その日はよく晴れた休日だった。トーストされる食パンの香りとコーヒーの芳醇な香りがキッチンに漂う。
──カチャリ
背後で扉の開く音がする。ドリップされた茶色の液体はまだ落ち切らない。
「新ちゃんおはよう」
「おー、はよ」
振返ると兄の新一がパジャマのままのカウンターに腰を下ろしていた。起床時間に合わせて作られたコーヒーをマグカップに注ぎ、新一の前に置かれた新聞のその横におく。広げた新聞の一面を飾るのは、今まさに目の前でその新聞を読んでいる本人だ。
「お、豆変えた?」
「わかる? 良さげな珈琲屋さん見つけて買っちゃった」
どう? と小首を傾げれば、うまいと口の端を上げて笑う。そんな新一を見て有紗は満足そうに笑顔を浮かべて、その隣の席に腰を下ろた。
新一と同じコーヒーを一口啜り、やっぱり買って正解だったなぁと昨日の自分を褒めながら自家製ママレードを塗った食パンに齧り付けば、ほのかな甘さがコーヒーの苦味を中和させた。
「んーっ!…ちょっと新ちゃん!」
ママレードとコーヒーのマリアージュを楽しんでいると、さっとパンが手元から消えた。慌てて口の中のパンを飲み込み朝食を強奪した犯人に抗議の声をあげる。
「これ昨日作ってたママレードだろ?」
「そうだよ、じゃなくって!もうっ!食べるなら言ってよ」
甘いものが苦手な新一に合わせて砂糖をほとんど使っていない自家製のママレードジャムだったが、作った直後はいらないと断られ仕方なく自分で消費しようとしていた。
なのにこの有り様だ。本当に素直じゃない。
仕方ないもう一枚焼くか、と席を立ってトースターに食パンをセットすると、そうだと新聞を読みながらパンに齧り付いてる新一に声をかけた。
「今日蘭とトロピカルランドだよね?何時待ち合わせなの?」
「おー、確か待ち合わせは10時とかだったかな」
新聞を捲っているペースがいつもよりも早い兄は機嫌がよさそうで、昨日まで面倒だ何だと言っていたのはやはり照れ隠しだったんだなとミルクを落としたコーヒーを啜りながら思う。
「つーか有紗も来いよ。蘭だって誘ってただろ」
「やだよ、邪魔したくない」
「邪魔ってお前なぁ」
なかなか進展しないこの兄と幼馴染の関係に、周りはもちろん一番身近で見てきた有紗がヤキモキしているだなんてちっとも思っていないんだろうな、と内心苦笑いを浮かべる。
チン、と小気味良い音がトーストの完了を知らせた。
熱いくらいの小麦色の食パンにママレードを塗りながら、正面で揺れる寝癖を眺めてきっと今頃あれこれ悩んでいるであろう可愛い幼馴染にひっそりと健闘を送った。
▽▽▽
それがどうしてこうなったのか、目の前でぶかぶかの洋服を着た幼少期の新一そっくりの男の子を見て有紗は頭を抱えたい衝動に駆られる。
今から少し前、阿笠博士から誘いを受けてコロンボで夕食を食べ、その帰り突然の雨に見舞われて駆け足で帰宅した。雨で濡れた身体を拭き風呂の準備をしていた時にインターホンが鳴る。新一であればわざわざインターホンなんて押さないし、誰だろうと応答するとどうやら博士らしい。パタパタと玄関まで行き施錠を解くと、所々煤けた博士とやたらぶかぶかな服を着ている少年が立っていた。
「とりあえず中に入って。今服持ってくる」
自分の兄である新一の幼少期にそっくりなその少年と博士を図書室に通し、兄の部屋から幼少期に着ていた服を掴んで着替えさせる。見れば見るほどにそっくりなその容姿に、本当に兄なのでは? と疑惑の心が揺れた。
「で? どういうことなの? というか、本当に新ちゃんなの?」
「この顔見てわかんだろ、新一だよ新一」
「誕生日は」
「5月4日」
「血液型」
「B」
「今日の朝、何を食べた?」
「有紗の淹れたコーヒーに有紗が作ったママレードを塗ったパンだよ」
「はぁ……」
やはりどう考えても新一らしい。
高校生になって身長もすっかり抜かされ男らしくなってきていた兄が、どうして半日出かけてこんなに小さくなってしまったのか。そう考えると頭を抱えざるを得なかった。
「拳銃密輸の現場を見ちまったんだよ」
「け、拳銃密輸?!」
博士の声が部屋に響き渡る。どうしたら大好きな幼馴染とのデートで拳銃密輸の現場に出くわすのかぜひ説明して欲しい。本当にこの男は、どこまでも好奇心の塊なのだ。いつだか蘭が、事件ばかりにかまけている兄に大きな事件に巻き込まれて痛い目を見ると警告していたことが本当になったわけだ。
「未完成のその薬の不思議な作用で体が小さくなってしまったというわけか・・・」
要約するとこうだ。
怪しげな黒ずくめの男2人組を追った先で拳銃密輸の現場に出くわし、背後への警戒を怠ったが故に頭部を殴打され変な薬を飲まされて体が縮んでしまった、と。
そんな漫画みたいなことがあるのか、何だか頭痛がしてくる話に目頭を押さえて深い溜息を吐くことしかできなかった。
「小さくなった事はワシら以外には言ってはならんぞ!君が工藤新一だとわかったらまた奴らに命を狙われ、周りの人間にも危害が及ぶ! 妹の有紗くんは恰好のターゲットじゃろう」
博士の言う事は最もで、同時にどうしようもない不安に駆られた。
分かりやすく顔色を落とした有紗に、新一は小さく謝ることしかできなかった。
これまでそこそこ平穏だった生活は、この日を境にガラリと変わってしまったのは紛れもない事実だった。