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 凍りついた異形の怪物。見上げるほどに巨大なそれは、どこか鉄の森の件で会敵したララバイを彷彿とさせた。


「──デリオラ……!!?」


 突如、洞窟内に響いた絶叫にも似た声音にはっと意識が引き戻される。仰いでいた視線を落とし、そちらを向く。


「バカな! デリオラが何でここに!!?」
「デリ……? 知ってんのか? コイツ」
「あり得ねえ!! こんなところにある訳がねえんだ!! あれは……! あれはっ!!」
「グレイ?」


 声の主はグレイだった。
 彼はひどく錯乱した様子で、不思議そうに首を捻るナツやハッピーの問いかけすらも届いていないらしい。形の良い唇がわななき、歪む。次々とこぼれ落ちていく言葉は、きっと誰かに聞かせるためのものではなかった。だってそれは、信じられないものや受け入れられないものを拒むような、そんな印象だったから。

 触れていいのか、迷う。そう躊躇ってしまうほどに、今の彼は普段とは異なっていた。
 以前、鉄の森のギルドに乗り込むという話になった際「面白そうだろ?」と楽しげに笑っていた面影はどこにもないし、強大かつ危険なララバイに臆せず立ち向かった姿とも重ならない。エルザを前に怯えて固まっていたことはあるけれど、その時とは比較にならないくらい、ずっとずっと苦しそうで。

 他人にはわからない何かがあるのだろう、と思う。気軽に踏み込んで良い領域にないことも、直感で理解できた。
 しかし、それでも手を伸ばしてしまったのは、その様子がかつての自分と似ていたからかもしれない。この世界の正体に気づき、自分が何者であるのかの予想をし、そうして全てに絶望した──あの頃の“私”に。


「グレイ」
「!」


 正面に回り、彼の名を呼ぶ。なるべく丁寧に紡いだ音は今度こそ相手の鼓膜を震わせたようだった。彼の肩が僅かに跳ねたのを、そこに乗せた片手が感じ取る。
 彼とこの怪物にどんな繋がりがあるのかわからない以上、下手に介入しては相手の心を傷つけることになるだろう。大丈夫、という単語は安易に使えない。どうすれば何かに囚われた彼を現実に連れ戻せるだろうか。慎重に言葉を選ぶ。


「グレイ、落ち着いて……ゆっくり深呼吸して」
「……っ」


 とはいえ、捻り出した台詞は結局普通で、特別なものなど何ひとつとなくて。もう少し上手い宥め方はなかっただろうかと歯痒く思い、自己嫌悪する。が、そんなチープな台詞でも気を引くくらいはできたらしい。
 まるで、ここではない別の情景を見ているように、ぐらぐらと頼りなく揺れていた瞳がゆっくりと意思を持って動く。身長の関係上こちらを見下ろす彼の視界には、おそらく恐ろしい怪物の姿はほとんど映っていないはずだ。ルーシィ、と微かに唇が形を作る。ささやかで、風に吹かれればすぐに消えてしまいそうなそれは、けれども今この瞬間がきちんと見えているのだという確かな証拠だった。

 グレイの抱える何かが払拭されたわけでもないのに、ほんのちょっとだけいつも通りに戻った彼に安心してつい顔がほころぶ。先程の反応が“呼んだ”のではなく、ただ“目についたものを口に出した”だけだとわかっていながら、わざと返事をした。「うん?」と小首を傾げる私に対し、彼は数度目を瞬く。やがて、ぎゅっと瞼を閉じると、深い呼吸音が聞こえてきた。動揺や困惑とは違う意味で上下するその肩から、もう必要はないだろうとそっと手を下ろす。
 そして、次に怪物を見やったグレイの呟きは、今度こそ説明しようとする意図を宿していた。


「アイツはデリオラ……厄災の悪魔……」
「厄災の悪魔……?」
「あの時の姿のままだ……どうなってやがる……」


 悪魔と聞いて脳裏を過ぎるのは、やっぱりララバイだった。同時に、嫌な記憶も掘り起こされて胸の辺りが軋む。こちらの世界に来てから明確に他の人と『違う』と見破ってみせたのも、それを真っ向から突きつけてきたのもあの怪物が初めてだった。
 じっと『デリオラ』とやらを睨むように観察する。口を大きく開けた姿は今にも動き出しそうで、分厚い氷の檻さえも粉々にしてしまえそうな迫力があった。氷漬けにされた生物は大抵の場合、細胞が壊死して生きてはいられないだろうが……果たして悪魔の場合はどうなのだろう。

 漂う冷気にぶるりと身震いする。当然、寒いからという単純な理由だけではなかった。空気が凍てつく感覚は臓腑をも冷やし、その場にいる者の緊張や不安を煽ってゆく。同じ氷の魔法でも状況のせいで綺麗だとは思えなかった。だというのに、ふとグレイの魔法を連想してしまったのは何故なのか。
 それにしても、こちらの世界では悪魔がたくさんいるのだろうか。前の世界でも神話には様々な名が記されているものだが、どれもこれも実在はしていなかった。少なくともあちらでは会ったことがない。たぶん、それが普通だ。そして、これはどう考えても異常。悪魔なんて恐ろしすぎる存在がその辺を闊歩し、頻繁にかち合うような世界はやばいという他ない。月を壊さなくとも、そのうち自然と滅亡してしまうのでは??

──カツン。


「! 誰か来る……?」


 不意に、静かな洞窟内に足音のようなものが反響した。反射的に肩が跳ね、一拍遅れてさっと視線を走らせる。ナツもグレイも音のする方へ顔を向けていた。ハッピーは未だ抱えたままだ。つまりは、私達の立てた音ではない。だんだんと近づいてくるそれに比例して、心臓の鼓動が嫌に速くなっていく。
 村人の誰かだろうか。でも、こんな地下に……?


「ひとまず隠れよ!!」


 耳をぴくりと動かしたハッピーが何かを察知したのか、腕の中から飛び出してナツの背を押した。「なんで?」「いいから!」怪訝な顔をするナツを無理やり連れて行く彼に倣い、咄嗟にグレイの手を引く。いつもよりさらに冷たい温度が肌に伝わり、内心でぎょっとした。ちらりと様子を窺うと、抵抗はしないものの後ろ髪を引かれるように怪物を見つめるグレイがいて。その姿がやけに印象的だった。


「人の声したのこの辺り」
「おお〜ん」


 岩陰に身を隠し、程なくしてやって来たのは二人組の男性であった。
 片方は、逆立った髪に特徴的な眉。民族衣装らしき服装を身に纏っている。もう一方は犬のようにも猫のようにも見える耳を頭に生やし(?)ており、上半身裸の片腕には何故かひらがなで「さしみ」と描かれていた。
 刺青だろうか。何にせよ、こちらの世界でひらがなを目にしたのは初めてかもしれない。妙な感動がある。


「昼……眠い……」
「おおーん」
「オマエ月の雫ムーンドリップ浴びてね? 耳とかあるし」
「浴びてねえよっ!! 飾りだよ!! わかれよ!!」


 あの耳、飾りだったのか……。


「からかっただけだ、バカ」
「おおーん」


 キャラの濃い人達である。
 いや、それよりも月の雫とは何のことだろうか。あの言い方だと、まるでそれを浴びると人体に影響があるみたいだ。


「ユウカさん、トビーさん。悲しい事ですわ」
「シェリー」
「おおーん」


 突如として増えたソプラノにぐっと息の詰まる思いがする。どうやら二人だけではなかったらしい。盗み見している罪悪感とバレたらどうなるのかという緊迫感で心臓が痛い。
 必死に落ち着けと自分に念じながらも音を追うと、そこには整った容姿の女性がいた。高いヒールに、どこかで見たようなゴスロリ風の衣装。マゼンタに近いピンク色のツインテールが黒いそれらに映えている。


「アンジェリカが何者かの手によっていたぶられました……」
「ネズミだよっ!!」
「ネズミじゃありません……。アンジェリカは闇の中を駆ける狩人なのです。そして愛」


 あんじぇりか……? ネズミというと……まさか、ナツとグレイがボコボコにした巨大ネズミ??
 そういえば、確かにこの女性と系統が似た服を着ていたような気がする。先程、記憶を掠めたのはこれか。やっぱり、あのネズミは野生ではなかったらしい。……どこかに訴えられたりしないだろうか。


「あいつらこの島のモンじゃねえ……ニオイが違う」
「うん……それに呪われてる感じがないよ。あの耳の人はよくわかんないけど……」


 ナツとハッピーの小声のやり取りに、ふと何かが引っかかった。しかし、それが何であるかを掴む前に三人組が動き出し、微かな違和感は霞のように指の間を通り抜けてしまった。


♦︎


「(この人達から話を聞けないかな……?)」
「侵入者……か」
「もうすぐお月様の光が集まるというのに……なんて悲しい事でしょう……。零帝様のお耳に入る前に駆逐いたしましょう。そう……お月様が姿を現す前に……」
「だな」
「おおーん」
「デリオラを見られたからには生かしては帰せません。侵入者に永遠の眠り……つまり“愛”を」
「“死”だよっ!! 殺すんだよっ!!」
「(うーん、どうあがいても無理そう!!)」
心に巣食う闇