踏み出すはじめの一歩
ひとまず最寄りの町のホテルにやって来た。
今のところ特に問題は起きていない。ここまでの道のりに険しさはなかったし、迷うほどの複雑さもなかった。一人で外出する子供を訝しんで、通報されるといった事態にもおそらくなっていない。
そもそも時間が遅いので、外を出歩く人がほとんどいないのだ。ホテルの関係者も仕事だからなのか、こちらの事情を深く聞いてこようとはしない。
あれほど怯えていたのが何だったのか、というくらいには穏やかに事が進んでいた。……進んでしまっていた。
自分にとっては良いことなのに。誰かに止めてほしいわけではないのに。何故だか、どうしても漠然とした不安に襲われてしまう。
だって、こういうの……上手くいきすぎていて。嵐の前の静けさみたいだ。
(……なんだかすごく、疲れたな)
ベッドの端に腰かけると、程よい弾力が体を受け止めてくれた。
身体的な疲労はないと思っていたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。張り詰めた風船から空気が抜けるように、ほんの少し気が緩む。すると、今まで考えないようにしていた後悔に似た懸念が頭の中で渦を巻いた。
本当にこれでよかったのだろうか、と。
家を出ると決めたのは自分自身なのに、どこまでも優柔不断な己にほとほと呆れた。
取り返しのつかないことをしたと悔いるのなら、嘆くのなら、最初からやるべきではなかった。心が弱くて嫌になる。
全てが今更だ。あの時、あの瞬間、門前で立ち止まらなかった自分の責任なのだから。
仮に、もし。今から戻ったとして。誰にも今回の家出がバレなかったとして。ならば、何食わぬ顔で日常に戻れるかと言ったら、それもまた無理な話だった。
私の中にはもう家出を実行に移したという事実が生まれてしまった。その記憶や感情の全てをまっさらにして、なかったことになんてできない。私はきっと、一生、その過去を引きずっていく。
とうとう倦怠感に押し負け、そっとベッドに横になった。目を閉じて、その上から覆うように腕を置くと、ベッドサイドの淡い照明は瞼の裏へは届かなくなった。
(これから、どうしようかな……)
どうするも何も、戻れないのなら進むしかない。わかってはいるけれど、ほとんど勢いと意地で飛び出してきたものだから、今後の計画が何もなかった。
とにかく家からはなるべく離れた方が良いだろう。でも、具体的にどこへ向かうべき……? 遠くへ行けたとして、そのあとは……?
終わりのない思考の海を漂ううちに、いつの間にか眠気に誘われていた。
だんだんと薄れゆく意識の端で、ただぼんやりと強くなりたいと願う。何もかもが不明瞭な中で、その気持ちだけは本物だったし、それだけははっきりと自覚していた。
♦︎
気がついたら朝になっていた。
ゆっくりと瞼を開いた先。そこに広がる光景が見慣れた自室のものではないことに驚愕して、びゃっと飛び起きてしまったのは恥ずかしい思い出である。
言いわけをすると、噂に聞く誘拐かと思ったのだ。家出をしたのだから、家にいないのは当たり前なのに……寝ぼけていたみたいだ。
(誰にも見られてなくてよかった……)
身支度を済ませて、ほとんど使用前と変わらない室内をできるだけ丁寧に整えたあと、急ぎ足でホテルを後にした。
この辺りはまだ十分に家から離れられたと言える距離ではない。私が自室に居ないと悟られる前に、家の者の手が届かないような、どこか遠くの地へ行かないと……。目的地は決めていないけれど、この状況でじっとしていたら、きっとすぐに見つかって連れ戻されてしまう。それは……嫌だ、と思う。
そもそも、家を抜け出したことがもうすでに知られている可能性だってある。そう考えると、尚更ゆっくりなどしていられなくて、早々にこの町を出るのが賢明に思えた。
しばらく街を歩いていると、時間の経過と共に少しずつ人通りが増えてきた。家出という後ろめたい理由があるせいで、すれ違う人々の目が気になってしまう。つい避けるように移動を繰り返していると、通る道は自然と表通りではなく、薄暗い路地裏ばかりになっていた。
そんな時、ふと甘い香りが鼻を掠めた。
それはケーキの生地が焼き上がるような、あるいは完熟したフルーツのような。甘やかで、心おどる香りだった。
今まで忘れていた食欲が呼び戻される。そういえば、緊張で何も食べる気になれなくて、今日は水くらいしか口にしていない。
先を急ぐのなら、こんな場所でのんびりしている場合ではないのに、なんとなく惹かれて匂いの出所を探ってしまう。
「……あ」
いくつかの角を曲がった先だった。
特に変わったところのなかった路地の隙間に階段を見つけた。人がぎりぎりすれ違えるくらいの狭い階段だ。一階分ほど下りたところに重厚な木の扉もある。そこには営業中を示す札も飾られていた。
(香りが強くなった気がする。たぶん、ここがお店かな……?)
喫茶店だろうか。店名らしきものが見当たらず、どんな場所なのかを想像するヒントがない。植物や香水のような甘さとは違うから、料理を提供するお店だとは思うのだけれど……。
もともと薄暗い路地裏なのに、そこは地下に位置する分、さらに光が差し込みづらくなっていた。それが少し不気味で、余計に近寄りがたい雰囲気を作っているのかもしれない。
ちょっと、かなり、しばらく葛藤したあと、結局は空腹と好奇心に負けて、恐る恐る一歩を踏み出した。怖いけれど、なんだか物語に出てくる秘密のお店みたいにも思えたのだ。
慎重に階段を下り、扉の前で呼吸を整える。そうして、気持ちを落ち着けてから、そっとドアノブに手を伸ばした。