一日目



バスを降りてから数十分。ちらほらと見えていた民家がすっかりなくなって、どうやら村のはずれの方へ向かっているようだった。やがて雑木林の中にひっそりと佇む日本家屋が現れ、それを指差した母が「あれがそうよ。すっごい田舎でしょう」と笑いながら教えてくれた。


「でも思ったよりも大きくてびっくりした。買い物とか行くのには大変そうだけど」
「ええ、道に面してないのは不便ね。ちなみに実はここ、ぎりぎり四津村の外なのよ」
「え、そうなの?」
「ほとんど誤差みたいなものだけど」


肩を竦めてみせた母は家を指差していた角度を少し上げて遠くを示すような仕草で続けた。


「家の裏手のすぐ近くに森があるの。そこに小さな川があって、ちょうどそれを境に四津村と隣村が分かれているのよ」
「そうなんだ」
「それでこっちの村は四津村よりもさらに遠いところに集落があるものだから、少しでも近かった四津村に思い入れが深いってわけ」


正確には隣村だったにも関わらず、実家へ帰省する話を聞いたときに四津村と言っていたのはそういう理由からだったのか。興味本位でここから集落へはどのくらいかかるのかを聞いてみたら、さらりと一時間と答えられてぞっとした。隣村のバス停よりも四津村から向かった方が早いなんて、なんとも不思議なところに家を建てたものだ。

母の母親と父親、私にとっての祖母と祖父に迎えられて家に通される。小さい頃に会ったことがあるらしいけれど、残念ながらほとんど記憶になくて、緊張から身を固まらせる私を二人は朗らかに笑って出迎えてくれた。母が頭を撫ぜる。耳元で「この人達は大丈夫」と小さく伝えられて、首を傾げながらも頷く。妙な言い方だと思った。優しいから平気よ、とかではないのか。


「今日は疲れたでしょう。お父さんのお墓参りは明日にしましょう。夕飯の支度を手伝ってくるから、もう少し待っていてね」
「うん。ねえお母さん、さっき言ってた川を見に行ってもいい? ご飯までには帰ってくるから」
「え? ううん、そうねえ……暗くなる前に帰ってくること。約束できる? あんまり遠くに行っちゃダメよ」
「わかった、ありがとう。行ってくるね!」


また転ばないでね!と背中に念を押され、私は家を上機嫌で飛び出した。気分は探検に行くそれだった。





川が程近いところにあるのは本当のようだった。家の裏手に回ると、遠くでさらさらと水が流れる涼しげな音が聞こえてくる。人一人が通れるくらいの道を見つけて、そのまま音を辿ると数分で川に着いた。川と呼ぶには狭く、小川といった方がしっくりくるような、そんな幅の緩やかな流れだった。何気なくぴょこりとそこを飛び越えて、それから川の中を覗き込む。透明度が高いから魚でもいそうだった。

川の流れを逆に追って、特に意味もなく上流を目指す。結局魚はいなかった。せせらぎを聴きながらゆっくりと歩みを進めていると、不意に足元を何かが擽ってはたと立ち止まる。虫だったら嫌だなと咄嗟に飛び退いてから、勢いよく振り返り川とは反対を見やると真っ赤な色が静かに揺れていた。

ゆらり、ゆらり。
それは彼岸花の群生だった。


「なんだ、彼岸花か……え、なに?」
「……すぅ、……」
「な、なになになに? 何の音……?」


不意に聞こえてきた水とは違う音。小さく空気が抜けるような、これはなんだろうか。耳を澄ませると、その音は何故か上の方から聞こえてきていた。呆然と宙を仰ぐ。


「寝てる……?」


太い木の枝の上で、青と白の服が呼吸に合わせて僅かに上下している。少女か少年か、ここからでは上手く判別がつかないけれど、誰かが木の上で眠っているようだった。思わず目を瞬かせる。なんて器用なのだろう。ほう、と感心しながら数秒眺めていたら、お腹の上に乗せられていた片腕がだらりと枝から投げ出されて心臓がひやりとした。

このままではいずれバランスを崩して落ちてしまいそうだ。どうしよう。起こすべきだろうか。けれど、木登りなんてしたことないから、あの子のいる場所までは行けそうもない。そうなると自分にできること、できそうなことは一つしか思いつかなかった。


「あ、あの……! そこの人〜」
「……」
「ねえ、落ちちゃいますよ〜……!」
「……」
「…………もう、起きて! 落ちますよってば!!」
「っは、はぁ!? なにっーー」


あ、と思う。たぶん、そう思ったのはその子も同じだった。傾ぐ体に慌てて枝に手を伸ばしたけれど、起き抜けに俊敏な動きができるはずもなくて。考える間もなく、自分の体が勝手に駆け出す。重力に従って真っ逆さまに落ちる様子がやけにゆっくりに見えた。これで落ちて怪我でもしてしまったら、私が余計なことをしたせいだ。受け止めなくちゃ、どうか間に合って……!

とにかく必死で手を伸ばして、それからーー。

どさり。重いものが落ちたような鈍い音がした。耳音でかさかさと葉が擦れるような音が鳴る。落ち葉だろうか。もしかして地面に倒れたのかと思い至ると、急激に背中とお尻の辺りが痛み出した。しかもなんだか体が重い。顔を歪めながらもそっと瞼を開けて、ぴしりと体が固まった。

四つの目、と間近で目が合う。ひどい既視感に襲われて、飛び出そうになった悲鳴が喉奥につかえた。顔、ではない。お面だろうか。薄い布の面に隠されたその子の表情は見えなくて、唯一窺える口元は唖然としたように軽く開かれていた。その子の頭の後ろに夕焼けに染まったオレンジ色の空が見える。髪が空と溶け合うように光を含んで、息を飲むほどに綺麗だった。

ああ、そうか。私、ぎりぎり間に合ったのか。どうやら受け止めきれずにそのまま二人して倒れ込んでしまったらしい。状況を理解して、とりあえず安堵の息をつく。間に合わなかったらどうしようかと思った。怪我も良くないけれど、当たりどころが悪くて最悪……いや、考えちゃだめだ。助かったのだから素直に喜ぼう。

ふと目の前の子が誰かに似ているような気がして、大丈夫かと問いかけようとした言葉を飲み込む。誰だろう。誰だったかな。そもそも顔は見えないはずなのに、どうしてそんな風に思ったのだろう。無意識にそのお面に手を伸ばすと、その子ははっと我に帰ったように素早い動きで飛び退いて行った。

そんなに離れなくても……。起き上がって様子を窺うと、警戒する動物みたいに三メートルくらい離れたところにいたから思わず苦笑してしまった。確かに断りもなく手を伸ばしたら驚きもするだろうけれど。立ち上がって着ていた洋服を軽く払う。それから、未だ怪訝な様子(顔は見えないのでなんとなく)のその子に向かって一度頭を下げた。


「あの、さっきはごめんなさい。木の上で寝ているのが見えて、落ちてしまいそうだったから声をかけたんだけど……逆効果だったみたいで」
「……ほんとに見えてるのか」
「え?」
「いや、なんでもない。こっちこそ悪かった。思いっきり下敷きにして」
「ううん、いいんです。元はと言えば私のせいだし……怪我はないですか?」
「ああ、ないよ。おかげさまで」


タガタに見つかったかと思った。小さくそうぼやいて肩の力を抜くその子は、どうやら男の子のようだった。声は中性的だし、赤いリボンで一つに束ねられた髪は肩につきそうなくらいの長さだけれど、口調や仕草は男の子っぽい気がする。青と白の巫女服に似た和装をした彼は、どこか不思議な雰囲気を持っていて。普通の子供とは違うような、けれど明確に何が違うかはわからなかった。

四つ目のお面越しに、じっとこちらを見られている気がして落ち着かない。そもそもどうして四つ目なのだろうか。少し前に見た四つ目が彫られた石を思い出して、どぎまぎしてしまう。忙しなく視線をうろうろさせていると、不意に彼がこてりと首を傾げた。リィン、と軽やかな鈴の音が小さく聞こえてくる。


「ところで、おまえは? この村の子どもじゃないよな? 見たことないし。なんでこんなところにいるんだ」
「わ、私、ちょうど今日実家に帰ってきて。苗字名前っていいます。この村は初めて、だと思う。あの、あなたは……?」
「……オレは、イミゴ。四津村の子どもだよ。それより、こんな村の端っこで何してるんだ? 特別なモノなんて何もないだろ」
「家がこの近くにあるの。あっちの方。ここへは川があるって聞いたから、ちょっと見に来ただけで」
「ふうん。あっちって……おまえ、隣村から来たのか」


川の反対側を指差して方向を示すと、その先を追って顔を向けた彼、イミゴくんは僅かに驚いたようだった。へえ、と何かに感心するみたいに呟いている。まるで、珍しいものを見たかのような反応だ。不思議に思って彼と同じ方向を見たけれど、特にこれと言ってめぼしいものは何もない。ほんのりと人が通れるくらいの道を残して、ただ鬱蒼と森が続いているだけだった。


「それにしても、不思議なこともあるもんだな……。姿が見えて、会話もできて、なんて」
「何の話?」
「こっちの話。たぶんこの時間帯が特別なんだ。おまえは早く家に帰った方がいい」


ーー日が落ちる前に。

そう付け足して、彼は沈みかけている夕日を振り返った。姿に会話、時間帯に特別。どういう意味だろう。何が不思議で、夕焼けが何だというのだろうか。私には彼の方がよっぽど不思議に見えていた。イミゴくんという名前の響きもそうだし、木の上で眠っていたことも、会話の中のふとしたときの単語も、反応も見た目も雰囲気も。挙げ出したら切りがなかった。

ただ、“早く帰った方がいい”という言葉だけは素直に理解ができて、同時に母の言いつけを思い出す。そうだ、暗くなる前には帰らないと。


「ねえ、イミゴくん」


彼が夕日から目を離し、こちらに体を向ける。また、小さく鈴の音が聞こえた。


「なんだよ」
「あの、その……」


何を、言おう。私は今、何を言おうとして、彼に話しかけたのだろう。夕日の暖かな色の光が、彼の輪郭をぼかして、朧げに溶かしてしまうような気がして。なんだか、とても、たまらない気持ちになったのだ。

どうして奇妙なお面をしているの? 何のために顔を隠しているの? その巫女のような服装は? 言葉の真意は?

ーーあなたは、一体……?


「あ、明日も……! もし、よかったら……明日も会えない、かな」
「は、……」
「数日間だけ実家に滞在するんだけど、初めて来た場所だから、当然友達もいないし……だめ……?」


もじもじと両手の指先を絡めながら彼に請う。母の“言いたいことは言葉にしないと伝わらない”という教えに背を押されて、けれども居た堪れなくて後に行くにつれて声が萎んでしまった。会ったばかりの子に、しかも男の子を誘うにはハードルが随分と高い。それでも、そう願ったのはこの機を逃したら、漠然ともう彼には会えないような気がしたからで。

きっと、私は謎めいた彼のことを知りたくなってしまったのだ。一度、惹かれてしまったら、もう止まれない。

じいっと期待を込めて見つめると、彼は戸惑ったように身じろいであーうーと唸り始める。悩んでいるのがありありとわかる反応だった。どう断ろうかと言葉を探しているのだろう。数秒後に拒否される未来が簡単に想像できてしまって、ついへなりと眉を下げたら、彼がしまったとでもいうように肩を跳ねさせた。


「あ、いや……別にだめとかでは……あ〜〜」
「ごめんね、無理しなくていいよ、」
「そ……そもそも、会えるかもわからないんだよ。こんな事態、次も狙って引くなんて……」
「え?」


また不思議な言い回しだ。会える会えないだけの問題なら、待ち合わせでもしたら簡単に会えるのではないだろうか。顎に指先を当てて思案する彼は、私の考えが及ばない何かの問題と格闘しているようだった。やがて解決したのか、あるいは諦めたのか、ふうと小さく息を吐く。約束はできないぞ、と彼は前置いた。


「明日の夕暮れ時なら、もしかしたら会えるかもしれない」
「え、いいの?」
「期待はするなよ。念を押すけど、約束はできない。それと、おまえがここに来たときにオレの姿がなかったら、すぐに帰れ。待つことはするな。絶対にすぐに帰れよ」
「わ、わかった」
「今のは約束だからな。ちゃんと守れよ」
「うん、約束する。忙しいのにありがとう」


嬉しくて思わず破顔する。無理を言ってしまったのは承知しているし、申し訳ないとも思っているけれど、それでも私のために少しでも時間を作ると言ってくれたことがひどく胸を高鳴らせ、幸せな気持ちにさせた。今もなお、距離を取った場所に居て、一歩もこちらに近づこうとはしないのに、どうやら嫌われているわけではないようで安心もする。


「じゃあ、またね。イミゴくん」


彼が少し目を見張った、ような気がした。ああ、と小さく頷いて、片手を軽く挙げる。


「……じゃあな、ナマエ」


ーー多分もう、会えないけど。

その時すでに背を向けて行きと同じように川を飛び越えていた私の耳には、彼の最後の呟きは少しも届くことはなく、寂しげに揺れる彼岸花の群生に溶けるように消えていってしまった。