02
カチャカチャとキーボードを叩く音が響く。いつも2、3人は居る部署内も今日は出払っているらしく、有紗以外の人影はない。
いい加減に溜まった書類を掃くように上からも下からも突かれ、本来非番だったところを2時間ほどの仮眠をとって久々に警察庁へ登庁した。前回の登庁は1か月前だったはずだが、思わず溜息が漏れるほどに書類が積み上がりデスクの地が分からない程だ。もはや崩れる寸前である。致し方ないと思いつつも、よくここまで山を形成できたものだともはや感心すら覚えた。
どれくらい時間が経っただろうか。静かに時を刻む時計に視線を向け、随分と集中していたことに気が付いた。どうりで……と、目頭をグッと押さえ目と頭の痛みを霧散させてから、一度気分転換と血流改善目的にデスクから離れる。崩れんばかりに積み上げられていた書類も、今では半分ほどに減っていた。
ぐっと身体を伸ばし軽くストレッチをしながら給湯室に足を向けると、ガチャリと扉の開く音が部署内に響く。
「あれ、小鳥遊さん登庁してたんすか?」
背後から声をかけられゆったりと振り向くと、そこには部下の吉岡の姿があった。軽く手を上げお疲れ様、と声を掛けると、吉岡は軽く頷き少し草臥れた様子で自分のデスクに向かった。
「せっつかれたから」
「あー、お疲れ様です」
未だデスクの半分を埋める書類の山。有紗はそれを指差し、やや大げさに肩を竦めた。本来飄々とした性格の部下の何とも言えない表情に、気にするな、とでも言うようにひらひらと手を振って給湯室へ入る。マグカップにインスタントコーヒーを振り入れた後、デスクに座ったであろう吉岡に声を掛けた。
「吉岡くん、コーヒーいる?」
「もらってもいいすか」
「はいよー」
吉岡とはもう何年の付き合いになるだろうか。警備局に配属され、初めてついた部下が彼だ。
歳もそう変わらない彼は、有紗が一番信頼している部下だった。
本来、ゼロには警視庁公安部の人間が下につくのだが、有紗が警視庁に潜入をしている状況から警備局内の人間が部下として配置されている。吉岡自体は独り立ちをしてもいい程の役職と経験を積んでいる事もあり、本人に一度独り立ちの話をしたことがあるが「面倒なんでこのままでいいっす」と言われたのは記憶に新しい。
正直、警察庁内ではあまり見かけない“あまり出世欲がないタイプ”の彼は、存外有紗のお気に入りでもあった。
「どうぞ」
「ありがとうございまぁ……ふ」
コーヒーを受け取りながら大欠伸をするその姿に、仮にも上司だぞ、と一瞬頭に過ったが、彼は彼で徹夜続きであろうという事は目の下の隈と先程の草臥れた様子が嫌でも証明している。加えて吉岡とは上司と部下というより同僚のような関係を築いてきたので然程気に止めることも無く、お疲れ様ともう一度声を掛け有紗は席に戻った。
特に何かを話すわけではなく、ひたすらにデスクワークを熟し、時折混ざる上司の書類を元在るべき場所へ戻す。そうして1時間ほど経過したところで吉岡が口を開いた。
「そういえば知ってます? 降谷さんのこと」
「降谷さんのこと? なに?」
「ポアロで働くらしいですよ」
ポアロポアロ、と反芻しようやく毛利探偵事務所の下にある昔ながらの喫茶店に思い当たる。そう言えば一部の刑事が看板娘を気に入って通っていたな、とすっかり冷めたコーヒーを飲み下しながら警視庁に配属されたばかりの頃に何度か連れて行かれたことのあるポアロの店内を思い出した。
「ああ、弟子として動きやすくするためね。あの人も働くねぇ」
いつもしゃんとした後姿で颯爽と歩く光景が脳内に浮かぶ。本当に、吃驚するほどにワーカホリックなあの人は、気付けば沢山のことを独りで抱え込んでしまう。それが出来てしまうのだからまた質が悪いのだけれど。
「ゼロ、組織の人間、喫茶店の店員、毛利探偵の弟子……恐ろしいですね」指折り数えた吉岡が、信じられないと言わんばかりに顔を顰める。その言葉に頷きをひとつ返してから「まあでも、毛利探偵を探り終えれば店員も辞めるでしょ」いくら優秀でも身体はひとつだし、と付け加えれば、吉岡は確かにと頷いた。そんな吉岡を尻目にパラパラと手元の書類を捲り、大方急ぎの物は片付け終えたことを確認した有紗はひとつ息を吐いた。
ちらりと降谷の机へ視線を向ける。最後に並んでここで仕事をしたのはいつだったか……記憶を呼び起こしてみるが、ここへ来た時の自分と同じか或いはもっと悲惨なデスクを見ても何も思い出せなかった。
「ん?」
デスクの上に置いてあった携帯が音を鳴らす。画面を見ると今まさに話題にしていた男からの着信だった。思わず「げっ」と呟いた有紗の反応を見て、不思議そうに吉岡は携帯の画面を覗き込むとああ、と納得したように頷く。
「噂をすれば、ですねぇ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
“仕事用の携帯”を鳴らすときは大概面倒事を持ち込む時だ。はあ、と溜息をつき不機嫌を買う前に通話ボタンを押す。
「はい小鳥遊」
『悪い、2つ頼まれて欲しい』
「どうぞ」
『RX−7をいつものところに修理に出しておいて欲しい』
「……はい」
また壊したのか、とげんなりする。普段は大事に扱っているが、一度スイッチが入るとすぐにそのボディに傷を付ける事を厭わなくなる悪癖は改善した方が良いと常々思うのだが、これまでそれを聞き入れられたことはない。
「2点目は?」
『足が無くなったから送って』
「今どこです?」
『となり』
「じゃあ10分後に駐車場でいいですか?」
『ああ』
電話を切るとそのままポケットに携帯をしまい、マグカップを持って直ぐに席を立つ。手早くカップを洗い席に戻ると吉岡がにやっと笑い、有紗に缶コーヒーを投げて寄越した。
「事故なんて起こしたら一生外出させてもらえないっすよ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。これでもゴールド免許ですぅ」
「はいはい。ほら、待たせるとまた不機嫌になりますよ」
追い払うように片手を上げた吉岡の背中にお疲れ様、と声を掛け、缶コーヒーを携帯とは反対のポケットに仕舞い鞄を掴むと待ち合わせの駐車場へと足早に向かった。
▽▽▽
「で? 今回は何したんです?」
「人命救助さ」
「さっき風見さんから写真送られてきましたけど、人命救助でどうして助手席側が潰れるのか説明頂いても?」
風見の手によって無事回収されたRX−7の保管場所を知らせるメールに添付されていた写真は、ここ最近ではなかなか酷いものだった。聞けば被疑者の車を停車させるため、愛車を横滑りさせて人質を救出したと言う。その人質があの江戸川コナンであったと知り、思わず半目になってしまったのはご愛敬だろう。
「あ、吉岡からコーヒー貰ったんですけど飲みます? 缶ですけど」
「貰おうかな」
目の前の信号が赤く点灯し車を停車させると、ポケットから缶コーヒーを取り出し“底を上にして”手渡した。降谷は底部分に貼り付けされていたチップを丁寧に取り外し、胸ポケットに仕舞う。缶を軽く振る様に上下させ、プルタブを引いて中の液体をひと口飲むと、つい先程出会った不審な男と以前一度会った事のある女の姿を思い浮かべた。
ざわつく思考を整理するように黒い液体をぐっと流し込む。いやに苦いその液体は、自分の中で蠢く黒の苦さのようで、思わず缶を握り潰した。