「きっと、一生忘れられない人がいます」
50年前私は恋人とも友人ともどちらに分類されるか曖昧だった男性からプロポーズを受けた。
彼はとても穏やかで堅実で本当に素敵な男性であった。
そんな人に私は随分長い間不誠実な態度をとっていたと思う。
せめてもの罪滅ぼしとして、私は自身の気持ちを正直に告げた。
本当の意味で本心をさらけ出したのはこの時が初めてだったのかもしれない。
「その人の元には行かないの?」
彼はいつも通りの穏やかな口調でそう訊ねた。
「もうきっと二度と私の前に現れてはくれないと思う。だから私も決してその意思を否定するような行動はとらないわ」
名前はあれから10年以上経った今でもあの日十代と別れの言葉を交わした時の事を昨日の事かのように鮮明に覚えていた。
あれ以来名前は髪を伸ばす事をやめた。
もう二度と私の髪にあの唇が触れることはないのだから、と。
あれから何度も短くなった髪をとこうとして肩口に触れ、その度に何度も手が空を切った。
そしてまたそこでもう自分の元に十代はいないのだと何度も、何度も容赦なく名前に現実を突きつけた。
「それならば自分と一緒にいてもらえないだろうか?」
他に好きな人がいるという名前に彼はそれでも一緒にいてほしいと告げた。
「自分は愛する人とずっと一緒にいたい。僕が愛している人は貴方だ」
なんて強い人なんだろう、心からそう思った。
私にはあの時十代を止める言葉も一緒に旅立つことも出来なかった。
自分を見つめる瞳は十代とは似ても似つかなかった。
それでもなぜか彼の瞳からは十代に似たものを感じた。
結局名前は彼のプロポーズを承諾した。
それは桜の咲き始めた頃、十代と道が別れたあの季節だった。
人から見て私はなんと嫌な女なんだろうと考え今の自分に嘲笑した。
友人達に結婚の報告を入れると大いに祝福された。
しかしかつて話題の中心であった十代の話は不自然な程に誰も言葉にしなかった。
「これから決して一人にならないでほしい。自分の側にいてほしい」
あの時欲しくて仕方がなかった言葉を目の前の彼が言葉にした。
そんな彼に、私のようなもので良ければと返した。
その言葉があまりにも自然と口からでたことに名前はとても驚いた。
私は十代でなければいけないと思っていた。
しかしそれは違ったのかも知れない。
その時頭をよぎった事実に名前の涙腺は壊れた。
あの別れの時間でさえ涙を流さなかった名前の眼から留まる事をしらない大粒の涙が溢れ、それはコンクリートに染みをつけた。
そんな名前を彼はただただ抱き締めた。
あれから50年、名前が78、彼が81歳になっていた、
そしてその年に夫は病に倒れた。
病気はかなり進行していて、もう治療の手はないと分かった彼は最期を自宅で名前と静かに過ごすことを望み、名前もその意志を受け入れた。
「貴方と過ごした時間とても楽しかった。沢山の思い出をありがとう」
夫は名前の手をとり、昔と変わらぬ穏やかな笑顔で感謝の言葉を伝えた。
子宝には恵まれなかった二人だったが、それでも夫婦ふたり、とても充実した生活を送る事が出来た。
「全部貴方のおかげよ、本当にありがとう」
名前の右手に乗せられた彼の手に左手を重ね、心からの感謝を夫に伝えた。
「結婚した日、約束した事を覚えているかい」
目を伏せ彼は名前に問いかけた。
あの日の事を忘れた日など一度も無かった。
彼と生涯を共にする、それを本心から誓ったのだから。
「貴方とずっと一緒にいるわ」
「そうだね、でも一つ僕との約束を忘れているようだね」
再びあの時と同じ、それは優しい瞳で名前を見つめる。
夫が何を言いたいのかわからない名前は言葉に詰まった。
「これから決して一人にならないでほしい。····そう言ったね?」
名前は夫のその穏やかな眼に力が宿ったのを感じ取った。
しかしそれはほんの一瞬ですぐにいつもの優しげな表情に戻った。
その一瞬の力強い瞳に名前は自身の中の大切なものを思いだし、それは爆発したかのような衝撃をあたえ、名前の意志とは関係なしに、あの時と同じようにその感情は涙となって名前の瞳から零れ落ちた。
「僕は賭けをしていたんだ。
僕が君より長く生きた時は君を僕が看取ろうと。
だが、どうやら賭けは僕の負けだったようだ。」
夫はそう話しながら子供のように無防備に涙を流す名前の目元をハンカチで拭った。
「これを」
夫はベッドサイドのチェストから、一枚の紙を取り出した。
その紙を名前に差しだした。
それはどこかの住所が書かれたメモ用紙だった。
「彼の現在の住所だ」
彼というのは十中八九十代のことだろう。
しかし十代と会った事すらなかった夫がどうして十代の住所を手に入れる事をできたのか、それに疑問を抱く名前に、君の友人達に協力してもらったんだと夫は言った。
そしてそのメモ用紙を名前の手に握らせた。
「僕の最期のお願いだ。決して一人にならないでくれ」
夫がもう一度口にしたその言葉に名前は泣き崩れた。
あの日から夫を愛していた。
心の底から尊敬し感謝していた。
それでも私の愛などという言葉では太刀打ち出来ない程に夫は私を愛してくれていたのだと知った。
私は見知らぬうちに夫に十代を重ねていたのだと気付かさせた。
あの日十代に似ていると感じた夫の眼は自分を愛しいと思っていた十代の眼と同じであったと気付かさせた。
「沢山の思い出をありがとう。
貴方のおかげで僕は幸せでした」
夫は泣き崩れた名前を宥めるように優しく頭を撫でた。
私も愛していた!
幸せだった!
ずっとずっと一緒にいたかった!
何度も何度も名前は吼えるように夫に自分の心からの気持ちを伝えた。
その間も夫は分かっているよと、ずっと名前の頭を撫で続け、夫もまた何度もありがとうと伝えた。
涙が収まった頃二人でベッドに入り手を握ったまま静かに穏やかに眠りについた。
そうしてそのまま
夫は二度と目を開けることはなかった
夫がこの世を去ってから沢山の友人達が自分の元を訪れた。
名前を気遣い関係のない世間話をする者もいれば夫との思い出をする者、そして涙を流してしまう者もいた。
そんなときは名前が夫のように友人に慰めの言葉をかけ、何度もありがとうと伝えた。
夫の死から一年が経とうとしていた。
またこの季節なんだなと成長しない自身に呆れて笑った。
名前は便箋机に用意し、ペンを手に取った。
宛先は勿論ただ1人だ。
遊城十代様
貴方は今どうしていますか?
貴方の事だからなんやかんやと元気にしていると思います
私はとても幸せな人生を送ってきました
貴方に恋をした時間は幸福でした
貴方と道を別れた事はとても哀しく思いました
貴方以外の人に愛されました
貴方以外の人を愛しました
心の底から愛していました
貴方を愛し続けた心を大切にしてもらいました
貴方への愛をずっと守っていてくれました
貴方は私の事を覚えていてくれていますか?
私は今凄く貴方に会いたいです
貴方とはまた、いつかきっと会えると信じています
もうおばあちゃんだから今世では叶わぬ願いかもしれませんね
次もしも生まれ変わってまた貴方と出逢えたら私は貴方の手を取ろうと思います
駄目だと拒否されたとしても貴方の手を離さず無理矢理にでもくっついていこうかと思っています
だからどうか、どうか、
今世で会う事は難しいかもしれないけれど
会えなくてもいい
その代わり、どうか貴方が今笑っていますように
とても大好きでした