プロローグ


 毎日が灰色で、色褪せているようだった。
 自分は何者で、何をしたいのか、どこに行きたいのかもわからない。曖昧で宙ぶらりんな心は、けれども、ここではないどこかを確かに求めていた。

(えっと、これと……これ、必要かな……?)

 ある日、ふと旅に出ようと思った。
 行き先が明確にあったわけでも、旅行や観光を目的とした明るい理由でもなくて。ただ、この場所から離れて、どこか遠くへ行きたかった。逃げ出してしまいたかった。
 でも、旅なんて初めてだったから、何が必要かもいまいちわからない。私にできたのは、以前に耳にした旅のコツを思い出しながら、なるべく荷物を少量にとどめることだった。確か、身軽な方がいい、と言っていたはず……。
 果たして、それが正しい選択だったのかは不明だけれど、おかげで準備はそれなりに形になった気がする。だって、何かしらの指針がないと、私はきっと迷ってしまうから。

(本当は旅じゃなくて、家出なんだけど……)

 “旅”なんて言葉を使ったけれど、実際は誰の許可も得ずに家を飛び出そうとしているだけだ。
 いけないことだというのはわかっている。わかっているけれど、もう決めたことだった。今更やめるつもりはない。
 思えば、こんな風に自分の意思で行動を決めるのはこれが初めてかもしれなかった。

「……あとは」

 小さく囁き、忘れ物はないだろうかと改めて部屋を見渡した時、ふと自分が映る姿見が目に入った。
 格好に不自然なところはない、と思う。むしろ、勢いで決めた割にはそれらしく見えた。にも関わらず気分が落ち込んだのは、不安がありありと浮かぶ、頼りない表情が目の前にあったからだ。
 ここまで来て、なんと情けないことか。とても家出を決めたと宣うひとの顔ではない。
 ひどく惨めな気持ちになって鏡の自分から目を逸らす。逃げるように部屋の窓に急ぎ足で向かうと、鏡に映っていたその人物も同じ動きで姿を消した。当たり前のことなのに、何故だか自分自身にすら見放されたような心地になった。
 窓の外は真っ暗だった。けれど、月明かりが仄かに地上を照らしているし、遠くの方では小さな町の夜景も見えた。完全な暗闇ではない。

(はやく、行かなきゃ……)

 深呼吸を何度か繰り返し、マイナスな気持ちが出ていくように願う。
 そっと窓を開くと、少し肌寒く感じる外気が頬を撫でた。緊張がちょっぴり和らいだ。……ような気がする。
 とにかく、早くしないと。
 でないと、決心が鈍ってしまいそうだった。もたもたしていて誰かに見つかるのも避けたい。見通しの悪い夜を選んだ意味がなくなってしまうから。
 窓枠に足をかけ、ひと思いに空中に飛び出した。
 できるだけ静かに、音を立てないように意識した。ふわりと着地すると、本当に家出をするのだという実感がわいてきて、一瞬体が鉛のように重たくなった。今にも誰かの咎める声が聞こえてきそうで恐ろしい。
 でも、ここまで来たのだから、と自分を鼓舞し、恐怖を振り切るようにその場から駆け出した。
 門を越える前に一度振り返ったのは、染みついた癖とも言えたし、性格のせいとも言えた。
 少し悩んで、口を開く。

「……行ってきます」

 微かな音で紡いだ形式的な言葉は、誰の耳にも届くことはなく、静かな夜の闇に消えてしまった。
 当然だ。周囲の期待に添えない“家出”を選んだのは、他でもない自分なのだから。