「次だね、なつめの番」
「でも、あの子大丈夫かしら……? こんな大きなホールで演奏するの初めてだから……」
「心配ないさ。先生もお墨付きをくれたんだろ?」
“第48回虹ヶ丘音楽コンクール”と大きく掲げられた会場にて、すでに何人かの演奏が終了していた。
次がようやく妹の出番だ。一つ前の演奏者が裏方へ戻っていくのを確認し、パンフレットに視線を落とす。声をひそめ、何気なく話題を振ると、母は思いの外に緊張した面持ちだった。対照的に、父はどこかあっけらかんとしている。
進行役の女性の軽い紹介を挟み、ついにその時がやってきた。
見慣れた姿が舞台の端から現れ、一瞬だけ何か熱いものが湧き上がった。しかし直後、私たち三人の空気はぴしりと凍りつく。間違っても歓喜や興奮ではない。父の言葉にやや落ち着きを取り戻していた母も、マイペースに構えていた父も、なつめなら平気だろうと心配していなかった私も、みんなが揃って顔を引きつらせていた。
「(な、なつめ……マジか……)」
ギシッギコッ、と聞こえてきそうなほどに固い動き。しかも、見事に片手片足が同時に出ているときた。どこぞのロボットの真似だ?? さらに、観衆へ向け一礼をした際には持っていた楽譜が横からぱらぱらと落ちていくではないか。
私たちの心は綺麗に合致した。「やべぇ」と。
なつめは完全に緊張しているらしい。朝はそんなものとは無縁に見えたけれど、本番を前にしてさすがに平静を保っていられなくなったのだろうか。遠目でははっきりと表情は窺えない。それでも先程の動きと今の様子が彼女の心の全てを物語っていた。
ピアノの前に座っても一向に演奏が始まらない。観客はざわつき、またそれに焦るという負のループ。自身の両手を見下ろす様は痛々しかった。
極度の緊張で体が思ったように動かないのだとわかっていながら、私にできるのは心の中でエールを送ることだけ。
歯痒くとも仕方がない。そう、思っていたのだけれど……。
刹那、なつめの目にキラリと光る雫が見えた時、思わず立ち上がっていた。何をしようとか、どうしたらいいかとか、具体的な解決策は何もなかったのに。ただ、何かしてあげたくて。焦燥にも似た衝動に突き動かされていた。
私は普段の彼女を知っている。本人の才能は確かにあれど、それに胡座をかいて努力を怠るような性格ではないことを。母の厳しい教えに弱音を吐こうとも、練習には手を抜かないことも。
そんな風に頑張り屋な彼女の夢を、大事なチャンスを、こんなところで終わらせてたまるか。
「よっ、待ってましたー! 虹ヶ丘の天才ピアニスト! 今日聞くの楽しみにしてたんだから、さくっと弾いて優勝しちゃってー!」
馬鹿みたいに明るい声が、本来ピアノの音が響くはずの会場に場違いにも反響した。ざわついていた観衆は途端にしんと静まり返り、一拍ののち、代わりにわっと笑い声が伝播する。母が身を乗り出して恥ずかしいからやめてくれと無理やり私を座らせた。いや、一番恥ずかしいのはこの私だが??
とはいえ、ステージ上のなつめがぷっと吹き出したのを見るに、どうやら道化を演じた甲斐があったようだ。ほっと息をつき、目を閉じて耳を澄ます。
それからの彼女は好調で、綺麗な音色が会場内に響き渡っていった。
♦
繰り返されるシャッター音。明滅する光。カメラに写る三人は、きっと誰が見ても仲睦まじい家族そのものだった。
自分を除く彼らを目にするたび、これが本来の正しい在り方なのだと思い知らされる。そこに混ざる権利などないと、もう随分前からわかっていたのに。いちいち傷つき、物悲しくなるなんて。私は、救えない愚か者だろうか。
「トロフィー、もう少し高く上げてください」
「こっちに視線お願いしますー」
あの後、なつめの演奏は無事に終わり、会場には温かな拍手があふれた。そして、おめでたいことに結果もついてきた。表彰式で見事に功績を称えられた彼女はトロフィーと賞状を授与され、現在取材を受けている最中である。
隣には彼女の両親が並んでいる。カメラやマイクに取り囲まれた三人は少し緊張しつつも、嬉しそうな表情を浮かべていた。
私はその中には混ざらず、ただ、その光景を眺めていた。声はかけられたけれど、同じ場所に並び立つことなどできなかった。罪悪感や疎外感は私に平穏を許さない。離れた二階フロアから見下ろすボッチは、側から見れば赤の他人に等しかったかもしれない。
元々は何の関係もないのだから、それもまた間違いではないのだが。
なんだかとても虚しくなってきた。終わるまで待っていようと思っていたのに、気分は沈む一方でやるせない。もやもやした気持ちを切り替えようと努めて息を吐くも、一度陥った悲観はすぐには誤魔化せなかった。
結局、諦めて足を会場の外へ向けた。見ているようで、見ていない光景から目を逸らして。
当てもなく辺りを彷徨う。とぼとぼと歩く道すがら、なんとなく空を見上げた。青い背景に白い雲。眩しい太陽。空だけは前の世界と何ら変わらない。こうして見ていると、違う世界に“いちご”として生まれたなんて嘘だったのではないかとすら思う。
しかし、残念ながら現実だ。下げた視線の先、ショーウィンドウに反射する自分の姿は相変わらずだった。相変わらず、大好きなキャラに瓜二つ。
「あのー、すみません」
「え、はい。……私ですか?」
ぼんやりと意味もなく窓の奥に飾られたマネキンを眺めていると、ふと見知らぬ声が思考を遮った。反射的に振り向く。
そこには、オシャレな女性の二人組がいた。やはり見覚えはない。見た目は子供の私に何の用だろうか。何かの間違いでは? 一抹の不安が過ぎり確認のため自身を指差すも、彼女らは困った様子で頷いた。
「なんでしょうか?」
「実は私たちこの場所に行きたいんですけど、迷ってしまって」
「近くまで来たと思うんですけど……」
曰く、この辺りで開催されている“スイーツフェスタ”というイベントに参加しに来たのだが、道に迷って辿り着けないらしい。
色々思うところはあるが、とりあえず真っ先に考えたことは「何それ、私も参加したい」だった。道案内に子供(ではないが)を選ぶ人選ミス感は否めないものの、同じスイーツ好きとして協力せねばならぬという謎の使命感が湧く。
チラシに描かれた地図と辺りの街並みを照らし合わせる。程なくして見つけた看板を確信と共に指し示した。
「あれがそうじゃないですか?」
「あっ、あれです!」
「ありがとうございます……!」
律儀にぺこぺこと何度か頭を下げた二人は嬉々とした表情で会場へ向かって行った。
あなたもよかったら、と去り際に頂いたチラシを片手に逡巡する。
「(正直めちゃくちゃ行きたいな……)」
チラシと会場へ続くエスカレーターとを交互に見ながら、人目も憚らずうんうん唸る。案の定、通行人から奇異の目で見られているような気がしないでもないが、今は些細なことだった。
三人に何も言わず出てきてしまった手前、これ以上勝手に行動すべきでないのはわかっている。
だがしかし! ケーキが食べたい! 甘いものがほしい!!
過度なストレスにより、体は余計に糖分を欲していた。故に、数秒の葛藤の末に天秤は片方に傾いた。ふらふらと引き寄せられるように、足が勝手にエスカレーターに乗る。好物を前にした理性は驚くほど弱かった。
こうして、呆気なくスイーツの誘惑に負けた私は「メール送っとけばいいか」と自己完結し、のちに後悔するとも知らずに参加を果たしてしまったのだった。
引き寄せた運命
(よし、破産しない程度に食べまくろう)
(え、太る?? 知らない子ですね)