ブラックボックスは躯の中
『……。俺はあなたの補佐官ですから』
―――「由貴チャン?」
黒尾の声で我に返った由貴は、顔を上げる。不思議そうな、かつ心配の色が見え隠れしている彼の顔が近くにあって少し驚く。彼の背後では試合に夢中な烏野や梟谷の面々が一生懸命動き回っている。音駒は休憩時間だ。
「何ですか?」
「いや何ですかじゃないでしょう。ボーっとしてっから心配になったんだけど?」
「あ、心配してたんですか。てっきり私にセクハラでもするのかと」
「俺、無謀な挑戦とかしない主義だから」
由貴の軽口に乗ってきた黒尾であったが、まだ物申したそうな顔色だ。別に気分が悪いわけでも熱中症になったわけでもないから心配無用だと諭すものの、案の定彼は聞き入れなかった。首元や額を無断で触ってくる彼に結局セクハラしてんじゃねえかと言いたかったが、普段よりも真剣な目の黒尾に思わず押し黙った。
「さっきからずっと水分取ってなかったでしょ」
「……」
「…あのねえ由貴チャン、あんまり我慢しなくていいから」
言いたいことがあるなら言っていいし、もっと頼ってくれてもいいんじゃない?――真っ直ぐこちらを見据える瞳に狼狽する。この男は普段飄々としているのに、何故こういう時に限ってこんなにもどっしりしているのだろう。何も知らないくせに見透かしているような態度につい口を開きかけるが、すんでのところで脳が正常に思考しだした。
「……黒尾さんに対しては、割と好き勝手言ってるつもりなんですけど」
上手くはぐらかせないだろうか。「んーん。まあ他の奴らと比べたらね。確かに由貴チャン、俺に随分遠慮がなくなったネ」彼に言えるわけなどないのだ。忘れなきゃいけないことをまだ忘れられない由貴が悪いのだから、この感情は己の中で消化するしかない。「だから平気ですよ。心配しないでください」畳みかけるように言ってみたがどういうわけか黒尾の顔が不機嫌なものに変わった。さっきよりも悪化している。
「そう言う奴ほど全然大丈夫じゃないんだけどなァ」
不機嫌というか、怒っている。黒尾の本気の怒りを見たのは初めてだったので、少々当惑する。
「……まあ無理に訊き出すのはどうかと思うけどさ、由貴チャンってなんかほっとけないんだよね」
驚いている由貴に気づいたのか、黒尾は理性で怒りを抑えたように見えた。気を遣わせて申し訳なく感じる。澤村もそうだが、主将というのはどうしてこうも大人なのだろう。まさか黒尾までこういう一面があるとは思わなかった。
「…じゃあ、一つだけ訊いても良いですか」
「どーぞ」
『よくできた部下を持って幸せだな、私は』
『……俺はあなたの補佐官ですから――当然のことをしただけです』
「本当は違うのに相手の言った言葉に同意する時って、どういう感情で同意したと思いますか」
「………は?」
予想外の質問に黒尾は目を瞬かせた。
「あー…そうだなぁ。つまりその同意した奴にとってそれは本心じゃなかったってことだろ?」
「そうなりますね」
「単に間違いを指摘するのがめんどくさかったとか…あるいは嘘をつかなきゃいけない理由があったとか」
“あの時の彼”と先程の赤葦は同じ顔をしていた。指摘するのが面倒だったというのは彼の性格上考えにくい。となると嘘をつかなければいけない状況にあったということになるが…。
「あッ。あと自分の考えに自信が持てない時は、結構相手に合わせたりしてるなぁ」
「―――自信が、持てない」
いや、一体何に自信がなかったというのだ。(何だったんだ、さっきの顔は)合宿に来てから赤葦の言動に振り回されっぱなしで疲れる。忘れると言っておきながら思い切り気にしている自分が嫌になるし、自分が何をしたいのか分からなくなってきた。
一旦考えるのをやめよう。時計を見ればもうすぐ音駒の試合の時間だった。そろそろ切り替えなければ剛速球の餌食になる。
「俺の意見は役に立ちましたか?お嬢さん」
おどけて訊ねる黒尾に由貴はふっと口許を緩める。
「ま、半分くらいは参考になりましたかね」
「半分かよ」
「充分です。…ありがとうございます」
そう言って微笑めば、彼はギョッとして目を逸らした。それはセコイ、と弱々しく呟く彼に由貴はしっかりしろとばかりに背中を叩いた。