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 ブーブー、と不意に携帯が振動した。
 薄暗い路地裏を歩いていたネロは一瞬だけ足を止め、ポケットから今もなお振動を繰り返すそれを取り出すと、その画面に映し出された人物の名前を確認して「あらら」と小さく呟いた。
 間違いなく咎められる、そうは思いながらも通話に出ろと急かすように携帯のバイブは鳴り続けていた。不満から僅かに眉を寄せて、しかしすぐに表情を作り変えた彼女はいつもの笑みを浮かべると画面に指を滑らせる。同時に止めていた歩みも再開した。


「はいです。どうかしましたか、黒霧さん」
『どうしたもこうしたもありません、遊偽ネロ。もうすぐ決行の時間ですよ。早くこちらに戻ってきてください』
「ありゃりゃ、やっぱりそうでしたか〜。でも、すみません。用事がまだなので、もう少しかかりそうです」
『まだって……あなた今まで何をしていたのですか。すぐに済むと聞いたから目を瞑ったものを。死柄木弔も苛ついていますよ』
「それは困りましたねえ。なんとかしておいてください〜」


 微かに疲労が滲む黒霧に、全く困っていなさそうなネロの呑気な声が返される。
 電話口で、はあ、とため息がこぼされるのを聞きながら、目の前に迫った角を曲がる。『そもそも、本なんていつでも買えるでしょう。わざわざ発売日に買わなくても』耳元で続けられる言葉を半分聞き流しつつ、適当に相槌を打っていると少し先に大通りが見えた。
 ネロは通話を終えようと彼の息継ぎの合間を縫って声をかける。


「それは悪いと思ってますが、午前中に作戦会議があったから買いに行けなかったんです。おかげでどこも売り切れていて、穴場を探す羽目になりました」
『朝フラフラ出て行った時に買えばよかったのでは?』
「その時間はまだお店開いてませんよ」
『しかし、だからと言って──』
「作戦をすっぽかすな〜って話ですね? そこは大丈夫です。私も楽しみにしていましたから、次のお店でなかったらさすがに諦めます」


 悔しいですけれど……。
 そう言ったネロの声音が珍しく本物の感情を纏っていた気がして、黒霧は思わず言葉に詰まった。それから、今すぐ来てください、と伝えようとしたのをぐっと呑み込み、苦々しく『わかりました』と呟く。

 想定よりも簡単に引き下がった黒霧を意外に思いながらも、ネロは見逃してもらえたことにぱあっと花が咲いたような笑みを浮かべた。


♦︎


『ありがとうございます! 黒霧さん!』


 嬉しそうに弾む声を最後に、ぷつりと通話が途切れた。
 ゆっくりと携帯を耳元から離し、画面を見つめる黒霧に「で? あいつは」と若干平常より低めのテンションで死柄木が問うが、返ってきた肩を竦める仕草に全てを理解したらしい。彼は苛立ちを隠そうともせずに、ちっ、と舌を打った。


「この大事な時になんなんだあいつは……」
「遊偽ネロの奔放さは今に始まったことではありませんが、ここまでとは」
「大体、本なんて買わずに自分の個性で盗めば良いだろ」
「前に自分で買わないと達成感がないと言っていましたね。個性も極力使おうとはしませんし、何か特別な理由があるかと」


 アジトからやや離れた広めの路地裏には死柄木や黒霧だけではなく、この日の作戦のために集められた大勢のヴィランたちがいた。
 作戦とは『多くのプロヒーローを輩出してきた雄英高校に侵入し、そこの教師となったオールマイトを殺す』というものである。

 個性を持て余し、世界に不満のあるヴィランたちは悪の言葉に容易に賛同した。しかし、同じ方向を向いているとはいえ、ほとんどが烏合の衆。ネロが言うところの“チンピラさん”のような存在だったので、プロを相手にどこまで通用するかはわからなかった。
 それでも数十人が束になって襲い掛かれば天下の雄英でも手を焼くはずだ。と、この時点では考えられていた。特に、入学したばかりのヒーローの卵では対応もままならないだろう、と。

 黒霧が顎に手を添えて考え込む姿を横目に、ふうんと興味なさげに呟いた死柄木はその真紅の瞳をすいっと不機嫌そうに細めた。


「それより、ネロが間に合わなかったらどうする」
「そうですね。作戦開始を遅らせるわけにはいきませんから、彼女抜きでどうにかするしか……」


 ない、と言いかけたその時だった。
 マナーモードに設定されていた黒霧の携帯が振動し、メッセージを受信した。


──私が間に合わなかったら構わず先に行ってください。そちらの位置情報を送ってくだされば、すぐに向かいますので。


 表示されたなんともタイミングの良いメッセージに靄の瞳が僅かに見開かれ、横からそれを覗き込んだ死柄木も呆れたように息を吐く。確かにネロの個性ならば、多少の遅れはあってないようなものだろうが、しかし。
 彼女のマイペースさはこんな時でも健在であった。


「……まあ、いい。最悪あいつがいなくても、今日のメインは別だからな」


 ちらり、と死柄木の視線が後方に滑る。
 その先にいる、人間よりもずっと大きな黒い影。脳が剥き出しになった明らかな異常の形をしているそれは、ただ一点を見つめて微動だにしない。立ったままに死んでいるのでは、と疑うほどに異質な存在を視界に捉え、こくりと黒霧は頷いた。

 さて、この異常の塊──“脳無”にオールマイトを殺してもらおうか。

 死柄木が大衆を振り返り、掌の奥で不気味に笑みを深めた。


「──さあ、時間だ」


♦︎


「ふぅ、やあっと見つかりました……」


 ラストチャンスで訪れた本屋で見事に目当てを探し出したネロは、今し方手に入れた戦利品の紙袋を持ちながら、もう片方の手でぐいっと額を拭った。実際は汗などちっともかいていないので、全く意味はないのだが。
 店の扉の前で大袈裟な仕草をする彼女に、少なからず通行人の視線が集まる。しかし、当の本人は何のことやら。構わずにくるりと背を向けて携帯を取り出し、先程レジに並んでいる際に届いたメッセージを開く。

 表示された画面には、“作戦決行”の文字があった。

 結局、作戦開始の時間に間に合わなかったことを残念に思ったものの、その下に記載された位置情報に一瞬で気分が浮上する。
 ここに飛べばあの有名な雄英だ。どんなところだろう、作戦は順調だろうか。ああ、わくわくする。

 ともすると小躍りでも始めてしまいそうなネロは、高揚する気分をなんとかスキップすることにとどめ、人目を避けるために路地裏を目指した。さすがに、人が行き交う前で空間移動をして見せるほど彼女は馬鹿ではない。
 それを無視して、今すぐ向かいたいのはやまやまだったが。

救世主はいらないの