踏み出すはじめの一歩



誰に連れ戻されることなく街のホテルまで向かうことに成功した私は、持ち出したお金を頼りに部屋を借りて一先ずそこに身を落ち着けた。持っていた荷物を足元に起き、半ば崩れるようにベッドの端に腰掛ける。ぽすんと程よい弾力に小さく弾む体と、張り詰めた風船から空気を逃がすかのように抜ける肩の力。どうやら思っていたよりもずっと気を張っていたらしい。家を出ると決めたのはもう随分前の話なのに、どこまでも優柔不断な自分にほとほと呆れた。

ここまでの道のりはそれほど長くはなかったし、険しい道など存在しなかった。街も越えていなければ、もちろん山も海も跨いではいない。本来であれば疲労の蓄積はそれほどないはずなのに、何故か鉛のように体が重く感じるのは、ひとえに心の弱さにあるのだと理解していた。体調不良なんて都合の良い言葉は許されない。もっと薄暗くて醜いような、そんな感情から引き起こされた倦怠感にも似たものだった。

取り返しのつかないことをしてしまったと後悔し、嘆いたってもう遅い。全てが今更で、あの時に門前で立ち止まらなかった自分の責任なのだ。しかし、そうやってあらゆる言葉を並べ立てても、小さな達成感と反抗心は強大な負の感情を前に急速に温度を無くし、簡単に塗り潰されてしまうのが常だった。

とうとう支えきれなくなった体は、そのまま静かに後ろへと倒れる。そっと目を閉じて、その上に覆うように片腕を置けば、元々明かりを弱くしていたその部屋の光は瞼の裏へは届かなくなった。


「……どうしよう」


考えたって仕方がないのに、そう思わずにはいられなかった。いくら以前から決めていた強行だったとしても、ほとんど勢いと意地で飛び出してきたものだから、行く当てなどどこにもなくて。どうしよう、ともう一度思う。いくらぐるぐると考えていても、答えは一向に見つからない。

普段よりも気を張っていたからだろうか。思考の海を漂う内に訪れた眠気に誘われ、だんだんと薄れる意識の端で、ただ漠然と強くなりたいと願う。何もかもが不明瞭な中で、その気持ちだけは本物であったし、それだけははっきりと自覚していた。





気がついたら朝になっていた。ゆっくりと瞼を開いた先、一番初めに目に映ったその部屋の天井が見慣れた自室のものではないことを察し、驚きから一気に意識が覚醒する。慌てて飛び起きた数秒後に、そういえば家出して来たのだと思い出した。

ほとんど使用前と変わらない室内を礼儀として軽く整えると、素早くチェックアウトを済ましてその場を後にする。私が居ないことを悟られる前に、家の者の手が届かないどこか遠くの地に向かいたかった。家を飛び出した数時間後に連れ戻されるなど、笑えたものじゃない。目的地は決めていないけれど、この状況でじっとしているのも落ち着かないし、そもそも家を抜け出したことがもうすでに知られている可能性だってあるのだ。殊更ゆっくりなどしていられなくて、早々にこの街を出ることにした。

しばらく街を歩いていると、時間の経過を表すように人通りが増えてきた。雑踏とまではいかないが、ちらほらとすれ違う人々の目を避けるように移動してしまうのは、おそらく今現在置かれているこの状況の後ろめたさからだろう。そそくさと逃げるように路地裏から路地裏へと移動を繰り返していると、不意に甘い香りが鼻腔を掠めた。

まるでケーキの生地が焼き上がるような、そんな甘ったるくも心躍らせる香りが辺りに漂い、図らずも空腹が刺激される。先を急ぐあまりに朝食を食べていないのが裏目に出た。こんな場所で油を売っている場合ではないことくらいわかっているのに、ふらふらとつい導かれるように匂いの出所を探ってしまう。


「……あ、」


何個目かの角を曲がった先だった。代わり映えのしないただの壁が続いていたそこに、一つの扉が現れる。路地裏の特性上光が差し込みづらく薄暗い故に、少し不気味な雰囲気を醸し出している場所。カフェ……だろうか。しかし、重厚な木の扉には営業中の札もなければ、準備中の札も見当たらない。

入ってもいいのだろうか。じっと扉を睨みつけるように少し悩んで、外装的に店であろうと勝手に推測した。そっとノブに手をかける。万が一にも民間人の家であった場合に備え、ゆっくりとなるべく音を立てないように扉を開いた。