前世の記憶の中に“夢色パティシエール”という知識があったとして、それが今、自分が生きているこの世界だと気づくことのできる人間が一体どれだけいるだろうか。ましてや、主人公の立場にあるだなんて想像すらしないことだ。
 きっと、わからない方が幸せだった。気がつかない方が楽に生きられた。けれど、もう知らなかった頃には戻れない。

 漫画やアニメを追っていくうちに、魅力的な登場人物に憧れを持ったり、羨ましく思ったりした経験は確かにある。一度でいいからその世界へ行ってキャラに会ってみたいとか、異世界でのんびり過ごしたいとか、そんな冗談が織り混ざった無責任な妄想をした覚えもあった。
 でも、どれも決して本気ではなかった。現実に起こり得ないとわかっていたから、あえて叶うなと祈ることもなかった。

 現実世界のファンタジーは手の届かない安全が約束された娯楽だった。現実にはない出会いや魔法や環境に想いを馳せるのは楽しかった。しかし、いざ自分の身に降りかかると理不尽の塊でしかないらしい。唯一、バチバチのバトルや魔族などの異世界らしい異世界要素がないのは助かったが、だからこそこの世界に気づくのが遅れた原因とも言えた。
 この状況を嬉々として楽しめる猛者がいるだろうか。残念ながら、私には到底楽しめそうもない。昔から輪の中心にいるよりも、一歩離れた外側で眺めている方が好きだった私には。


♦︎


 今世から逃げ出したいと思いつつも、自死を選ぶほどの勇気も度胸もなかった。そんなどっちつかずの私にできることと言えば、だらだらと惰性で日々を消化していくことだけだった。
 いつも通りに中学へ向かい、いつも通りに退屈な授業を受け、いつも通りに友人に調子を合わせて凌ぐ。現在は、代わり映えのない長々しい授業の最中である。

 教師に見つからないようにちらりと辺りに視線を走らせると、部活の疲れからか、はたまた勉強が嫌いだからか、机に顔を伏せている者がちらほらと窺えた。真面目に授業を受けない輩はどこの世界も共通して一定数いるらしい。大抵は大人になってから後悔するものだが、彼らはまず定期テストという近い未来で自滅するのだろう。
 かくいう私もあまり授業に身が入っていない一人だった。当然だ、毎日がつまらない。
 馬耳東風。教師の声が意味を伴って聞こえてこない。ぼんやりと窓の外を眺める。あ、雀が飛んで行った。


「──天野さん」
「……」


 自席は窓側の一番後ろという所謂主人公席だった。落書き、昼寝、考え事などやりたい放題できる人気の高い位置。
 まさか、これもヒロイン補正か何かなのだろうか。もしそうだとしたら、これ以上に要らないものはない。余計なスペックは付与するだけ無駄だ。私にヒロインの座は重すぎる。誰かにあげられるのなら迷うことなく譲渡するだろうし、可能なら今すぐダストシュートしてしまいたい。


「──天野さん!」
「っ、はい……!?」


 唐突に呼ばれた今世の苗字に思考を遮られ、一気に意識が覚醒した。驚きから速まる鼓動を落ち着けようと努力しながら声を追うと、何やら訝しげな表情の教師と目が合った。
 あ、まずい。
 一瞬でそう悟ったものの、その時にはもう後の祭りだ。


「天野さん、ちゃんと聞いていましたか?」
「すみません……」
「前に出てきて、この問題を解いてください。話を聞いていたなら解けるはずですよ」
「え……、はい」


 この人鬼畜だなあ。話を聞かずにいた自分の落ち度を棚に上げ、そんなことを思う。
 きっと、聞いていないと知っていながら問題を解かせようとしている。みんなの前で恥をかかせようとしている。
 とはいえ、拒否するわけにもいかず、仕方なく席を立ち上がった。


「要ちゃん、大丈夫……?」


 ふと、席が近い『みよちゃん』という友人が小声で話しかけてきた。心配そうな顔をする彼女にゆるりと微笑みを返す。
 大丈夫だ。問題ない。私は人生二週目だもの。


「あら……? 正解よ、ちゃんと聞いていたのね」


 黒板に書かれている数式を大して悩むことなく解き終わると、教師はやや安堵したように表情を緩めた。普段は優等生ムーブで波風立たせないように生活しているから、私の態度に少し不安があったのかもしれない。愛想の良い控えめな笑みを心がけ、ぺこりと会釈で肯定や謝罪を演出してみせる。
 人生二週目のチートはこういう時に便利だった。勉学や人間関係に関して周りよりも少しだけ余裕がある。少し、というのはなまじ精神的にはすでに大人と呼んでも差し支えないがため、中学生とノリを合わせて擬態するのが大変かつ複雑だからである。


「では、今日の授業はここまでです。みなさん、復習をよくしておくように」


 席に戻るとちょうど授業が締め括られ、号令ののち、教師は教室から退出した。どうやら終了の時間が迫っていたらしい。
 数十秒前まで寝ていたはずの生徒がここぞとばかりに生気を取り戻す。


「要〜。さっきはドンマイだったね」
「うん、ちょっとびっくりした」
「見ててヒヤヒヤしたよ〜。当てられたのは要ちゃんなのに、私がドキドキしちゃってた」
「わかる〜」


 ドンマイとからりと笑ったのは『たかちゃん』で、ヒヤヒヤしたと言いながら自分の胸へ手を当てるのは先程も心配してくれた『みよちゃん』。その隣に苦笑いを浮かべた『あこちゃん』もやって来た。
 三人は特に私に良くしてくれる人たちだ。原作知識と照らし合わせてもすぐに浮かぶ顔ではないので、少なくともメインキャラではないだろう。こんな見方をしてしまう自分が嫌だけれど、物語に関わりたくないという我を通すには重要なポイントだった。
 しかし、彼女たちの気遣いは本物だろうから、間違っても本心がバレないように優等生の仮面を被る。その優しさに心の中で感謝しつつ、柔らかな笑みを作った。


「そういえば、要ちゃん。休みの日に妹さんの発表会があるんだっけ?」
「ああ、うん。そうだね。今週の土曜日に……って、もう明日だ」


 何気なくカレンダーを見やれば、今世の妹の発表会が目前に迫っていることに気がついた。やたらと月日が経つのが早いと感じるのは周りよりも精神年齢が高いからだろうか。


「発表会……? あ、要がこの前言ってたやつか」
「妹さん……なつめちゃんだっけ? ピアノすごく上手いんだよね!」
「もちろん見に行くんだよね? なつめちゃんのために!」


 何故か無駄にキラキラと輝く視線を向けられ、少し居心地が悪くなる。けれど、「見に来てほしい」と本人に頼まれているのは確かだった。
 戸惑いを隠しながら頷くと、こちらを観察する三つの表情がぱあっと華やいだ。


「だよね、天野家仲良いもん!」
「……まあ、約束してたからね」
「出た! 要のシスコン〜!」
「そんなのじゃないよ……」
「ふふ、照れなくていいのにぃ」


 そんなのじゃない、本当に。
 だって、私は“いちご”じゃないから。天地がひっくり返らないのと同じように、私も彼女と同一の存在にはなり得ない。
 本物の家族だったなら、きっとこんなにも複雑な気持ちを抱かずに済んだのに。

日常
(成り代わってしまった生活)
(果たしてそれは“日常”と呼べるのか)