目の前に表示された現実は、やはりひどく残酷だった。
 ガツンと頭を殴られたような衝撃に、ひゅっと息を呑む。心臓は大きく脈打ち、無駄に鼓動を速めていく。
 思わず「嘘だ」と呟いた気がするが、それすら耳に入ってこなかった。瞬きを忘れるほどに画面を凝視し、両手はキーボードの上で金縛りにあったように固まっていて。壮絶な緊張感に喉がひりひりとした。


──“夢色パティシエール”検索結果ヒット0件。


 おいおいおい、待て待て待て。
 そんなことあり得るか……?
 あんなに有名な作品だぞ?? アニメの放送や原作の連載が終了していたとしても、必ず何かが引っかかるはずではないか。全く『ない』なんて、それこそ『ない』だろう。

 到底信じられなくて、信じたくなくて。検索ワードを変え、工夫し、何度も試してみた。けれど、結果は依然として変わらず……。一切ヒットしないどころか、題名の似た作品すら出てこないときた。
 あるのは、『パティシエール』の単語に引っ張られた職業紹介ページや専門学校などのリアルに基づく話だけ。探している対象は三次元ではなくて、二次元だというのに──。
 看過できない『とある可能性』がいよいよ真実味を帯びてくる。


「わ、私、ちょっと出かけてくるっ……!」
「え、要? どこに……って、もう。気をつけていくのよー!」


 居ても立っても居られなくて、咄嗟に家を飛び出した。母の声にろくに返事もできないほど、気が急いていた。余裕もなかった。なりふり構わず玄関を抜け、目的の場所へとただひた走る。
 あの検索結果が本当に事実なのか。ネットよりもずっと確実な方法で確かめたかった。
 違う、と。杞憂だ、と。
 自分の中の不安を取り払い、安心したかった。それほど遠い距離でもないのに道中はやけに長く感じられて、ひどくもどかしい思いをした。


「──申し訳ございません。そのような作品は当店にはございませんでした。確認も致しましたが、作品自体が存在しておりません。題名を間違われているのかもしれませんね……」
「そう、ですか……。すみません、ありがとうございました」


 本屋は最後の頼みの綱だった。しかし、結果は案の定玉砕。
 なんとなくわかっていた。わかっていたけれど、あまりの仕打ちにグラグラと視界が、世界が揺れるようだった。血の気が引いて、肌が粟立つ。こちらの勢いに若干圧倒されていた店員の反応(今思うと申し訳ない)も、その時ばかりは気にならなかった。ふらりふらりと覚束ない足取りで帰路に着く。

 “夢色パティシエール”の情報が一切存在しなかった理由。
 それは、きっと『この世界そのものが作品における舞台』だからだ。

 そして、同時にもうひとつ。
 ここが“夢色パティシエール”の世界だとするならば、連鎖的に恐るべき事実も浮上してしまう。

 聖マリー学園。己の祖母。家族構成。
 確証はない。そうだと断定してくれる相手もいない。しかし、自分と、記憶から呼び覚ました『その存在』とを比べると驚くほどに共通点が多くて。それはもう、無視できないほどにあふれていた。
 一度気づいてしまうと簡単だった。だって、周囲にはこんなにもヒントがあったのだ。何故、今までその可能性を少しも疑っていなかったのか。自分のことながらほとほと呆れる。

 震える指で、最後の決定打となったそれにゆっくりと触れる。指先でなぞったのは自分の家の表札だった。
 そこには、しっかりとこう刻まれている。

『天野』と。

 固く、冷たい石の感触にじわじわと体温が蝕まれてゆく。春の陽気なんて全く感じられなかった。世界から色が、音が、遠ざかる。
 まるで、世界にたった一人取り残されたような孤独感。いや、この瞬間、私は間違いなく独りぼっちになったのだろう。だって、このどうしようもない喪失感も、取り返しのつかない罪悪感も、解決の糸口がない絶望感も、何もかも。その全てが他人には……特に、この世界で生きる人々には想像もできないような葛藤だったから。


──あの『天野いちご』に成り代わってしまった。


 文字通り次元の違う『作品内ここ』に、この言葉の意味を正しく理解できる者が居るならば、早急に私の前まで連れてきてほしかった。




 夢色パティシエールは、前世で好きだった物語のうちの一つである。
 主人公は“いちご”という可愛らしい女の子。スイーツが大好きで、とあるきっかけにより聖マリー学園に編入し、そこで出会う仲間たちと共に様々な困難を乗り越え、技術的にも精神的にも成長していく──そんな素敵な物語。

 私の一番好きな登場人物は“いちご”だった。『何の取り柄もない』なんて言いながらも、諦めることは決してしないのだ。努力を怠らず、少しずつ進歩して、みんなからの信頼を勝ち取っていく姿はまっすぐで。とても眩しくて。魅力的で。自然と応援したくなってしまうような、太陽みたいな女の子だった。
 しかし、どうやらこの世界に“いちご”は存在しないらしい。他でもない成り代わりが居るせいで。

 なんと嘆かわしいことか。ここに必要なのは彼女であって、それ以外の誰かではないのに……!
 仮に、“いちご”ではない誰かが存在を許されたとして、それが私である理由はなんだと言うのだろう。望んだ覚えも、願った記憶も、こちとらひとつもない。この居場所は彼女だけのものであるべきで、他人が割り入る隙などないはずだ。そうでなくてはならない。世界のシナリオを動かす言葉も、行動も、“いちご”本人でないと意味がないのだから。

 そこまで考えて、この世の終わりかのような重苦しいため息を吐き出す。実際、気分は最悪だった。自分の好きな人物を、あろうことか自分の存在で圧殺してしまったのだ。あまりにもつらい。心はこれでもかと沈んでいた。故意ではなかったとはいえ、そんなものは何の慰めにもなりはしない。
 だって、自分を正当化したところで彼女が居ないという現実は変わらない。変わってはくれないのだ。
 のろのろと緩慢な動作でベッドから起き上がる。部屋の片隅にある姿見には“いちご”そっくりな顔立ちの少女が映っていた。その少女は死んだ目でもって、本人とは程遠い可愛らしさのかけらもない自嘲を浮かべている。


「(……絶対、原作通りになんてしてたまるか)」


 特に、物語の主な舞台である聖マリー学園には死んでも生きたくない。
 自分が主人公なら何をしても良いじゃないか、なんて開き直った気持ちからでは決してない。あの作品は彼女が主人公だからこそ、成り立っているのだと思うから。その立場を奪ってしまった自分がのうのうと彼女の辿るはずだった軌跡をなぞれるわけがない。烏滸がましく成りきるつもりもないし、そもそも自分にあの主人公と呼ぶに相応しい“いちご”が務まるとも思えなかった。

 ただ、一つ懸念があるとすれば、“私”が聖マリーに行かないことで今後の物語に何か不都合があるかもしれないという点だった。主人公の不在で物語が破綻してもおかしくない。けれど同時に、元々はお菓子作りを学ぶ専門学校なのだから、“いちご”を取り巻く少女漫画的な筋書きがなくなるだけで、そこに生きる人々は変わらず学園生活を謳歌できるだろう、とも思う。
 後者は希望的観測が少なからず含まれていた。しかし、どちらにせよこんな曖昧でふざけた存在の自分が行くべき学園ではない、と。何度思考を巡らせても、その考えは覆らなかった。

 あそこは真剣に夢を追う者が行くところだ。“いちご”たちが大きく成長する場所だ。
 故に、『物語の登場人物』ではない私が存在して良い場所ではないのだ。

 どうしようもない罪悪感は身を焦がすようで、いっそ私の存在ごと燃やし尽くしてくれたなら、と叶うはずもないもしもを夢想した。

蝕むはその立場
(私のせい、だよね……)
(……)