそんなことを堂々と訊けたものだ。彼の神経の図太さには、時折舌を巻くものがある。
兄が自室に戻る気配はない。答えを聞くまで帰らないつもりなのだろう。溜息をつきたくなったが堪えた。浮かんでくる記憶を無理やり沈めて、由貴は小さく口を開く。
「別に、あんたのことが嫌いなんじゃない」
「…」
「……ただ…あんた以上に、忘れられない人がいるだけ」
ものが溢れすぎているこの世界は、ただただ苦しいだけだった。由貴にとって必要なものは、たった一つだけなのに。
おやすみと言って部屋に入る。兄は止めなかった。きっと答えの意味を考えあぐねているのだろう。彼の頭では到底理解できないだろうが、由貴は真実を口にするつもりはなかった。

『まあ、もし忘れていたとしても、テメェの顔を見れば思い出すんじゃねえか』

その言葉を由貴は信じていた。“家族”の言葉を、ずっとずっと信じていたかった。


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