01
ぱたぱたと雨がガラスを打ち付ける。
レストランの駐車場の一画、停められた車の中で女は小さく体を伸ばした。日本人離れした白い肌にミルクティを彷彿とさせるブラウンの髪がさらさらと胸元で揺れる。視線を左に向けレストランの店内を窺うと、ちょうど“主役”の2人が窓際のソファ席に座っている。その正面に座っているのは最近よく仕事先で見かける3人組だった。女は「げっ」と呟きその端正な顔を歪めて、ほとんど反射的にシートに深く身を沈めた。
(よりにもよって……)
女はそう思わずにはいられなかった。
なにせその3人組(主には2人なのだが)が出没する先では、よく事件が“発生”する。その事は女の勤務先でも周知の事実だ。ある同僚たちに言わせると『事件ほいほい』『死神』などと揶揄されているが、こればかりは納得せざるを得ない。
(今日は仕事に来たんじゃないし、上司様の終業まであと2時間……寝るか)
こっそりと観察を続けていたその席から視線を切ろうとした一瞬、眼鏡をかけた金糸のウエイターと目が合う。こちらにしか分からない程度に口端が上がったその顔に、はやく、と口唇を動かしてから倒したシートに体を横たえた。
「ほら、またそんなところで寝て。風邪ひくぞ」
ゆさゆさと優しく身体を揺すられ、意識が浮上する。あれ? 私は今、何をしていたんだっけ。ぼんやりと霞む視界がだんだんとクリアになって、側に立ち少しだけ困っているような表情のその人が視界に入る。そうして漸くそこが自宅のリビングで、連日の徹夜残業に耐えかねて机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい事に気が付いた。
「ん〜……あれ……今日帰ってくるって言ってたっけ……?」
「メール見てないだろ? 連絡したのに」
「えっ、ごめん!」
慌てて机の上に放置されていた携帯を手に取り画面を開くと【今から帰るね】という連絡が1時間前に入っている。やってしまった……と頭を抱える私を見て彼はクスクスと笑うと、そのままキッチンに向かい冷蔵庫の中身を確認してこちらを振り返った。
「ご飯、俺が作るから顔洗っておいで」
目が醒めたのは程近い場所でかなり大きな爆発音がしたからだった。ばっと身体を起こし車内から周囲を見渡すと、右斜め前方に置いてある白い車が炎と煙に包まれている。扉に手をかけ外に出ようかと考えるが、あの車内にもし人が残っていたとしてももう助からない。そう分かる程、目の前の車は内部まで激しく炎上していた。可燃物でも積んでいたのだろうか……そう思案しながら店内に視線を移す。殺人か? 自殺か? そんな考えが脳裏に浮かび、やがて静かに頭を振って深く溜め息を吐いた。これは“私”の担当ではない。
それからしばらくして消防、救急が到着し、間をおいて警察車両が到着した。見慣れた顔がぞろぞろとその車内から降りてくるのを後部座席から確認する。
(やっぱり移動していて正解だった)
そう呟きながら放ってあった男物の黒いパーカーを羽織り、フードを目深に被ると、その身を暗闇に潜ませ目を閉じる。もう夢の続きは見れそうになかった。
どれくらい時間が経っただろうか。一度弱まった雨脚が再び強まりしばらく経った頃、雨音の中に複数人の人の気配を感じ閉じていた瞳をゆっくりと開く。外を窺うように少しだけ頭を座席の隙間から覗かせ、警察車両に乗り込む人数を数える。眠る前に確認した人数よりも増えていないことから、車両火災は事故または自殺だった事に少しだけ安堵した。
警察車両が去ってから30分ほど経過したところで、ここに来た理由の人物であり、この車の所有者でもある男が運転席のドアを開く。どうやら雨は小康状態らしい。
「待たせたな」
3時間前、ガラス越しに目が合った金糸のウエイターは先刻まで身に着けていた制服と眼鏡を外し、すっかり“いつもの上司”の装いに戻っていた。慣れた様子でエンジンをかけるとミラー越しにこちらの様子を窺う。
「1時間オーバー、高いよ」
そんな軽口を叩きながら後部座席で縮こまっていた身体をぐっと伸ばす。2時間近く座席の下に潜っていたせいか、関節からパキッパキッと小気味良い音が鳴った。一通り身体を捻ってから、するりとその身を助手席に移動させる。広いとは言えないスポーツカーの中は想像以上に身体を凝り固まらせた。
「まさか事件が起きるなんてね」
「名探偵がいたからね」
「毛利小五郎か?」
「んー……まあ、そう」
ゆっくりとアルバイト先の駐車場を出発する車に身を委ねながら最近になってよくメディアを賑わせ、仕事先でよく目にする機会が多い毛利小五郎を思い出す。失礼な話だが、ぱっと見は冴えないオジサマだ。しかし一度“眠りのポーズ”を取るとそれまでの頓珍漢な発言はフェイクだったのかと思わざるを得ない程の名推理を披露する。
幾度となく見てきたその光景を、これまでの毛利小五郎が関わった事件を、窓をぽたぽたと打ち付け流れていく雨粒を眺めながら逡巡した。何度見ても不思議な、まるで催眠術にでもかかったかのようなアレの、納得のいく答えはまだ出せていない。
どう見たって眠っているのに、と考えたところでふと視線を感じ運転席に顔を向ける。ここまで順調に進んでいたが、どうやら赤信号に引っかかったらしく気付けば車内は赤く染められていた。「どうかした?」と尋ねると、街頭やコンビニの灯りが映り込んでいるブルーグレイの瞳は少しだけ細められるが「いや?」と肩を竦めてつい、と前に向き直る。しかしその声色は不機嫌そうだ。
「なに?」
「……他の男のことを思い出してるみたいで妬けた」
「冗談止めてよ。毛利小五郎は既婚者よ」
「でも別居中だろ」
「同居だろうが別居だろうが、妻帯者に興味ない」
ふぅんと気がなさそうな返事をする割にその口元は弧を描いている。どうやらお気に召す返答だったようだ。
車内がグリーンの色に染まると、柔らかな圧で車が前進した。
見慣れた地下駐車場にスポーツカー ーRX−7― が止まり、助手席のドアを開けようと手を掛けた上から褐色の肌が覆いかぶさる。自分の手よりもだいぶん大きいその手に捕まれ身動きが取れなくなる。
「そのパーカー、気に入った?」
「え?」
その体勢のままパーカー、パーカー、と思考を巡らせ、掴まれたままの手を眺めてはっとした。車をピックアップし上司のアルバイト先にそのまま走らせた今日は本庁出勤だったのだ。本庁へは原則スーツ出勤。しかし掴まれた手の先にある腕には見慣れたグレーの袖が無い。
「これは、その……」
「刑事たちに見つからない様に、だろ?」
掴まれていたままだった手が離れ、頭の上で2度ほど跳ねた。すでに運転席から半分身体を出している後姿を恨めし気に見つめると、少し垂れ目のブルーグレイがこちらに振り返った。
「洗う予定だったから、そのまま着て出ておいで」
少し肌寒かっただけなのだ。そう、それだけ。まさか匂いに安心しきって脱ぐのを忘れていた、だなんてことはない。1歩前を歩く上司の後に付いて鉄の小箱に乗り込む。居住フロアのみ止まるそのエレベーターは静かに上昇していった。
▽▽▽
「毛利小五郎に弟子入りする?」
「そう」
ごうんごうんと音を立てて既に脱水状態に入った洗濯機の横で、鏡越しに上司を見る。そこには入浴を終えてフェイスタオルを首にかけた、鍛え上げられて1mmも無駄な肉のない身体を惜しげもなく披露している姿が映る。少しだけ赤くなった頬に、束になった金糸の先から水の玉が滑り落ちる様はいやに煽情的だ。普段であれば視線を逸らしてしまいたいこの状況であったが、次いで出てきた言葉に思わずその顔を凝視した。
「理由は?」
「気になるんだよ、毛利小五郎という男がね」
「あー……そう」
これまでの毛利小五郎像を脳内に浮かべ、確かにあの睡眠マジックを一度見た後ではこの好奇心旺盛な上司の興味を買うのも頷ける。しかし有紗の脳裏には毛利小五郎を思い出す傍ら、もう一人の少年の顔が浮かんでいた。
『毛利小五郎の知恵袋』
警察庁内でそう噂される、江戸川コナンという少年。
きっと上司はまだその存在をきちんと認識していない。警察庁に登庁する機会も少なく、登庁したとしても基本的にデスクで只管書類を捌いているこの男が、少年の名前を聞く機会はないだろう。何より現時点で少年の管轄は警視庁だ。徒歩数分の壁は世間が認識するよりも遥に大きい。
それでも遅かれ早かれ、江戸川コナンの存在はこの上司も認識することになるだろう。毛利小五郎に弟子入りするのなら尚更だ。
少しだけ、上司である降谷零と大人顔負けの推理力を携えたギフテッドのような江戸川コナンの邂逅を楽しみにする有紗がいた。