鼻が効く

「シャンプー変えました?」

「...うん、まぁ...てかね、今から朝練って分かってる?」

他の部員より早く学校に来て朝練開始前先に備品の準備をしておく為に体育倉庫に入った私の背後に気配を消して現れた彼。
何も言わずに後ろから抱き着いた。
そして挨拶も無しに最初に声にだした言葉がそれ。
耳元で彼が大きく息吐いて吸ってを繰り返している音が聞こえてくる。

「知ってます。だから体育館にいるんじゃないですか」

お腹に回された手をどけようとしたが嫌だと言わんばかりに更に強く彼に抱きしめられてしまった。
正直苦しいので本当にやめてほしい。

「ていうか何よりもそれやめて!」

「何のことですか?」

「いやなんで分かんないの?...匂い嗅ぐの!」

今度は彼の顔面を手で押してみたけれどビクともしなかった。
中学からバリバリ運動部に所属していた彼だ。
高校からマネージャーを始めた至って平凡な筋力しか持ち合わせていない女の私に彼と力勝負で勝てる筈がない。

「ひやれす」

「っ、何してんの!?」

彼は自身の顔を覆っていた私の手のひらをべろりと舐めた。
突然の湿った生温かい感触に慌てて彼の顔から手を退けた。
朝から嫌な汗をかいてしまった。

「手なんて舐めたら汚いでしょ!というかほんとここ今は人がいなくても学校だから!!」

「名前さんの身体に汚い場所なんてないですから大丈夫です」

彼はそう言って再び私の匂いを嗅ぎ始めた。
耳にあたる彼の息がくすぐったくて仕方ない。
他の部員が来たらさすがにやめるとは思うがこの状況を見られるのはさすがに回避したい。
その為にどうすべきかと必死で考えていた。

「変えるなら言っておいてほしかったです。
なんてシャンプーですか?僕も同じものにしますから」

「...別にいいよ。変えなくて」

そんな私とは対照的に彼は呑気にそんなことを私に訊ねた。
はっきり言って新しいものはどちらかというと女の子向けの香りだと思うし彼のイメージとは違う気がする。
内面はともかく清涼な雰囲気がある今のままの方が私としても好ましい。
だから彼にシャンプーを変えてほしくないというのが本心だった。

「同じ香りがしたらか一緒に暮らしてるのかと人に勘違いされるかもしれないじゃないですか」

「同じシャンプー使ってる人なんてその辺に沢山いると思うしそんなの思わせてなんの意味があるのよ」

「牽制みたいなものです。貴方が魅力的すぎますから」

彼はそう言って耳たぶをかぷりと噛んだ。
驚いて思わず変な声が漏れてしまう。

「...あの、すみません、た」

「それ以上言わなくていいから!!!」

一瞬手の力が緩んだのを見逃さずに彼を引き剥がして距離を取った。
改めて向かい合った彼の顔を見て本当に危ないところだったと冷や汗をかいた。

「と、とにかくっ!もうほんと朝練始まるから早くそれ落ち着かせて準備して!
スコアボードはテツヤ君が持ってきてね!!」

私はボールカートに備品も積んで準備室を出た。

「え、こういう時ってこのままじゃ辛いよねって言って名前さんが納めてくれる展開じゃないんですか!?」

「っするわけないでしょ!変な本の読みすぎなんじゃないの!?」

呆れた妄想を口にする彼を放置して小走りでその場を後にした。
そしてドリンクを作りに体育館を出た所で日向先輩と伊月先輩に出会い挨拶をした。
危ない所だったとほっと胸を撫で下ろした。

まだ彼は準備室にいるけれど気配を消すことが得意な彼のことだ、なんとでもなるだろう。



出会った頃の彼は本当に物静かで優しい人だった。
同級生の男の子の概念を変えるような、そんな紳士的な男の子。
異性として惹かれるようになるまでそう時間はかからなかった。

しばらくして彼からの真っ直ぐな告白、断る理由なんてなにもなく、私は人生で生まれて初めて彼氏が出来た。
殆ど毎日部活があったのでデートらしいデートもなかなか出来なかったけれど教室でも部活でも同じ空間で過ごせた日々が幸せで、不満なんて何もなかった。

彼の愛が少し、いや、かなり変わっていると気付くまでは。

初めて一線を越えた日から彼はまるで別人になったかのように変わった。
それでも普段は以前と変わらず優しさに溢れていて、本当に好きだと心から思えている。

けれど最近それはどんどんエスカレートしていき最近ではどう対応すべきかと反応に困ってしまうのだ。



ドリンクの準備を終え体育館に戻ると既に朝練は始まっていた。
カントクであるリコ先輩に挨拶をして今日の予定の確認をした。
テツヤ君は何事も無かったかのように皆と練習に励んでいた。

「今日は放課後の練習は軽い調整で終わらせる予定だから名前ちゃんもたまにはゆっくりしてね!」

リコ先輩の言葉に私は一瞬固まってしまう。
そして視線を感じちらりとそちらを見れば彼がこちらを見てにっこりと微笑んでいた。

私はすぐに視線を逸らした。
そんな私にどうしたの?とリコ先輩が不思議そうな顔で訊ねた。
私は何でもないです、と返して何か今仕事はないかと訊ねてその場を誤魔化した。

「じゃあこの前偵察に行った学校のデータ、走り書きになってるから整理してまとめておいてもらえる?後片付けはみんなにやらせるから先に教室行っていいから」

「はい、やっておきます」

試合情報を記録されたノートを受け取り慌てて体育館を後にした。
視界の隅で上機嫌で練習をしていた彼を見ないようにして。

「(きっと今日は逃げられないんだろうなぁ)」

きっと拒もうと思えば拒める話だ。
それでも積極的、いや、少々変態的すぎる彼の愛を拒まないのは私が心底彼を好きになってしまっていたから、ただそれだけのことだろう。



end