禊下
「…。」
「…。」
「…少年。君が先頭に立たないと意味がないんだが。」
「わ、分かってます!!分かってるんですけど!!やっぱ怖くて!!!」
「まぁあんな目に遭ったんだし、それも通りってやつだな。少年、一緒に先頭に立ってやってくれないか。」
「あ、はい。あの、理熾さん。」
「ん?」
「俺の名前、幸村精市です。」
「うん。そうか。いい名だな。」
「ありがとうございます。それで、名前で呼んでもらえますか?」
「おう。早く一緒に先頭に行ってやってくれ、少年。」
「話聞いてくれてますか?」
話を聞いているようで聞いていないらしい理熾さんは、不服そうに見つめている幸村君の背を軽く押して赤也と一緒に先頭に並ばせた。
まるで初詣の時を彷彿とさせる光景だが、今は真夏で夕暮れ間近。
さらに新年を迎えた時のすがすがしい心持ではない。
ぎゅっと、怯えて口を引き結んでいる赤也が視界に入った。
俺の隣では制服のところどころを泥で汚したジャッカルが、心配そうに前を見据えている。
不満げ理熾さんを見つめていたものの、彼女に促され、渋々といった体で幸村君も赤也の隣に並んだ。
震える赤也の肩をぽんぽんと軽く叩いた幸村君は、一度大きく深呼吸をして凛とした瞳で目の前の祭殿を見据えた。
決して睨む訳ではないけれど、覚悟を決めたような彼の瞳にすっと背筋が伸びた。
俺達の空気が、まるで試合前と同じようにぴんっと張る。
それに理熾さんは驚いたように何度か目を瞬いていたが、やがてふ、と小さな笑みを浮かべていた。
「すみませんでした!!!」
大きな謝罪が、夕暮れの境内に木霊した。
澄み渡る空気にその声は綺麗に響いた。
しん、と降り積もる静寂の中、先頭に立って深く頭を垂れた後輩に合わせるように、俺達もゆっくりと頭を下げた。
後輩の声が、今度こそ届くように。
理熾さんは何も言わずに、じっと俺達を見ていた。
頭を下げた姿勢のまま、決して短くはない時間が過ぎる。
10分だったかもしれないし、5分も経っていないのかもしれない。
誰も頭を上げる事も、身じろぎする事もなく時間が過ぎる。
その間も理熾さんは何も言わず、ただ黙って俺達を見ていたんだろう。
頭を下げた姿勢のままだから、正確には判らないけれど。
木々の騒めきや、鳥の嘶き。
遠くに子供達の笑い声も聞こえた気がした。
段々と上体を支える腰が重くなって、深く下げていた頭が無意識に上がっていく。
その度にはっとして、もう一度頭を同じ位置まで下げる。
太腿に力が入って、気を抜くとふらついて倒れてしまいそうだった。
足の指にぐっと力を込めて、微動だにしないように両手でズボンを握りしめた。
だってもしかしたら俺の適当な態度のせいで、赤也に怒りが向いてしまうかもしれない。
後輩が目を見開いて、地面を抉り、喉を掻き毟る姿が脳裏を掠めた。
必死で声をかけて、その背を意味もないのに擦っていた時、俺は苦しみもがくその瞳と視線がかち合った。
その時確かに、瞳孔の開いた赤也の目は俺を映し、
そして俺に向けて音の出ない唇を動かして言ったのだ。
「たすけて」と。
その光景を思い出して、目を瞑った。
無意識に体が強張る。
何もできなかった。
後輩が苦しんで、俺に助けを求めているのに、
俺は何もできなかったんだ。
弟のように可愛がっている後輩に、なにも。
その時、あぁやっぱり神社になんて来るんじゃなかった。そう思った。
赤也を連れてこなければ。
俺が大丈夫だなんて無責任に言わなければ。
理熾さんが来てくれて、事なきを得たけれど、もしあの声が彼女に届かなかったら?
赤也はどうなっていた?
仲間はどうなっていた?
それは誰のせいだった?
爪が食い込むほど、両手を握りしめた。
お願いです。
赤也を、許してやってください。
軽率な行動をとってしまったのは、俺が悪かったんです。
だから、必死で友達を助けようとしてきた赤也を、許してやってください。
どれほど、時間が経ったんだろう。
理熾さんの溜息が聞こえた。
「…もう、赦してもいいんじゃないですか?」
その声に、え。と思わず顔を上げた。
呆れたように頭を掻く理熾さん。
でも、それに応えるような人物は見当たらない。
その時
ふふ、という軽やかな笑い声が耳朶に響く。
瞠目する俺達は慌てて辺りを見渡した。
そして「あ、」と呟きが漏れた。
固まってしまう俺の視線を辿った部員たちが、先程まで頭を下げていた祭壇を見やった。
階段に腰掛ける、青年。
足元まで伸びる艶やかな黒髪と、白磁のような肌。
黒々とした睫毛に縁取られた、色素の薄い瞳。
淡く笑みを湛えるその貌は、まるで人形のように整っていて、目尻には赤い化粧が施されている。
その青年が纏うのは、教科書で見た直衣だった。
まるで平安絵巻から飛び出した光源氏のようなその人を凝視していると、袖口で口元を隠しながら、青年はクスクスと上品に笑った。
「こんなに大勢に見つめられると照れてしまうなぁ。」
耳に残るその声は清廉で、気高く、それでいてどこか色っぽさを含んでいた。
じっと見つめていた俺は、その言葉にはっとしておろおろと理熾さんを振り返った。
どうすればいいのか分からなくなったのは俺だけではないようで。
全員の視線を受け止めた理熾さんは苦笑して、祭壇に腰掛ける青年を見た。
「意地悪いですよ。彼らの心根の素直さは見たでしょうに。」
呆れた様子の彼女の言葉を受けて、青年はくすりと笑みを深めた。
細まった眼が妖艶に光った気がした。
「いやなに。真摯に謝ってくれているのは解ったけれどね。さすがにこちらも灯篭を壊された身。そう簡単には赦す気になれなくてね。」
ふわりと、衣擦れの音を立てて青年が立ち上がる。
階段を音もなく降りるその姿は目に見えない荘厳さを漂わせていて、俺は激しく脈打つ心臓の音を聞いた。
そして確信する。
この青年に、赦しを請わなければならないのだ。と。
硬直してしまう俺達をよそに、祭壇を降り、間近まで進んできた青年は、目を細めて赤也を見つめた。
びくんっと、大袈裟な程その肩が跳ね上がった。
音が聞こえてきそうな程にその四肢が震えている。
冷や汗を垂らしながら、俺達はその様子を窺っていた。
「わざわざ荒魂の社まで来てくれたね。」
「あ、の…っ」
「君は灯篭を壊した子達を止めてくれていたようだけれど…どちらにしろあの場に悪ふざけでいたという事がいけないのだと、理解しているかな。」
青年の細められた瞳が烈火の如く赤に煌めいた。
炯々と揺らめいたそれは、確かに先ほど追われた面のそれで。
俺達はどっと質量が増した気がして崩れ落ちそうになった。
ふらつく俺達を気にする事なく、青年はただ憤怒を向けた赤也を見下ろしていた。
掠れた息を漏らしてばかりの赤也を、俺達はじっと見つめていた。
何も動かない、動けない中で、いつもよりか細い、絞り出したような声が聞こえた。
「すみっ…ません、…でした…っ」
嗚咽の中で、ようやく聞き取れた謝罪。
滝の様に涙を流しながら、それでも視線を逸らす事無く青年を見つめていた赤也。
すると青年はふ、と笑った。
それまでの威圧感や憤怒の空気が一瞬にして掻き消える。
残ったのは荘厳な空気だけ。
それまで傍観に徹していた理熾さんが笑みを浮かべながら赤也の頭を撫でているのを見て、赦してもらえたのだと理解した俺達は無意識に大きく息を吐き出した。
「荒魂を垣間見せるなんて質の悪い。」
「一応確認の為にね。」
蝙蝠扇を口元でゆらゆらと揺らしながら、青年は穏やかに微笑んだ。
そして傷だらけの理熾さんの右腕を白く長い指で指し示した。
「理熾のその傷も治さないといけないね。」
あ、と呟いた青年はこちらを振り向いて、にっこり笑った。
悪戯をする前のように楽し気な表情で、口を開いた。
「君達の傷は治してあげないよ。一応罰だからね?」
俺たちはたじたじになりながらも、頷いたのだった。
赤也、よかったな。
俺は心の中で呟いた。
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