いつだって信じてる話
夕陽がもう沈みかけている。壁の上から見る茜色の空は、兵士にのみ拝むことができる特権だ。壁に支配されていないものを記憶に収めることができるのは、結構貴重なことだ。リヴァイはそれこそ潔癖の気があるものの、別段美的センスについてうるさくはない。だがそんな彼であっても今自然が見せている美しさに感嘆の溜息をつくくらいは、感情の振れ幅が豊かであった。まあそれもユキが隣にいる時のみ針は大きく揺れるのだが。
「そういえばオレンジの皮が切れそうなんだ」
「あ、そうなんだ。皮取ってるから分けるよ」
「助かる」
オレンジの成分がシンク垢に効くというのは、ユキに教わったことだ。ユキは何でも知っている。それなりに歳を重ねたリヴァイよりも、だ。たまにリヴァイはユキの知識の多さに首をかしげた。出会って間もない頃、その知識はどこで手に入れたと訊いたことがある。その時彼女は本で読んだと答えた。あんな治安の悪い地下街で、貴重としか思えないその知識が書かれた本がばら撒かれているわけがない。彼女が貴族の出の可能性も考えた。だが本当に貴族ならこんなに知識が豊富なわけがない。それになにより、彼女は一人で生き残る術を知っていた。身の振り方も分かっていた。傀儡でしかない貴族にそんな芸当ができるわけがない。
「なあ、ユキ」
夕陽の光が地平線に遮断されてゆく。じりじりと光が消えていく様を一瞥し、リヴァイは茜色に照らされたユキを見た。
「お前は、何でそんなにも知ってんだ」
「………どういう意味?」
「そのままの意味だ」
お前は世の中のことを知りすぎている。―――そう告げれば、ユキの瞳が揺れた。
「ねえ、夕陽が何で赤色なのか知ってる?」
「…………は?」
突然の質問にリヴァイはあんぐりと口を開けた。
「元々太陽の光は七色あって……その光の波長によって見える色が違うし、太陽が放つ青は赤よりも飛距離が短いんだ」
「お、おい待て……一体何の…」
「昼間は太陽が地球の真上にあるから、距離が近い。だが夕方になると太陽は今いるこの場から離れていくから、青色が届かなくなる。すると残りの赤色のみが地上に届く………だから夕陽は赤色なんだ」
ユキは困ったように笑った。
「こんなことを知ってるのは私だけ…この世界で……私だけ」
「ユキ、お前…………」
「あのさ、リヴァイ。もし、前世の記憶を持ってたら、リヴァイはどうする?」
ユキは笑ってなんかいなかった。もう、泣き出す寸前だった。
*
ユキが打ち明けた話は、まるで物語のようだった。あまりに非現実的だったので、このことは今まで誰にも話したことがなかったのだろうと推測できた。
「……………掃除の知識も、さっきの夕陽の色がどうたらっていうのも、全部“前”の時に知ったのか?」
ユキは頷く。「そうか…」先程の色の話は全く理解できなかった。ユキは当然のことのように話していたから、きっと“前”の世界では割と常識だったのだろう。
「すげえな」
「へ…?」
「ということは…ユキよ、お前はウミを見たことがあるのか」
「え、あ、ああ…海?ある、けど」
「一面が塩水なんだろ?」
「う、うん。大地よりも海のほうが面積が多い…だけど塩がたくさん含まれてるからちゃんと濾過しないと飲めないんだ」
動揺したまま、ユキはすらすらと知識を披露する。
彼女はそのウミとやらを、一体誰と見たのだろう。誰とその素晴らしい景色を共有したのだろう。リヴァイの心中で嫉妬に似た感情が湧き出る。「あ、のさ」そんなことなど露知らず、ユキは当惑したまま言葉を紡ぐ。
「信じる、の?」
「あ?」
「だ…って、こんな素っ頓狂な話…普通嘘だって思うだろう」
「嘘なのか?」
「いや嘘じゃない、けど」
いまだに信じたことを信じてくれないユキ。リヴァイは少し憮然としながら言い放った。
「お前の言うことを俺が疑うと思ってんのか?」
するとユキの黒曜石の瞳は段々と濡れていった。
「…そう、だな」
「そうだろ。お前は俺に嘘をつかない」
「………ああ」
ぎゅうっと唇を噛み締め、堪えるようにユキは大きく頷いた。今にも目尻から涙が溢れてきそうだった。
リヴァイは苦笑した。
「おい泣くな」
「……っしょうがないだろ…だって、こんなの…」
きっと軽蔑されるのを覚悟で打ち明けてくれたのだろう。真摯な態度を取ってくれたユキに、リヴァイの中で筆舌に尽くしがたいほどの愛しい感情が湧いてくる。多分目に入れても痛くないってこういう時に使うんだな、だなんてちょっと馬鹿っぽいことを考える。要は、リヴァイもユキの唯一の秘密を知ることができて舞い上がっていたのだ。
「ユキ、嬉しいなら笑え。お前に泣かれると、俺はどうしたらいいのか分からなくなる」
だから柄にもなくこんなことが言えた。するとユキもリヴァイの気持ちを幾分か察したのか、目元の涙を指で拭って笑ってみせた。
「ありがとう」
こちらこそ、言ってくれてありがとう――――その意味を込めて、リヴァイは微笑んだ。