4
「はぁ…もう、だめだ…。腰が保たん…。死ぬ…。」
「先輩、俺に乗り換えますか?」
「…いや、どっちもどっちだろ。」
出先からの帰り道、ひょこひょこと腰の痛みに耐えて歩く碧に、七緒が可愛い声と顔で売り込みをかけてくる。
ダメだとは思うが、こんな相談七緒にしか出来ないものだからつい愚痴ってしまう。
「もー、俺は殿村さんみたいに、鬼畜じゃないのになぁ〜。」
「いいんだよ。殿村とは、コンペまでの仲だ。コンペが終われば、もう下手に出る必要はない!元々、担当は七緒だし、俺は只のサポート役だからな。コンペ終わり次第即刻、プロジェクトを外してもらう。そして、殿村とは速攻で縁を切る!」
「今もそんな下手に出る必要もないのにー。」
こちらへ手を伸ばす七緒を払い除けながらオフィスに帰ると、エントランスに見知った顔がいた。
「あれ、野中先輩!」
「おぉ、偶然!滝川じゃん!」
「いてっ」
すらりと高い身長に、優しい笑顔。大学時代の研究室の先輩である野中だった。野中はにかりと快活に笑い、碧の肩に自分の腕を絡めた。
「はは、なんか滝川ひょろくなったな!」
「え、そうですか?」
「…。」
野中は昔から距離感が近い。今も笑いながら腹をワサワサと触ってくる。
そんな碧達を七緒がむっとした顔で見ていた時だった。
「先輩、エレベーターきましたよ!」
「ちょっと、君達。そこをどいてくれるかな。」
「あ」
戯れる碧たちの後ろには、部下を従え眉間にシワを寄せた殿村が居た。
碧は不機嫌な殿村の顔を見て、咄嗟に宇野ちゃんとのことを思い出した。
また変に勘違いをされてはたまったものじゃない。
「たっ、只の知り合いの野中先輩!俺たち健全なお友達なのに、学生時代以来たまたま会ったから、つい嬉しくて、気持ちが上がってしまい、学生時代のノリで近づきすぎましたね!邪魔なので退けましょう!」
「え?あ、おう。」
「…。」
碧があせあせといきなり大声で話すので、野中は面食らった顔になる。殿村は、そんな碧達の横を無表情で通り過ぎ、そのままエレベーターに乗ってしまった。
と、殿村は、どんな顔をしていたんだ⁈
「…はぁ…縁を切るとか言ってるわりに、どんだけ飼い慣らされてるんですか。」
殿村が去った後もソワソワする碧に、七緒が呆れながらエレベーターのボタンを押し直した。
———-
「902円になります。」
「クレジットでお願いします。」
今日も深夜残業だ。
今月も基本給を残業代が超えるかもなぁ…。
夕飯を買ってオフィスに戻りながら、そんな事を考えていた。そしてぼんやりしたままエレベーターに乗り込み、碧は自分の階のボタンを押した。
「お帰り、碧くん。」
ガタンッ
「うわ出たっ!」
そして自分のオフィスフロアに着くと、笑顔で仁王立ちの殿村がいた。残っているのは碧の他数人程度で、照明も半分落とされて暗いエレベーターホール。そんな中でこんな…もはやホラーだ。
「《うわでた》とは、どう言う意味かな?」
「…あ、いえ、なんでもありません…。」
「碧くん、昼間の男は何?」
「あー、やっぱり。いえ、あれは唯の大学の先輩です。野中先輩と言います。」
やっぱりか。ほらきた。
殿村がニコニコと投げかけた質問に、碧は内心うんざりとしていた。
殿村は基本的に残業をしないし、ましてやうちのフロアにいるはずなんてない。わざわざこの話の為に来たのか。暇でもないだろうに、暇な奴だな。
「あのー、正直に言います。」
「うん。そうした方が身の為だよ。」
「っ、宇野ちゃんに下心はありました。」
「…。」
「だ、だけど!野中先輩には全く興味ありませんから!」
殿村の唯ならぬ雰囲気に、オーバーな身振りを付けて碧は弁明する。しかし対する殿村は笑顔で僅かに首を傾げただけだった。
「へー…本当?碧くん、懲りずにすぐ嘘つくからな。」
「…いや、本当ですって。」
「ふーん?」
「…うっ」
ニコニコと殿村が碧ににじり寄る。
「じゃ、碧くん、うちの会議室取ってるから。そこでプレゼンして。」
「え。」
そう言って殿村は碧の腕を掴みエレベーターに引き摺り込む。
碧は前に壮行会で殿村が言っていた変態プレイを思い出して青くなった。
「そこで、その…へ、変な事しない?」
「はは、何それ。可愛いな。虐めたくなるから、下手な事言うなよ。」
こいつ!やる気だ!
殿村はニコニコと笑顔のまま腕を組み、碧を見もせずに答えた。
どうしよう…会社で、もっと言うと取引先の会議室でとか、嫌過ぎる!死ぬ‼︎
どうにか、どうにか…。
「楓」
「…なに?あ、」
碧は殿村の顔を引き、強引にキスをした。殿村の目が見開かれる。
「俺は、楓が、好きです!大好きですっ!」
「……。」
「だから、他の奴にとか…あるわけないだろ?」
「……。」
碧の必死の言葉に殿村は無表情だ。
これ、どういう感情⁈
「ね、楓…。」
「…た…。」
「え?」
「勃った!」
「は?……えぇ⁈」
「碧くん!何それ⁈可愛すぎでしょ!愛おしい過ぎるよっっ!」
「えー!」
殿村は鼻息を荒げて、碧の肩を掴む。もはや目が興奮で血走っている。
碧は殿村の勢いによろけた。
「さっ、速攻で!会議室行こう!ほらっ‼︎」
「嫌っ、嫌嫌ー!誰か!助けてっ‼︎」
無情にもエレベーターが海南物産の会議室フロアに止まり、エレベータードアに必死で掴まる碧を殿村が無理矢理引き剥がした。
幸いと言うのか微妙だか、こんな深夜に会議をしている人はおらず、このフロアには碧達だけだった。
「っ、ひっ、本当、やめてっ!楓くん!流石に不味いって‼︎」
半ば転がるように会議へ押し込められた。そのせいで転けて蹲る碧に殿村は覆いかぶさり、乱暴にワイシャツの間から手を差し込む。
「ふっむっ…!」
すっぽり殿村の下に収まり震える碧に、殿村は強引にキスをした。
「あっ、か…っ、楓くんっ!ほらっ…、お、俺、楓くんとすると、気持ち良すぎで色々、で……出ちゃうから…」
「‼︎‼︎そうなの⁈分かった!もっ、直ぐに出させてあげるね、色々!」
鼻息荒い殿村がベリっと音がする勢いで碧の体を反転させ、スラックスを脱がせ始める。
「いやいや‼︎だから、会議室汚したら不味いって話!あっ、」
いつの間にかたくし上げられたシャツの下に殿村が顔を突っ込み、胸を舐める。じぃんと快感がこみ上げ、殿村を抑える手が緩む。
「はっ、大丈夫。碧くんのにも、ゴム付けるから。」
「いや、そういうっ、んんっ…っ‼︎」
殿村が碧の言葉を遮りキスをした。
しつこいキスが終わると体を起こし、何やら懐から出した袋を口で切る。
…ゴ、ゴムやん!
「っ、」
碧はとっさに殿村を蹴り上げ、ずり下げられたパンツを引き上げて逃げ出した。
「どこ行くの。」
「あぁ‼︎ごめんなさいごめんなさい!本当、無理無理無理無理‼︎」
しかし呆気なく会議室の扉前で掴まり、逆にドアに押さえ込まれる。
「俺も、」
「うっ、」
ぐりゅっと殿村のものが押し付けられた。綺麗な顔に似つかわしくない、雄雄しいそれだった。
「これで我慢とか無理っ」
「っ!」
結局、やられた。
———-
「俺は変態じゃないのに…。」
「先輩、ほんとちょろいですね。どうして俺が落とせなかったんだろう…。」
そして再び、例の如く七緒に愚痴ってしまった。
会社近くのカフェで七緒は呆れた声を出す。
「まぁ、大丈夫ですよ、先輩。俺は先輩が殿村にどんなに汚されても、傷物になっても見捨てません。先輩の帰るところはあります!」
「…。」
俺はじとりと、熱く語る七緒を睨んだ。
傷物って…。
やはりこいつもどこかつき抜きけた変わり者だ。
七緒はあれ以来、碧の前で本性を晒すようになった。その本性は真っ黒だった。口は悪いし、達観しているが故に物事を斜に構えて物事を見ている。だが恋愛は純粋なものに拘りがあるらしい。訳が分からないし、碧が思うに七緒と殿村はそう変わらない。七緒もあと数年後は殿村の様になるのではとすら思う。七緒の出世も最速だろうしな。
ブーブー
「うわぁっ!」
「いや先輩、会社からの電話ですよ。ちゃんと表示見てください。もー、毎度ビクついて…ほらっ、殿村さんじゃないですよ。」
「…ぁ、本当だ。はい、もしもし、滝川です。」
「はぁー…。」
「え?今日中ですか⁈」
「?」
ホッとしたのも束の間、結局悪い知らせだった。システムの納品日誤りがあって、今日中に納品しろというものだった。
それからはバタバタと時間が過ぎてあっという間に深夜になってしまった。
ブーブー
先程からスマホがしつこくなっている。きっとまた殿村だろう。しかし今はあんな変人に構っている暇はない。
碧はスマホを無視して黙々と手を動かした。
「よしっ、先輩、レビュー終わったら納品準備をして終わりです!」
「はー、良かった!長かったなぁ…もう、12時過ぎちゃうな。」
「ですね…。」
なんとか最後のレビューも終わり、深夜一時前には家に帰れそうだった。
問題はそんな時に起きた。
「先輩、追加機能分のマニュアルがないです…。」
「え?いやいや、ほら、あるぞ?」
碧はぺらりと、印刷した書類を碧に渡した。
「いえ、中国語版と英語版の方です。」
「…え。」
そうか、この顧客は中国企業で、中国語と英語でもマニュアルを出せと言われていた。最後に翻訳して貰うつもりが、抜けていた…。
「先輩、俺、英語は出来ますけど。」
「うん。だよな…。…問題は中国語だよな…。」
ごくりと、七緒と碧はその場に固まった。
七緒は帰国子女だから、英語は堪能だ。しかし中国語となると厳しい。ネットの自動翻訳を使う手もあるが、自動翻訳はしばしば文法がくずれるので、顧客への納品物では言語に精通した人間がチェックする事になっていた。
「…七緒、俺、社内に残っている人間で探してくる。すまんが、先に英語版の作成頼む。」
「分かりました。」
碧はスマホを手にオフィスを出た。
中国語か…。営業部のリンさんとかいると良いんだけど…。
ブーブー
スマホがまた鳴っている。
「…。」
しかし深夜帯12時過ぎ、居室内の照明すらほぼほぼ付いていない。
碧は冷や汗を垂らして社内を見渡した。誰もいない。
ブーブー
ちらりとスマホを見るとやっぱり殿村だ。
《碧くん、なんで出ないの?そろそろ本当に心配だよ。》
《何かあった?》
殿村は海外行っていたし、そもそも海南物産の課長で…。
ブーブー
殿村が赴任していたのは欧米か?中国か?
《大丈夫じゃないよね?》
ブーブーブーブー
——————
「あー、良かった‼︎」
「楓くん…。」
エレベーターホールで、殿村は碧に抱きつかれていた。ついに殿村から電話がかかってきたのだった。
「ごめんね、やっぱり仕事中だったんだ…。全然連絡取れないから、事故とか拉致とか、心配でいても立ってもいられなくて…!」
拉致とか…。お前以外にされた事ないし、されるはずない。
窮地なのに、碧は殿村の物言いに内心少し笑ってしまった。
しかし殿村は本当に心配している様子だった。会社から一度家に帰っていたのに、再びここまでまた戻って来たのだろう。セットされていない髪が心持ちもっさりとしており、服もラフで私用の使い古した黒縁眼鏡をしている。
「本当、仕事中にごめんね!邪魔になるだろうから、俺は上の海南物産で待ってるね。終わったら連絡してね!この時間は危ないから、一人で帰るのはダメだよ!一緒にタクシーで帰ろう。」
「…あ、楓」
「?」
俺を慮り去ろうとする殿村を、引き止めてしまった…。
「…何?」
「いや…ごめん、大丈夫。何でもない。」
「本当?何かあった?」
殿村は困惑の色を濃くした。心配そうに碧の肩を掴む。
「楓くん、中国語は得意?」
——————-
そうだと思った。
殿村は語学が出来る。英語も、中国語も。
七緒が隣を不満気にチラチラと見る。
殿村はカタカタと、凄いスピードで中国語のマニュアルを作成していた。
七緒を横目で見て、殿村がふんと鼻を鳴らした。
「七緒さん、そこ、文法変ですよ。代わりに作りましょうか?」
「…分かってます!単数形と間違っただけです。」
「いやそれ、致命的だから。」
「っ!」
…多少の小競り合いはあったが、無事にマニュアルは完成した。
「楓くん、さっきはありがとう。楓くんも疲れていただろうに。」
二人で帰りのタクシーを外で待っている時、碧は何度目かの礼を殿村に述べた。
「いいよこれくらい。前にも言ったでしょ。」
「え?」
殿村は改めて碧に向き直り、その頬を撫でて微笑んだ。
「俺はいつでも碧の味方だよ。どんな事でも、どんな時でも、碧が困っていたら力になるからね。もっと頼ってね。」
「…ありがとう。」
殿村は笑いながら頷き、人目がないからと碧の手を握った。
「…。」
殿村はタクシーを探して再び前を見たが、碧はぼうっと殿村を見つめてしまった。
困っている時に駆けつけて、助けてくれた。こんな夜遅くに、きっと殿村だって疲れていたはずなのに。
街頭に照らされる、殿村の鼻筋の通った横顔。綺麗だ。大きな手が自分の手を包み込んで、それは前よりも嫌でない。
「…楓、帰ったら、する?」
「え?」
普通のトーンで投げかけられた碧の質問に、殿村は勢いよくこちらを見た。さっきまで綺麗だった顔は何処へやら、いつも涼しげな目が見開かれてまん丸になっている。
まさに、鳩が豆鉄砲を食らったって顔だな。
ちょっと笑える…。
くすりと碧は笑った。
「い、いいの?」
「うん。」
そうだ。そうあるべきだ。
じゃないと、変になりそうだ。あくまで自分は殿村に脅されているんだ。殿村は殿村で、自分への変態行為を見返りに優しくするんだ。こいつは只の変質者なんだ。
この胸中に湧く妙な感覚を否定するように、碧は頷いた。
しかしその夜は二人とも疲れていて、殿村は風呂上がりの碧の髪をまた丁寧に乾かして、その後は何もせずに寝てしまった。背中から自分を抱きしめる殿村の鼻息が、擽ったい。触れ合う箇所から伝わる心音が、心地よい。
あーあ。これではまるで、本当の恋人みたいじゃないか。
碧ばそよそよとつむじに当たる殿村の寝息を感じて、心地よい暖かさの中目を閉じた。
「先輩、俺に乗り換えますか?」
「…いや、どっちもどっちだろ。」
出先からの帰り道、ひょこひょこと腰の痛みに耐えて歩く碧に、七緒が可愛い声と顔で売り込みをかけてくる。
ダメだとは思うが、こんな相談七緒にしか出来ないものだからつい愚痴ってしまう。
「もー、俺は殿村さんみたいに、鬼畜じゃないのになぁ〜。」
「いいんだよ。殿村とは、コンペまでの仲だ。コンペが終われば、もう下手に出る必要はない!元々、担当は七緒だし、俺は只のサポート役だからな。コンペ終わり次第即刻、プロジェクトを外してもらう。そして、殿村とは速攻で縁を切る!」
「今もそんな下手に出る必要もないのにー。」
こちらへ手を伸ばす七緒を払い除けながらオフィスに帰ると、エントランスに見知った顔がいた。
「あれ、野中先輩!」
「おぉ、偶然!滝川じゃん!」
「いてっ」
すらりと高い身長に、優しい笑顔。大学時代の研究室の先輩である野中だった。野中はにかりと快活に笑い、碧の肩に自分の腕を絡めた。
「はは、なんか滝川ひょろくなったな!」
「え、そうですか?」
「…。」
野中は昔から距離感が近い。今も笑いながら腹をワサワサと触ってくる。
そんな碧達を七緒がむっとした顔で見ていた時だった。
「先輩、エレベーターきましたよ!」
「ちょっと、君達。そこをどいてくれるかな。」
「あ」
戯れる碧たちの後ろには、部下を従え眉間にシワを寄せた殿村が居た。
碧は不機嫌な殿村の顔を見て、咄嗟に宇野ちゃんとのことを思い出した。
また変に勘違いをされてはたまったものじゃない。
「たっ、只の知り合いの野中先輩!俺たち健全なお友達なのに、学生時代以来たまたま会ったから、つい嬉しくて、気持ちが上がってしまい、学生時代のノリで近づきすぎましたね!邪魔なので退けましょう!」
「え?あ、おう。」
「…。」
碧があせあせといきなり大声で話すので、野中は面食らった顔になる。殿村は、そんな碧達の横を無表情で通り過ぎ、そのままエレベーターに乗ってしまった。
と、殿村は、どんな顔をしていたんだ⁈
「…はぁ…縁を切るとか言ってるわりに、どんだけ飼い慣らされてるんですか。」
殿村が去った後もソワソワする碧に、七緒が呆れながらエレベーターのボタンを押し直した。
———-
「902円になります。」
「クレジットでお願いします。」
今日も深夜残業だ。
今月も基本給を残業代が超えるかもなぁ…。
夕飯を買ってオフィスに戻りながら、そんな事を考えていた。そしてぼんやりしたままエレベーターに乗り込み、碧は自分の階のボタンを押した。
「お帰り、碧くん。」
ガタンッ
「うわ出たっ!」
そして自分のオフィスフロアに着くと、笑顔で仁王立ちの殿村がいた。残っているのは碧の他数人程度で、照明も半分落とされて暗いエレベーターホール。そんな中でこんな…もはやホラーだ。
「《うわでた》とは、どう言う意味かな?」
「…あ、いえ、なんでもありません…。」
「碧くん、昼間の男は何?」
「あー、やっぱり。いえ、あれは唯の大学の先輩です。野中先輩と言います。」
やっぱりか。ほらきた。
殿村がニコニコと投げかけた質問に、碧は内心うんざりとしていた。
殿村は基本的に残業をしないし、ましてやうちのフロアにいるはずなんてない。わざわざこの話の為に来たのか。暇でもないだろうに、暇な奴だな。
「あのー、正直に言います。」
「うん。そうした方が身の為だよ。」
「っ、宇野ちゃんに下心はありました。」
「…。」
「だ、だけど!野中先輩には全く興味ありませんから!」
殿村の唯ならぬ雰囲気に、オーバーな身振りを付けて碧は弁明する。しかし対する殿村は笑顔で僅かに首を傾げただけだった。
「へー…本当?碧くん、懲りずにすぐ嘘つくからな。」
「…いや、本当ですって。」
「ふーん?」
「…うっ」
ニコニコと殿村が碧ににじり寄る。
「じゃ、碧くん、うちの会議室取ってるから。そこでプレゼンして。」
「え。」
そう言って殿村は碧の腕を掴みエレベーターに引き摺り込む。
碧は前に壮行会で殿村が言っていた変態プレイを思い出して青くなった。
「そこで、その…へ、変な事しない?」
「はは、何それ。可愛いな。虐めたくなるから、下手な事言うなよ。」
こいつ!やる気だ!
殿村はニコニコと笑顔のまま腕を組み、碧を見もせずに答えた。
どうしよう…会社で、もっと言うと取引先の会議室でとか、嫌過ぎる!死ぬ‼︎
どうにか、どうにか…。
「楓」
「…なに?あ、」
碧は殿村の顔を引き、強引にキスをした。殿村の目が見開かれる。
「俺は、楓が、好きです!大好きですっ!」
「……。」
「だから、他の奴にとか…あるわけないだろ?」
「……。」
碧の必死の言葉に殿村は無表情だ。
これ、どういう感情⁈
「ね、楓…。」
「…た…。」
「え?」
「勃った!」
「は?……えぇ⁈」
「碧くん!何それ⁈可愛すぎでしょ!愛おしい過ぎるよっっ!」
「えー!」
殿村は鼻息を荒げて、碧の肩を掴む。もはや目が興奮で血走っている。
碧は殿村の勢いによろけた。
「さっ、速攻で!会議室行こう!ほらっ‼︎」
「嫌っ、嫌嫌ー!誰か!助けてっ‼︎」
無情にもエレベーターが海南物産の会議室フロアに止まり、エレベータードアに必死で掴まる碧を殿村が無理矢理引き剥がした。
幸いと言うのか微妙だか、こんな深夜に会議をしている人はおらず、このフロアには碧達だけだった。
「っ、ひっ、本当、やめてっ!楓くん!流石に不味いって‼︎」
半ば転がるように会議へ押し込められた。そのせいで転けて蹲る碧に殿村は覆いかぶさり、乱暴にワイシャツの間から手を差し込む。
「ふっむっ…!」
すっぽり殿村の下に収まり震える碧に、殿村は強引にキスをした。
「あっ、か…っ、楓くんっ!ほらっ…、お、俺、楓くんとすると、気持ち良すぎで色々、で……出ちゃうから…」
「‼︎‼︎そうなの⁈分かった!もっ、直ぐに出させてあげるね、色々!」
鼻息荒い殿村がベリっと音がする勢いで碧の体を反転させ、スラックスを脱がせ始める。
「いやいや‼︎だから、会議室汚したら不味いって話!あっ、」
いつの間にかたくし上げられたシャツの下に殿村が顔を突っ込み、胸を舐める。じぃんと快感がこみ上げ、殿村を抑える手が緩む。
「はっ、大丈夫。碧くんのにも、ゴム付けるから。」
「いや、そういうっ、んんっ…っ‼︎」
殿村が碧の言葉を遮りキスをした。
しつこいキスが終わると体を起こし、何やら懐から出した袋を口で切る。
…ゴ、ゴムやん!
「っ、」
碧はとっさに殿村を蹴り上げ、ずり下げられたパンツを引き上げて逃げ出した。
「どこ行くの。」
「あぁ‼︎ごめんなさいごめんなさい!本当、無理無理無理無理‼︎」
しかし呆気なく会議室の扉前で掴まり、逆にドアに押さえ込まれる。
「俺も、」
「うっ、」
ぐりゅっと殿村のものが押し付けられた。綺麗な顔に似つかわしくない、雄雄しいそれだった。
「これで我慢とか無理っ」
「っ!」
結局、やられた。
———-
「俺は変態じゃないのに…。」
「先輩、ほんとちょろいですね。どうして俺が落とせなかったんだろう…。」
そして再び、例の如く七緒に愚痴ってしまった。
会社近くのカフェで七緒は呆れた声を出す。
「まぁ、大丈夫ですよ、先輩。俺は先輩が殿村にどんなに汚されても、傷物になっても見捨てません。先輩の帰るところはあります!」
「…。」
俺はじとりと、熱く語る七緒を睨んだ。
傷物って…。
やはりこいつもどこかつき抜きけた変わり者だ。
七緒はあれ以来、碧の前で本性を晒すようになった。その本性は真っ黒だった。口は悪いし、達観しているが故に物事を斜に構えて物事を見ている。だが恋愛は純粋なものに拘りがあるらしい。訳が分からないし、碧が思うに七緒と殿村はそう変わらない。七緒もあと数年後は殿村の様になるのではとすら思う。七緒の出世も最速だろうしな。
ブーブー
「うわぁっ!」
「いや先輩、会社からの電話ですよ。ちゃんと表示見てください。もー、毎度ビクついて…ほらっ、殿村さんじゃないですよ。」
「…ぁ、本当だ。はい、もしもし、滝川です。」
「はぁー…。」
「え?今日中ですか⁈」
「?」
ホッとしたのも束の間、結局悪い知らせだった。システムの納品日誤りがあって、今日中に納品しろというものだった。
それからはバタバタと時間が過ぎてあっという間に深夜になってしまった。
ブーブー
先程からスマホがしつこくなっている。きっとまた殿村だろう。しかし今はあんな変人に構っている暇はない。
碧はスマホを無視して黙々と手を動かした。
「よしっ、先輩、レビュー終わったら納品準備をして終わりです!」
「はー、良かった!長かったなぁ…もう、12時過ぎちゃうな。」
「ですね…。」
なんとか最後のレビューも終わり、深夜一時前には家に帰れそうだった。
問題はそんな時に起きた。
「先輩、追加機能分のマニュアルがないです…。」
「え?いやいや、ほら、あるぞ?」
碧はぺらりと、印刷した書類を碧に渡した。
「いえ、中国語版と英語版の方です。」
「…え。」
そうか、この顧客は中国企業で、中国語と英語でもマニュアルを出せと言われていた。最後に翻訳して貰うつもりが、抜けていた…。
「先輩、俺、英語は出来ますけど。」
「うん。だよな…。…問題は中国語だよな…。」
ごくりと、七緒と碧はその場に固まった。
七緒は帰国子女だから、英語は堪能だ。しかし中国語となると厳しい。ネットの自動翻訳を使う手もあるが、自動翻訳はしばしば文法がくずれるので、顧客への納品物では言語に精通した人間がチェックする事になっていた。
「…七緒、俺、社内に残っている人間で探してくる。すまんが、先に英語版の作成頼む。」
「分かりました。」
碧はスマホを手にオフィスを出た。
中国語か…。営業部のリンさんとかいると良いんだけど…。
ブーブー
スマホがまた鳴っている。
「…。」
しかし深夜帯12時過ぎ、居室内の照明すらほぼほぼ付いていない。
碧は冷や汗を垂らして社内を見渡した。誰もいない。
ブーブー
ちらりとスマホを見るとやっぱり殿村だ。
《碧くん、なんで出ないの?そろそろ本当に心配だよ。》
《何かあった?》
殿村は海外行っていたし、そもそも海南物産の課長で…。
ブーブー
殿村が赴任していたのは欧米か?中国か?
《大丈夫じゃないよね?》
ブーブーブーブー
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「あー、良かった‼︎」
「楓くん…。」
エレベーターホールで、殿村は碧に抱きつかれていた。ついに殿村から電話がかかってきたのだった。
「ごめんね、やっぱり仕事中だったんだ…。全然連絡取れないから、事故とか拉致とか、心配でいても立ってもいられなくて…!」
拉致とか…。お前以外にされた事ないし、されるはずない。
窮地なのに、碧は殿村の物言いに内心少し笑ってしまった。
しかし殿村は本当に心配している様子だった。会社から一度家に帰っていたのに、再びここまでまた戻って来たのだろう。セットされていない髪が心持ちもっさりとしており、服もラフで私用の使い古した黒縁眼鏡をしている。
「本当、仕事中にごめんね!邪魔になるだろうから、俺は上の海南物産で待ってるね。終わったら連絡してね!この時間は危ないから、一人で帰るのはダメだよ!一緒にタクシーで帰ろう。」
「…あ、楓」
「?」
俺を慮り去ろうとする殿村を、引き止めてしまった…。
「…何?」
「いや…ごめん、大丈夫。何でもない。」
「本当?何かあった?」
殿村は困惑の色を濃くした。心配そうに碧の肩を掴む。
「楓くん、中国語は得意?」
——————-
そうだと思った。
殿村は語学が出来る。英語も、中国語も。
七緒が隣を不満気にチラチラと見る。
殿村はカタカタと、凄いスピードで中国語のマニュアルを作成していた。
七緒を横目で見て、殿村がふんと鼻を鳴らした。
「七緒さん、そこ、文法変ですよ。代わりに作りましょうか?」
「…分かってます!単数形と間違っただけです。」
「いやそれ、致命的だから。」
「っ!」
…多少の小競り合いはあったが、無事にマニュアルは完成した。
「楓くん、さっきはありがとう。楓くんも疲れていただろうに。」
二人で帰りのタクシーを外で待っている時、碧は何度目かの礼を殿村に述べた。
「いいよこれくらい。前にも言ったでしょ。」
「え?」
殿村は改めて碧に向き直り、その頬を撫でて微笑んだ。
「俺はいつでも碧の味方だよ。どんな事でも、どんな時でも、碧が困っていたら力になるからね。もっと頼ってね。」
「…ありがとう。」
殿村は笑いながら頷き、人目がないからと碧の手を握った。
「…。」
殿村はタクシーを探して再び前を見たが、碧はぼうっと殿村を見つめてしまった。
困っている時に駆けつけて、助けてくれた。こんな夜遅くに、きっと殿村だって疲れていたはずなのに。
街頭に照らされる、殿村の鼻筋の通った横顔。綺麗だ。大きな手が自分の手を包み込んで、それは前よりも嫌でない。
「…楓、帰ったら、する?」
「え?」
普通のトーンで投げかけられた碧の質問に、殿村は勢いよくこちらを見た。さっきまで綺麗だった顔は何処へやら、いつも涼しげな目が見開かれてまん丸になっている。
まさに、鳩が豆鉄砲を食らったって顔だな。
ちょっと笑える…。
くすりと碧は笑った。
「い、いいの?」
「うん。」
そうだ。そうあるべきだ。
じゃないと、変になりそうだ。あくまで自分は殿村に脅されているんだ。殿村は殿村で、自分への変態行為を見返りに優しくするんだ。こいつは只の変質者なんだ。
この胸中に湧く妙な感覚を否定するように、碧は頷いた。
しかしその夜は二人とも疲れていて、殿村は風呂上がりの碧の髪をまた丁寧に乾かして、その後は何もせずに寝てしまった。背中から自分を抱きしめる殿村の鼻息が、擽ったい。触れ合う箇所から伝わる心音が、心地よい。
あーあ。これではまるで、本当の恋人みたいじゃないか。
碧ばそよそよとつむじに当たる殿村の寝息を感じて、心地よい暖かさの中目を閉じた。