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「──あれ、白雪がいない……?」
目の前の光景にぱちりと瞬く。珍しい薬草を見つけ浮ついていた気分が、不思議で少しの違和感を覚えるそれを見て一気に落ち着きを取り戻した。
“光景”というには大袈裟かもしれない。ただ、待ち合わせの場所に彼女が来ていなかっただけ、なのだが……。
懐中時計を取り出して時間を確認し、はてと首を傾げた。時刻は集合の五分前。何の問題もないように思うかもしれないが、白雪はしっかり者だしこういう時は遅くとも五分前には到着しているはずなのに。
「(道に迷ったとか……?)」
思いついた考えもすぐさま否定した。いくら森が広大であったとしても、巨木を目指せば良いのだから迷うことはまずないだろう。白雪は森に慣れている。しかし、そうなると疑問と違和感だけが残されて胸にわだかまりを作ってしまう。
もう一度、時計を見る。不安な気持ちはあったが、集合時間まではまだ数分ほど余裕がある。初めて訪れた場所なのだから、多少の遅れくらいはあってもおかしくはないのかもしれない。
それに、待つのが嫌というわけではないのだ。木の根元に座り込み、気長に彼女を待つことにした。
……。
……いや、さすがにおかしい。
待ち合わせの時刻になっても、五分、十分と時が過ぎても白雪は姿を現さなかった。疑問を押し殺し辛抱強く待ってみるも、三十分を過ぎた頃から、いよいよやばいのではないかと嫌な予感が脳裏を過ぎる。
作業に集中しすぎて気づいてない、なんてこともあり得るが、それよりも今は白雪に何かあったのではないかと焦る気持ちが先立つ。
辺りもだんだんと夕焼け色に染まってきている。このままではもうじき暗くなって、捜索が困難になってしまうだろう。
オレンジの光を帯びる樹々を眺め、じわじわとゆっくり、けれど確実にその領域を広げていく様に冷や汗が頬を伝う。本来なら暖かに感じられるはずの色が、今は刻々と近づくタイムリミットを報せる悪魔の宣告に思えた。
のんびりと座っている場合じゃない。
慌てて立ち上がり鞄を引っ掴むと、服に付着している葉を払うのもそこそこに白雪の向かった方向へと駆け出した。『夜の森は危ない』という言葉はよく聞くし、もし何かに襲われて怪我でもしていたら……そんな万が一を考えては焦る気持ちが大きくなり自然と足も速まってゆく。
暗くなる前に探し出さないと、そう思った瞬間だった。不意に木の根につまづいて、ぐらりと体が傾く。
なんでこんな時に限って……!
内心苛つきつつも、咄嗟に近くの幹に手をついて体制を整える。危ない、地面に顔から突っ込むところだった。
ほっと息をつく視界に、ふと赤色が映った。赤、そう認識した途端真っ先に連想されるのはもちろん白雪で。
反射的にそちらを確認する。
「……ハンカチ?」
振り向いた先にあったのは、赤色の布切れ。残念ながら探していた人物ではなかったが、しかしすぐに目を見開いた。
──白雪のものだ。
慌てて駆け寄り、ハンカチを拾い上げる。軽く叩いて土や葉を落とすと、四つ角のうちの一つに見覚えのあるマークがあった。
林檎の刺繍。
それは、ずっと前に私が白雪に贈ったプレゼントだった。だから、森の中に置き去りにされたこれが、彼女の持ち物であると断定するには十分すぎた。
じわじわと体の奥から冷たくなっていくような感覚に陥る。もちろん、ただ落としてしまっただけ、という可能性だって存在するけれど……。
白雪らしくない大幅な遅刻。残された彼女の持ち物。何より、この夕焼けにすら気づかないのはさすがにおかしいのではないだろうか。いくつかの不自然が重なったことで、何かが彼女の身に起きたとしか思えなかった。
どうしよう、どうすればいい。
今更ながら白雪と別行動をとったことを後悔した。焦燥にかられて嫌に鳴り響く心音を無視して、流れてきた冷や汗を腕で拭う。悪い方向へばかり想像する自分を振り払うかのように咄嗟に走り出した。
弱気になっていたって仕方がない。どこを探せば良いのかなんて全く考えつかなかったけれど、ここで立ち止まっていても白雪を見つけることは絶対に叶わないということだけは確かだった。
彼女なら、白雪ならばきっと前を向く。何があっても諦めはしない。そんな絶対的な信頼が今の不安定な心を繋ぎ止めていた。
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「ぜ、全然見つからない……!」
なんで!? と、誰も答えてはくれない問いを心の中で叫ぶと同時、森の中を駆けずり回っていた体がとうとう限界を迎え地面に膝をつく。上体を前に倒し荒い呼吸を整えながらも、頭では常に最良を探すために思考を巡らせていた。
流れる汗を拭う気力も暇もない。左目を覆っていた眼帯は、視界が狭まって邪魔だったので早々に外してしまった。
そもそも、探す範囲が広大すぎるのだ。故郷の森ならいざ知らず、こんな今日初めて訪れた場所など何処から探せば良いのやら皆目見当もつかない。しかも、恐れていた夜が訪れてしまった。見上げた空ではすでに陽の光は鳴りを潜め、暗がりの世界を創り上げている。
ただでさえ樹々に遮られて光が届きづらいというのに、最悪なことに灯りになるようなものを一切持ち合わせていない。カンテラもマッチも白雪が持ってくれていたのだ。まさか、その判断がここに来て災いするとは思わなかった。
ぐっと目を細めて遠くを見遣るも、夜目に自信があるとは言い切れない私の目では先まで見渡すことは不可能である。
「(せめて灯りがあれば……)」
そんな無意味なたらればを心の中で吐き出した、刹那。
がさり、と何かが草むらを揺らす音にはっと我に帰った。反射的に身を低くしてそちらを警戒する。もしかしたら白雪にも関与している“何か”、もしくは“誰か”かもしれない。
がさがさと音を立てながら、ゆっくり近づいて来る様子を固唾を飲んで見守る。やがて、がさっと一際大きな音と共に目の前にひょっこりと現れた“それ”を認めると同時、睨むように細められていた目が思わず丸くなった。
何の警戒もなく姿を現した“その仔”は、つぶらな瞳でこちらを見つめ無邪気に首を傾げた。
「っわん!」
「え、犬……?」
何でこんな時間にこんな所に……?
危険な存在ではなかったことにまず安堵し、それから無数のはてなを浮かべた私は彼(もしくは彼女)と同じように首を傾げる。呆けたようにぱちぱちと瞬いている間に、その犬は小さな身体をちょこちょこと動かし、こちらに近づいて来た。
ぶんぶんと尻尾を振って躊躇いもなく寄って来るということは、人には随分と慣れているようである。可愛らしさに思わず手を差し伸ばすと、興味津々に鼻を近づけ、次いで座り込んでいた私の足に前肢を乗せた。
「……! 君、もしかして迷子?」
「くぅん……」
身を乗り出すような姿勢から見えた頸元には、少し汚れているもののリボンが巻かれてあった。野生ではないことは確かだろう。
彼もそれを肯定するかのようにしゅんと尻尾を垂らした。不安げな表情でこちらを見上げるその瞳が潤んでいる錯覚に陥って胸が苦しくなる。少しでも不安が解消されればいいと願いながら、そっと抱き上げて優しく撫でると彼はすりすりと顔を寄せてきた。
その可愛らしさからか、はたまた一人ではないという安心感からか自然と口元が緩むのを感じた。どうにかこの仔の飼い主と再会させてあげたいと思考が働いたが、すぐにそれは難しいと思い直す。何を隠そう、私も彼とそれほど変わらぬ状況にあるのだから。
現状に打ちのめされ思わずため息をつきそうになった時、はっと妙案が浮かんですんでのところで息を呑み込んだ。
犬を体から離して目線を合わせる。きょとりと目を丸くしたような彼とは対照に、私はこの絶望的な状況から抜け出すための一筋の希望を掴み取ったと確信し笑みを浮かべた。
賜るは会心の一手