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「ボロボロじゃねえか」
「いつの時代のモンだコリャ」


 気を失った巨大ネズミを容赦なくリンチにするという鬼畜極まりない所業をかましていた二人をなんとか鎮め、次に足を踏み入れたのは石造りの遺跡だった。
 建物内は外観に相応しいほどに広く、入り口からの僅かな光が空気中の細かな塵を照らし出す。日陰に差し掛かると、足元はところどころ苔で覆われていた。さらには、木の根が一部の床を持ち上げ、壁には蔦が茂っている。

 どうやら植物に侵食されてしまうほどに時が経っているらしい。手入れをされているようには見えないので、余程古い時代に造られたものなのか。あるいは、何らかの事情で長い間放置されていたのかもしれない。
 しかし、荒れているにも関わらず、その場所はどこか現実とは隔絶されたような雰囲気を纏っていて。とても静かで、ゆったりとした時間の流れを感じた。何故だか神聖な印象を抱いてしまうのは、そこが遺跡だという先入観があったためだろうか。


「見ろよ。何か月みてえな紋章があるぞ」
「この島は元々“月の島”って呼ばれてたって言ってたしな」


 奥には噴水らしき跡や上に続く階段もあった。やけに規模が大きい。遺跡というのはこれほど手の込んだ造りをしているのが常なのか。そちらの方面の知識が乏しいので正解はわからないが、かつての人々はよく完成まで至ったものである。その頃はきっと、前の世界にあったようなトラックやクレーン車などの建設機械は存在しなかったはずだ。何なら今も存在が危うい。
 おそらく、この遺跡は当時の知恵を振り絞り、試行錯誤の末に生まれた先人達の努力の結晶なのだろう。例え重機はなくとも、こちらの世界特有の魔法が関わっている可能性もある。何にせよ、文明とは不思議なものだ。


「月を祀るための建物なのかな……」


 周囲に圧倒されながらも、ナツとグレイが見つめる壁面へと視線を移す。そこには確かに月を模った紋様が描かれていた。
 何気なく歩み寄る。と、不意にこつりと靴に硬いものが当たった。ちょっとやそっとでは動かないそれにつまずきかけ、僅かによろめく。上ばかり見ていたせいで気がつかなかったが、足元にそこそこの大きさの瓦礫があったらしい。一部の壁が欠けているため、そこから崩れ落ちたものかもしれない。

 よくよく見ると何か色が使われていて、他の壁とは異なっているように思えた。興味を惹かれるままにしゃがみ込み、薄らと表面を覆う砂や埃を軽く払ってみる。やがて、その下から現れたのは、月とそれを崇めているような人々の絵だった。壁画というやつだろうか。
 先程ナツが見つけた月の紋章もそうだが、わざわざ何の関連もないマークや絵を刻むとは考えづらい。とすると、やっぱりここは月の神殿と呼べるような神聖な建物と見ても良さそうだ。


「ルーシィ、見てー」
「うん?」


 ふと、名を呼ばれて横を向く。直後、真っ先に視界に飛び込んできたのは燻んだ白のいかにもな骨だった。ぎょっと目を見張る。イラストでよく描かれるような見事な形を成したそれを、ハッピーが嬉々として掲げているではないか。


「骨があった!」
「いや、それ何の骨……? こら、食べちゃだめ」


 きらきらと輝く瞳が、どこか飼い主に自分のおもちゃを見せて自慢してくる犬と似ていて、つい口元が緩む。ハッピーは猫だが、性格は人懐っこくあまり猫らしくない。骨を投げたら拾ってくるのだろうか。なんて、くだらないことに思考が逸れた一瞬、あろうことか徐に口に入れようとするので慌てて止めた。さすがに、食べるとは予想していなかった。何の骨かもわからないし、何より変な菌がついていないとも限らないのに。
 それほど執着もなかったのか、はたまた見せたいだけだったのか。幸いにも彼は大人しく聞き入れて、ぽいっと骨を遠くに放り投げた。からん、と軽い音が遺跡に響く。


「それにしてもボロいな……。これ地面とか大丈夫なのか」


 不意にナツが片足でガン! と床を蹴ったのは、いつものように胸へと飛び込んでくるハッピーを受け止めた後のことであった。強度を確かめるその動きに特に不安などはなく、次はどこへ向かおうかと呑気にも立ち上がった刹那──。
 なんとも形容し難い音がした。数秒前の骨が落ちた程度の音ではない。もっとこう……聞こえてはならぬ重低音が。

 逃げ出す暇も警戒する思考もなかった。
 ただ、危険を危険と認識する前に、いつの間にか床が崩れ、足場が消えていて。がくん、と体勢があらぬ方向に傾く。同時に目に映る景色が勢いよくぶれた。
 え? と思う。しかし、そう疑問を持った頃にはもう手遅れなほど落ちていた。ひゅんと内臓が浮き上がる感覚を覚えて、初めて落下しているのだと気づく。あまりの衝撃に悲鳴さえ呑み込んだ。まさか、床が抜けるなんて誰も思わないだろう。


「なんて根性のねえ床なんだァァ!!!」
「床に根性もくそもあるかよ!!!」
「っ……!!」


 先の見えない真っ暗な穴。同じように底へと吸い込まれていく元々は床だったはずの瓦礫たち。ナツとグレイの絶叫が随分と遠くで響いているようで。
 直感的に死ぬと悟った。間違いなく。このままだと全員死ぬ。抗いようもない絶望感だった。だって、人は飛べない。星霊のみんなが頭を過ぎらなかったわけではないが、この状況をなんとかできそうな友人に心当たりもなかった。無残にも地面に強く打ち付けられる未来を想像する。ぎゅうと視界を閉ざしたのは、無力な自分ではそうすることしかできなかったからだ。

 痛みを恐怖しながらも、たぶん諦めていた。助かるための活路を見い出すには時間も手札も足りない。
 そうやって足掻くことを放棄した心を、不意に救い上げたのは、人を運ぶにはとても小さな……しかし力強い掌だった。


「──ルーシィっ!!」
「っ、ハッピー……!?」


 ぐん、と体にかかる重力が少し軽くなる。ハッピーの鋭い声音に驚いて目を開き、それから腕の中にいたはずの彼がいないことに気がついた。もしかして、と一拍遅れて思い至った光明に、反射的に振り返る。
 首を捻った先、すでに小さく見える穴の始まりよりずっと手前。そこには案の定、真っ白い一対の翼が広がっていた。


「オイラだけじゃ手が足りない! ナツとグレイを……っ!」
「!!」


 必死の表情で叫ぶハッピーを視界に捉えると、それまで遠のいていた世界が途端に戻ってくるような心地がした。現実逃避をしている場合ではない、とそう言われているようで。
 彼から視線を外し、慌てて下を向く。先程までは上も下もない状態だったが、ハッピーに支えられたおかげで体勢と共に少しの冷静さが保つようになっていた。私達のさらに下方でナツとグレイがなす術もなく深淵へと呑み込まれてゆく。余裕がなくて事実から目を背けていたせいで、自分だけではなく、みんなの命がかかっていることを忘れていた。


「どーすんだナツ!! この状況なんとかしろよ……っ!!」
「知らねーよ! あんな簡単に壊れるなんて思わねーだろうが!!」
「普段から物壊してるくせによく言うわ……っ! 責任とってクッションになれ!!」
「ああ!? 誰がオマエのクッションになんかなるかよ……っ!!」


 落下しながらも言い合う二人は、ある意味器用だった。肝が据わりすぎている。心臓に毛でも生えているのかもしれない。
 それにしても、こんなにも騒がしいやり取りを直前まで聞き逃していたなんて、余程追い詰められていたのだろう。視覚も聴覚も、五感は全て正常だった。今まで上手く働いていなかったのが幻のように、今度は鮮明に感じ取れる。

 この依頼で誰も死なせたくない。その想いは決して嘘ではないから。


「──ナツ!! グレイ!!」
「「!」」


 精一杯に声を張り上げた。二人の喧嘩にかき消されないように強く、強く。
 はっとした表情でナツとグレイがこちらを見上げた。どうやら呼びかけはちゃんと届いてくれたらしい。が、安堵するにはまだ早い。ハッピーの飛行能力にサポートされた私はともかく、文字通り宙に放り出された彼らは見る見るうちに地面との距離を縮めているのだ。その様子にひやひやとしながらも、懸命に手を伸ばす。ハッピーが何度か羽ばたき、位置を調節するように二人に近づいてくれた。

 綺麗な桜色と漆黒が、衣服諸共風圧で激しく乱れている。
 距離的に近いのはナツの方だった。僅かな間だけ目を丸くしていた彼は、しかしこちらが差し出す手を見て意図を察したのか、迷うことなくすぐに腕を持ち上げる。言葉がなくとも理解が早かったのは、きっとハッピーとの付き合いが長いからだった。身に染みて知っているのだ。危機的な状況下で咄嗟に思いつかない私とは違い、ハッピーが飛べることを。


「っ……ナツ! グレイを!」
「おう!」


 やっと届いたナツの手を両手で力強く握る。温かくて大きなそれは、彼らがまだ生きていることを如実に示していた。同時に指示を飛ばす。これまた言葉が少なくてもナツは理解してくれたし、たぶん言わなくても行動してくれていたと思う。自然とそう解釈できるほどの素早さでナツはやや後方にいたグレイの首根っこをもう片方の手で捕まえた。
 ぐにっとグレイの襟首が伸び「ぐほっ、ナツてめェ……」という微かな抗議が聞こえてきたが、今はどうすることもできなかった。この状況でまさか手を離されたら、地面に叩きつけられるのは彼自身だ。


「うぐぐぐ……っ! ごめん、みんな……オイラやっぱり三人は無理……!!」
「ハッピー! 上じゃなくて、下! 下に向かって……っ!」
「! あ、あいさー……っ!」


 もうかなりの深さまで落ちている。上に戻るのはハッピーの消耗が大きく、現実的ではないだろう。加えて、自分の体も長時間は持ちそうになかった。
 肩にかかる重みと痛みをどうにかやり過ごそうと、ぐっと歯を食いしばる。青年二人の体重は馬鹿にならない。それはそれは十キロの鉄アレイが可愛く思える程度には。


「ルーシィ、大丈夫か!? ハッピーも!」
「へ、いき……っ」
「あ"い……っ」
「いや、ぜってぇ嘘だろ!! 平気じゃねー顔してるって!」


 そこまで心配されるほど、私は苦悶の表情を浮かべているのだろうか。人を気遣う余裕のあるナツと、息苦しそうにしながらも指摘するグレイに内心で苦く笑う。正直に言うと、腕がちぎれる嫌な想像は先程から頭の中で主張していた。でも、結局それはただの想像だ。
 手を離したら文字通り人生が終わってしまう彼らのピンチとは釣り合うはずもない。早く依頼を解決し、全員無事に帰るという祈りにも等しい願いを叶えるために、今この瞬間、とにかく死ぬ気で堪えるしかなかった。何より、現状で一番つらいのは三人分の体重を支えている小さな青猫なのだから、人間である自分が弱音を吐いている場合ではないのだ。

 落下の速度を緩めつつ、徐々に深穴の底を目指す。不幸中の幸いと言うべきか、これまでのゴタゴタのうちに地面は数メートル先にまで迫っていた。そうして数秒後、かつて床だった瓦礫が散乱するその場所へ、半ば投げ出されるように着地した。
 よろめき、膝をつく。なんだか随分と長いこと宙を漂っていたような感覚だった。どくどくと忙しなく主張を繰り返す心臓。まだ非日常を彷徨い、ぼんやりとする脳内。しかし、地面に足がついているという事実を噛み砕くと、それらはだんだんと歓喜へと変わっていった。腕の痺れも一瞬忘れるほどに。


「よかった、みんな生きてる……」
「危なかったなぁ……。二人ともナイス」
「確かに助かったが……ナツてめェ!! なに呑気に言ってやがる! 元はと言えば、てめーが後先考えねえで行動するからだろうが!!」
「あぎゅ……」
「ハッピー!?」


 いつもならよじよじと背中を登ってくるハッピーが、力を使い果たしたのか服を掴む気力もなくころりと滑り落ちる気配がした。慌てて腰を捻り、手を伸ばす。間一髪、地面に吸い込まれていく体を空中で捉えられた。
 手足を弛緩させ、見るからにくたくたな彼に胸が痛む。労わるように、そっと抱きしめた。


「無理させてごめんね……。ありがとう、ハッピー。今度、お魚買ってあげるね」


 物で釣ろうとしたのではない。ただ、彼が喜ぶものを想像したら、それが真っ先に浮かんだだけだ。
 けれども、拙い思考回路は意外にも正解を導き出したらしい。腕の中でハッピーがぱあっと顔を輝かせる。


「ほんと……!? 絶対だよ、ルーシィ!」
「うん、約束は守るよ」
「うぱー!」


 生気が戻ってきた愛らしい猫の頭を撫で、未だ口論を続けるナツとグレイを見やる。普段であれば、いつ殴り合いに発展するかと落ち着かない心地になるというのに、今ばかりはそれが生きている証拠に思えて不思議と安心してしまった。

 誰も失うことがなくてよかった。そう心から安堵する私は、そばに近づく悪魔の足音に少しも気づいていなかったのだ。


♦︎


「さっきの遺跡の地下みてーだな」
「随分、深いところまで来ちゃったね……」
「秘密の洞窟だーーっ! せっかくだから、ちょっと探険しよーぜ」
「オイ! これ以上、暴れまわるんじゃねえ」
「うおおおっ! ……お?」
「ナツ?」
「どうした?」
「な……何だ? あれ……でけえ怪物が凍りついてる!!」
そこに眠るモノ