03
目の前で流れる映像と手元の資料を見比べ、有紗は先日の降谷の様子を思い浮かべた。
『大石街道を北上していた赤のスバル360の所有者を洗ってくれ』
数日前に自宅に送り届けた際、車を降りる直前に何かを思い詰めるように吐き出されたその台詞に、了解を返しすぐに周囲の監視カメラとオービスの映像を押さえた。その後部下に所有者の特定を託し、警視庁側の仕事が落ち着いたところで監視カメラの映像と部下が作成した資料を確認する。
沖矢昴 27歳 東都大学大学院工学部所属
大学に提出されている顔写真と監視カメラに映っていた運転手の顔に相違はない。戸籍や来歴にはこれといって不審な点はなく、書類上に見るその人はどこまでも一般人だ。完璧な程に。
「どうするか……」
―― 江戸川コナンと同居している毛利蘭から、少年が誘拐された事実を聞いた阿笠博士が彼を救出するために、自身の車は修理に出していたため隣家に居候している沖矢昴に頼み車を出してもらった。
事件後に取られた聴取には当然不審な点はない。そもそも運転手であった少年を誘拐した女も、同乗していた拳銃所持の女も、その他の罪状を含め概ね罪を認めており、一連の事件は今朝方自分の手を離れたばかりだ。
唯一、沖矢の不審な点を挙げるとすれば、以前居住していた木馬荘が全焼し、その後は工藤邸に住所を移していることだ。工藤一家と沖矢昴の関係性はこれといって無く、工藤新一の親戚である江戸川コナンの橋渡しがあり居住するに至ったらしい。しかし、いくら富裕層に位置する工藤一家であっても、無関係の人間をおいそれと住まわせるだろうか。ましてや現在工藤夫妻は生活拠点を海外に移しており、一人息子は大きな事件で家を空けていると以前幼馴染の蘭から聞いた事がある。
(見ず知らずの人間に、留守の家を預けるとは思えないけど……)
そしてもう一点。今朝資料を受け取った足で東都大学に赴き学生に聞き込みを行ったが、顔写真を見せても誰も彼もが「知らない」と答えたことが気になる。確かに全員に聞き込んだわけでもなければ、そもそも院生であれば大学へ行く回数は多くないだろうが、それでも誰1人として知らないという事実に有紗は首を傾げた。
手元の資料に添付されている学生証のコピーは紛れもなく正規発行の学生証で、もしこれが偽造だとしたら大学絡みという事になり非常に厄介だ。
これらの情報を降谷に渡すかどうか、自分で踏み込んで更に洗ってみるか、有紗は思案していた。
先日コレを頼んできた降谷の表情が再び脳裏に過る。何かを思い詰めるような、そんな表情だった。
嫌な予感がする
ざわざわとした不快感が胸に渦巻く。そんな嫌な感覚を拭うように、有紗は目の前に開いていたパソコンの画面を静かに閉じた。
▽▽▽
「本当にこれだけか?」
「ん?」
「沖矢昴だよ」
降谷はキーを叩いて目の前で再生されている映像を止め、2枚の資料をキーボードの上に投げると冷蔵庫を覗いていた有紗の華奢な背中を見つめた。有紗は刺さるような視線を感じながらミネラルウォーターを2本取り出し降谷の方へ振り返ったが、その表情からは何も読めない。
探るような降谷の視線を浴びながらも、有紗は何食わぬ顔でソファに座っている降谷の横に腰を下ろし水をひと口飲むと、漸く口を開いた。
「忙しくてあんまり探れなかったの」
「……それだけか?」
降谷が家に来る今日まで2度、有紗は大学に訪れ沖矢について知っている人物を探した。結果は全て空振り、可能な限り工学部の教授にも当たったが誰も沖矢昴という人物を知らなかった。大学のサーバーにも侵入し在学生の名簿をさらったが、当然のようにそこに名前は無い。
『沖矢昴は実在しない人物である。』
これが有紗の出した結果だ。そしてその結果を降谷には報告として渡さなかった。あの日から感じる嫌な予感は、未だに有紗の胸中を渦巻いている。まだ降谷と沖矢を繋げる時では無い、そう判断したのだ。
肩を竦めて必要があれば追加調査する旨を伝えると、降谷はやや考えるような仕草をした後に首を振って、脱力するようにその背中をソファに預けた。
一方有紗も、刺すような視線から解放されたことで、詰めていた息を悟られない様にゆっくりと吐き出す。水をもう一度飲み下し、胃に下っていくその冷たさで平静を取り戻した。
降谷に情報を渡さないとは言え、どうにかして沖矢昴に近付いて指紋を採取したい。基本的にスーパーと工藤邸の往復のみで生活している彼に近付くのは至難の業だろう。ただ江戸川コナンと警視庁の自分を利用すれば不可能ではないはずだ。
そう次の行動を脳内で算段していると、不意に右腕を引かれて降谷の体にもたれかかる様な体勢になる。右斜め上を見上げると、既に仕事の顔を剥いだ甘い欲を孕んだブルーグレイがこちらを見下ろしていた。
「考え事?」
「安室さんに会いに行く言い訳考えてたの」
「ポアロに来るのか?」
米神、目尻、頬、と好きに口付けを落としていた降谷が不思議そうに顔を上げる。毛利小五郎に近付くために事務所下にある喫茶ポアロの店員になりもうだいぶ経つが、有紗が上の毛利事務所に足を運ぶことはあってもその姿をポアロに見せたことはない。
「安室さんとの接点を持っておけば、もう少し動きやすくなるかなって」
「それもそうだな」
自分の持つそれとは違う色味の髪を弄りながら降谷は思案する。地肌を触るように指を滑らすと、普段は隠されている耳を露出させその耳元に唇を寄せた。
「恋人と安室透の片思い、どっちがいい?」
「え、店員と客でいいんだけど」
擽ったそうに肩を竦める有紗は少し困惑したような声色で腰に回った降谷の手を掴んだ。降谷は掴まれた手をするりとひっくり返すと、指を絡めて握りこむ。有紗が動けないよう少し体重をかけると、そのまま白い首筋に唇を這わせた。
「ちょっ、だめ!」
耳朶の裏に強く吸い付くと、腕の中から抗議の声が上がるが無視を決め込み2、3度それを繰り返す。ちゅっというリップ音と共に漸く唇を離し、しっかりと赤く痕がついた事を確認してから身体を開放すると、有紗が呆れたような表情を浮かべて降谷を見ていた。
「安室透が一目惚れして猛アタックの末付き合う事になった。これでいこう」
「結局恋人になるんじゃない」
今度こそ溜息を吐いた有紗はパソコンの脇に置かれていた降谷のスマホに手を伸ばし、インサイドカメラを起動して首筋を確認した。微かに見える痕は真っ赤に染まっており、完全に消えるのに1週間はかかりそうだ。眉間に皺を寄せるが、満足そうに笑っている上司がカメラに映り、まあいいか……とそれ以上の抗議は止めた。
限られた時間の、お互いがお互いに甘いこの時間。
今はこの甘さに溺れてしまおうとカメラの画面を落として、逞しい身体にそっと身を委ねた。